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第43話

「さっきから、どうしたんですか?夕方、院長室に呼び出されてから、何か変ですよ。」  勤務時間が終わり、車中、永井が怪訝な顔で尋ねた。 「そうか。いや…。たいしたことはないんだけどな。それよりも明日、お前休みなんだし、今日もうちに来るよな?」 一条が、一瞬だけ顔色を曇らせてから、永井を横目で見てニヤリと笑った。 「ええ。って、俺が、返事をする前に車は、先生の家に向かってますよね?」 永井が一条を見て、不機嫌な声を上げた。 「さすが永井だな。ばれたか」 「ばれたじゃないですよ。うちと先生のうちは、正反対なのだから、それぐらい分かります」 「ははは…」 一条は、永井に笑いかけた。  今日は、小木が捕まり、病院内に警察が立ち入ったりと騒がしく、慌しい一日だったが、こうして永井と車の中で普通の会話ができている今に一条は、幸せを感じていた。  あの永井に関するものは、一条が、永井がうちで寝ているうちにすべて処分したし、知り合いの警察に頼んで、永井には、何も触れないようにと計らったのである。そのおかげで、永井は警察に他の同僚と同じような簡単な質問を受けたくらいで、直接個人的に取調べを受けるようなことは、なかった。  このまま時が過ぎて、あの事件も永井の傷も癒えて、医者として一人前にそだってくれればいい。と、一条は、赤信号中、車を止めたときに見つめた永井の顔にそう願った。 慈しみを込めた目で見つめられ、永井は、その眼差しに安堵を感じ、控えめに微笑を返した。 永井としても一条の表情に安堵は感じているのだが、素直にそれを受け入れられない自分を感じていた。  「あの、すこし寝ても大丈夫ですか?」 沈黙の中で自分の不安が悟られないようにと永井は、自己防衛のために目を閉じることを選んだ。 「構わないよ。いろいろあって疲れただろ?寝れるときに寝ろ」 「はい。…ははは。」 返事をしてから、ふと永井は、自分が初めて一条の車に乗せられたことを思い出し、笑い声を漏らした。 「どうした?急に笑い声上げて」 「思い出したのですよ。俺が初めて先生の車に乗ったときのことを。そのときも先生に『寝れるときに寝ろ』って、いわれたなと思いまして」 「たしか落雷が落ちて電車が動かなくなったから、俺が、お前を送っていった時だったか?それで、お前を送ったあとに病院からお前の患者が急変したという連絡が入って、Uターンしたんだよな。あの時のお前は本当にかわいげがなかったよなぁ。」 「あの時は、すみませんでした…」 永井は、一条と出会った時の自分を思い出し、白い頬をほんのりと赤く染め、しおれた声をだした。 「謝らなくていいよ。過去は過去だ」 「ありがとうございます。」 永井は、小さく頭を下げてから、瞳を閉じた。  一条は、永井を横目で見ながら、あまりのかわいさに抱きしめてやりたいという衝動に駆られた。しかし、今は運転中である。おあずけをくらった犬って、こんな気分なのか?と、ひとり自問し、まさかこの歳になって、こんなまどろっこしい想いをするなんてと、苦笑いを浮かべた。 革張りの黒い大きなソファに座り、永井はジャケットをソファに掛け、落ちつかなげに辺りを見渡している。朝はいつの間にかここに連れて来られたので、改めてじっくり見ることはなかったが、一条の部屋は、広い。  6畳の1DKの永井の部屋とは違い、一条の部屋は、10畳と8畳の部屋がある2LDKである。モノトーンで統一された家具たちは、どれも高級そうで、永井としては、目を見張るばかりだ。  今、一条は、スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを解き、Yシャツの袖をまくり、キッチンに立ち、タラコパスタと玉子スープとサラダにかけるフレンチドレッシングを作っている。  「先生って、今まで彼女にもこうやって、作ってあげたりしてたんですか?」 部屋の観察を終えた永井が、一条の背中に向かって聞く。 「ないに等しいな。お前見てると、栄養取らせなきゃって、思ってしまうんだよ」 「ええっ!?俺ってそんなにいつも具合悪そうに見えますか?色が白いからって、心外です。体脂肪だって15%あるのですよ。」 永井が、一条の背中に向かって、キッと睨み付ける。