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第37話
小木が、呼んだタクシーで、二人は小木宅へ向かった。
おそらく電車ではなく、タクシーを呼んだのは、そうした方が、永井が逃げにくいと考えたからだろう。
車中、小木が助手席、永井が後部座席に座ったので、たいした会話もしなかったが、密閉されたところに長いこといると、永井には、息苦しく感じられた。
小木の家に行くのは、今回で、二度目だ。
最初の時は、気付かなかったが、寝室以外に玄関の隣にもうひとつ部屋が、あるみたいだ。
基本的に小木の家の中は白で統一されているので、恐らくもうひとつの部屋も白で統一されているのだろう。と、永井は想像する。
小木に先導されるままリビングに入ると、小木が、永井を振り返った。
「永井くん、暑いだろ?上着貸して。掛けるから。」
「ありがとうございます」
永井は、軽く一礼し上着を脱ぐと、それを小木に渡した。
小木は、それを受け取るとハンガーに掛け、壁にひっかけた。
「そこのソファに座って、ちょっと待っててね。用意するから。今日は、このあいだ一緒に飲んだお酒とあの店で人気のあるお酒が、あるんだ。つまみは、もらい物のイカがあるから、それを切っちゃうね」
「はい。」
永井は、素直に返事をし、ソファに座った。そして、小木が、背を向けると、念のためバッグの中から携帯をバッグから取り出し、スラックスのポケットのしまった。
周りをきょろきょろしてみるが、特に変わったものがあるようには、思えない。
「小木さんて普段から、料理するのですか?」
小木の背中に話しかける。
「たまにね。つまみを作る程度だけど。今日は、手抜きでごめんね。」
言いながら、小木が振り返り、イカの刺身とイカの塩辛をテーブルへ並べた。
「そのような事ないですよ。このイカの塩辛って、手作りですか?」
「いちおうそうだよ。これくらいしかできないけど。」
「謙遜しないで下さい。こう言うの作れるのって尊敬します。」
「そう?どうもありがとう」
「何かお手伝いしましょうか?」
「大丈夫だよ。君はお客様なんだから座ってて。それにこれ置いたら終わりだから。」
小木が、永井に笑みを向けながら酒とグラスと小皿と箸をテーブルに並べていく。そして、並べ終えると永井の隣に座った。
日本酒のキャップを開け、お互いにグラスに注ぎあうと、小木は、永井の背もたれに手を置いた。直接背中を触られているわけではないのに永井の中で妙な警戒心が芽生え、永井は、その手を気にしつつ、小木とグラスを合わせた。
この間よりは、ゆっくりなペースで、二人は一本目の日本酒を空けた。
「そうだ。忘れないうちにケーシー持ってくるね。」
「はい。ありがとうございます。」
小木が、リビングを出ると、気温のせいもあり、暑さを感じていた永井は、立ち上がり、リビングからすぐ出られるベランダに出てみた。
サンダルを履き、柵にもたれながら、周りを見渡す。
若干火照り気味の頬にそよぐ風が、気持ちいい。
「永井くん、ひとりで酔いさまそうなんて考えちゃダメだよ。」
「あ、すみません!」
少しして、背後から小木の声がしたので、永井は、振り向いた。
目の前には、いつのまにか二つのグラスを持った小木が、綺麗な笑みを浮かべ、立っていた。
「びっくりしたあ。いつのまにいたのですか?」
「ひどい言い方だなあ。ひとを化け物みたいに」
「そう意味で、言ったわけではなかったのですが…。ただ少し驚いたもので…」
「あはは。分かったよ。ほら、これ飲んだら、中に入ろう。虫が入るといけないからね」
「はい」
しどろもどろになってしまった永井を小さく笑いながら、小木が、並々酒が入ったグラスを永井の前に差し出した。
永井がそれを受け取ると、小木がカチンとグラスを合わせ、一気に自分のそれを飲み干した。永井もつられて飲み干す。
一瞬で永井は明らかに先程飲んだ酒より度数強いことに気づいた。
頬が熱くなり、冷めたはずの酔いが、再び蘇っていくのを全身で感じた。
一瞬だけくらっと来て、体が傾きかける。
「ほらほら、危ないよ。」
「!?」
小木が微笑みを携えたまま、永井の腰を抱いた。
後ろに回された腕に永井は、恐怖心を抱き酔いも手伝ってかグラスを持つ手から力が抜け、グラスを足下に落としてしまった。
パリン。コンクリートにグラスの破片が散る。
「驚かしてごめん。大丈夫?怪我はない?」
小木が柵に自分のグラスを置いてから、しゃがみこみ破片を拾い集めながら、永井を見上げた。
「大丈夫です。すみません。…痛っ」
破片を拾うのを手伝おうと動いた拍子に永井は、左足の親指で小さな破片を踏んでしまった。
鈍い痛みに永井は、眉をしかめる。
次第に増すズキズキとした痛みと共に靴下に赤い血が滲んでいく。
「柵掴んでていいから、少しそのままじっとしてて。この破片、捨ててきちゃうから」
「悪いです。俺、自分で破片拾います。」
小木が、永井の親指を軽く擦りながら、言う。
「いいから!待ってて」
「小木さん…」
小木が、強く言い、拾い集めた破片と、グラスを持って中へと戻っていった。
永井は、小木に言われたまま、じっと待つことにした。
少しして、小木が再びベランダに戻ってきた。
「暴れないでね」
「!?」
言うや否や突然、永井の身体が、仰向けのまま浮き上がった。小木が永井の腰を持ち上げ、自分の肩に永井の身体を担いだのだ。
俵のように肩に担がれ、パラパラとサンダルが、地面に落ちていく。永井の視線の先には、逆さまにリビングが映る。小木は、片手で永井の腰をがっちりと支えると、永井の手を自分の手に掴まらせ、方向転換をし、リビングへと進んでいく。
永井は、暴れるどころか怖さから、声も出せずにいた。ソファの前で、永井の腰を両手で抱きかかえると、丁寧にその身体を仰向けのまま下ろした。
「……。」
「……。」
まるで永井は声を失ったかのようにソファに仰向けになったまま小木を見上げたまま無言でいた。怖かった。それだけだ。
小木は、微笑みを浮かべたまま永井の傍らに座り込み、永井が口を開くのを待っている。
「…小木さん、いきなり驚きますよ」
漸く永井が上体を起こして言葉を発した。
「担ぐのが、手っ取り早いと思ってね。もしかして、声も出ないくらい怖かった?」
「そんなこと…ないですよ。驚いただけです」
見透かされたことに気恥ずかしさを感じ、小木から目を逸らしボソリと答えた。
「そう。暴れなかっただけ、褒めてあげようね。それじゃあ、これから破片抜いて、消毒するから、破片踏んだ方の足を僕の膝に乗せてね」
「すみません…」
小木が、永井の隣に正座し、左足首を持ち上げ、永井の意思を聞く間もなく、膝にそれを乗せた。永井は、捕らえられた足に目をやる。
そして、小木が永井の靴下を脱がせた。靴下に患部を擦られ、痛さに一瞬だけ、永井は顔を歪める。
「永井くんって、足の指長いねぇ。」
「自分では、よく分からないですけど、言われたことは、ありますね。…痛っ」
小木は、救急箱から毛抜きを取り出し、永井の足をまじまじと見ながら、足の親指の裏に突き刺さっている小さな破片をつまむ。
毛抜きが、患部に触れ、また鈍い痛みに永井は顔を歪める。
小木は、永井の息を呑む小さな音や苦痛に顔を歪める永井の顔を見やり、僅かに口元に笑みを浮かべた。
「取れたよ。あとは、消毒して、絆創膏を貼れば終わりだよ」
「ありがとうございます」
小木が、欠片をティッシュにくるみ、テーブルに置くと、永井が軽く頭を下げた。
小木は、いい人なのかもしれない。と、永井が思ったのも束の間、
「な、何するんですか!?」
小木が、永井の左足を高く持ち上げたのだ。ふいなことに状態が崩れ、永井の身体は、ソファへと仰向けに寝る形になってしまった。
「ねぇ?永井くんはこういう経験したことある?」
「ひっ!」
小木が、ニタリと笑ったかと思うと、永井の親指を口に含んだ。
そして、舌で、親指の裏をチロチロと舐める。永井は、その自分の親指の裏を蠢く湿り気のある感触に嫌悪感しか沸かず、鳥肌がたってしまった。
右足で、小木の顔を離そうとするが、逆に足首を捕らえられてしまった。
「お、小木さん、冗談きついですよ。もしかして、酔いが結構まわってますか?」
顔を引きつらせ、小木を見上げる。
「多少はね。でも、冗談ではないよ。本気で僕は、君の身体を知りたいと思ってる。どこを奏でれば、どんな音が鳴るのかってね」
顔を上げ、左足に顔を寄せながら、ねっとりと絡みつくような視線を永井に浴びせる。欲望を宿した瞳に永井は、小木が本気だということを悟る。
「本気なら、尚更、やめてくださいよ。俺は、小木さんにそういう感情はないのですから」
「なければ、その気にさせるまでだよ。」
「うわぁっ!」
永井が、上体を起こそうとすると、小木が、低く冷たい声を発しながら、立ち上がり、永井の足を下方へと押しやった。まるで、引っくり返った蛙のようになり、永井は起き上がれない。
腕を伸ばし、小木の手を退けようと必死にもがく。もがいているうちに小木の白いシャツの袖がまくれ、左腕に噛み跡のような傷が現れた。
犯人の腕を噛んだという蓮見の言葉を思い出し、疑惑が確信へと変わり、永井は憎しみを込めた目で小木を睨みつけた。
永井の表情の変化に気付いた小木は、足を掴んだままゆっくりと視線を自分の左腕へと動かした。
「ああ。これ?これは、君が察したとおり、あのガキが噛んだ跡だよ。ただ骨を折るんじゃなくて筋まで痛めつけときゃよかったて、後悔してるよ」
「ひど…。なぜ、そんな残酷なことが出来るのか俺には信じられない!」
「そりゃあね。君に触れる人間が許せないからだよ。」
「触れる人間って…。やはり、痴漢オヤジもあなたが、犯人だったのですか!?」
「そうだね。でも、あのオヤジには感謝してるよ。あの日、あいつが君に痴漢しなかったら、僕は君と再会しなかったかもしれないからね。いやあ、あの時痴漢をされてる時の君の耐えている時の顔やただされるだけでなく反撃しようとするその心の強さに僕の心は、奪われてしまったんだ。愛してるよ、永井くん。」
小木は永井の腿を跨ぎ、膝裏を掴み、そのまま下方に押しやり膝をクッションに押し付けた。そして、体重を乗せて永井に顔を近づけた。
「あなたは狂ってる。人の命に携わる職業なのに…いやそれ以前に人としてどうかしています。」
苦しい体制になっても永井は、怯むことなく小木を睨み付けた。
「その原因を作ったのは君なんだよ。全ては、君が狂わせたんだ。ガキもオヤジも僕も。そして、君の大事な一条もね。」
「俺が先生を?」
僅かに永井の瞳が揺れる。
「いつだったかなぁ。研修医室のベッドで二人で何してたのかなぁ?」
楽しげに言い、永井の顎をチロリと舐めた。
「なんでそれ知ってるんですか!?あれは…薬を塗ってもらっていただけですよ。別に疚しいことなんか…」
疚しいことはしてないが、疚しい気持になりかけた自分を思い出し、言いよどむ。
「薬ねぇ。でも、その映像があったとしたら、どうする?上の人間が観たらどう思うかな?将来有望な医師が、研修医たぶらかして、しかも、それが男だなんて、一条先生の立場はどうなるんだろうね」
「それは…」
「嫌だよね?警察も動いてるし、多分僕は明日あたり傷害罪の方で捕まるだろうね。それ以外にもあるしねぇ。そうしたら、僕の部屋いろいろと荒らされるだろうしねぇ。明日までに君と一条に関するものを消してしまえば、バレない可能性も高いよね。君しだいで、僕の意思はどうにでもなるんだよ。僕は君が好きなんだから。」
「……。」
不気味な笑みを浮かべ、永井の耳元で囁く。
耳にかかる息の気持悪さに永井は、かぶりを振るが、睨みつけるように再び小木を見つめた。
自分のせいで、一条の立場が悪くなることだけは、避けたかった。行動次第で一条の将来を守れるのならばと、
「……分かりました。」
永井は、覚悟を決めた。
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