一条は、そんな永井の表情を背中に感じながら、自然に頬を緩ませる。 「男の15%はコメントしづらいな。怒るなよ。もう少しで、できるからな」 「はい」 一条は、茹で上がったパスタの水を切り、ボールにうつして、サッとバターとタラコを絡めた。そして、皿に移し、マヨネーズで綺麗な線を描き、三つ葉を添えた。マヨネーズとバターの匂いが、立ち込めている。 「先生、運ぶの手伝いましょうか?まだ手首が痛むのではないですか?」 「いい。お前は客なんだから、座ってろ。それに手首はだいぶ痛みも和らいだよ。ほら、包帯もじゃまだから、取ったしな」  一条が、パスタの入った皿をひとつは二の腕にもうひとつは、掌で抱え、もう一方の手で玉子スープとサラダとスプーンとフォークを乗せたトレイを持ち振り、永井の方へと歩いて行く。  永井は、慣れた感じで、食べ物を運ぶ一条に感心してしまった。 「先生って、そういうバイト経験あるんですか?」 皿を並べ終え、一条が、永井の隣りに座った。 「ああ。だいぶ昔だけどな。高校時代にファミレスでバイトしてたんだ。」 「ええっ!?ファミレスに先生が?…ぷっ」 一条の意外な過去に永井は、思わず吹き出してしまった。瞳に涙をため、口を押さえたまま一条を見る。 「おいおい。そんなに笑うことか?今は、いい年だが、俺だって、高校生だったことは、あるんだ。」 「すみません。笑うつもりでは、なかったのですが、先生とファミレスという組み合わせがどうも結びつかなくって。気分を害したのなら、謝ります。本当に申しわけありません」 吹き出したものの根は真面目な永井である。一条の言葉にすぐに表情を元に戻し、彼に頭を下げた。 「そこまで謝らなくてもいい。いいから、頭をあげろ。メシがまずくなる」 「はい。すみません」 「その言葉は、いらない。お前の誠実さは十分に分かっているから、その言葉でなくて、他の言葉でそれをつたえるようにしろ」 一条は、永井の肩に手を置き、厳しく言う。 「はい。す…ありがとうございます」 「ぷっ…」 顔を上げ、永井がまっすぐに一条を見据えた。彼が思わずいいかけた言葉に一条が、気づき、今度は一条が吹き出してしまった。  永井から目を逸らし、肩を震わせる。 「先生、どうして笑ってるのですか?俺、何か変なこといいましたか?」 「いや。お前は悪くないんだ。お前は本当真面目なやつだと思っただけだ。ほら、食え。作ったものが冷めちまう」 「…はい」 いまいち腑に落ちないといった表情を浮べ、永井は促されるまま料理に手をつけた。まずは、フォークとスプーンを使って、タラコパスタを食べる。それほど凝ったものではないが、自分で作るものよりは、遥かにおいしく感じられた。 「先生、おいしいです」 「それは、よかった」 永井が、笑顔を浮べ、一条の顔を見つめる。一条もそれを見返し、笑顔で返した。  穏やかで平和なひと時が、過ぎていく。笑顔の増えた永井に一条も安心し、永井もまた自分に病院内では見せてくれないような表情の一条に新たにときめいていた。 「皿洗いくらいは、やりますよ。何から何までやってもらうのは、俺としても納得いかないので」  料理を食べ終え、永井が空になった食器を重ねていく。 「お前ってやつは、そのまま人の厚意に甘えてられないのか?」 「多分、それは先生が男で、俺も男だからなんでしょうね。変なところでプライドが高いのですよ。できるだけ、対等でいたいと思ってしまうのです。」 永井は、一条に自嘲気味に笑ってみせ、重ねた皿を持ってキッチンに向かった。  ジャー。水音がキッチンに響いていく。永井は、丁寧に皿を洗う。  一方一条は、ソファから永井の背中を食い入るように見つめている。  艶のあるサラサラした質感のこげ茶の髪が、白いうなじにマッチしていて、色っぽい。肩幅はほどほどにあるが、痩せた背中は頼りなく、無防備で危うげな雰囲気を纏っている。  今、抱きしめたら、背面恐怖症のあいつはどんな反応をするだろうか?怯えて、動けなくなる?それとも俺からにげるだろうか?と、一条はその背中に問いかける。  拒絶されたら止めるつもりだが、されなかったら、俺は欲望のままに続行してしまうだろう。  悪いな、永井。俺も結局根本はあの男と変わらないのかもしれない。 ゛お前が欲しい゛  一条は、心の中で呟き、自嘲気味に笑ってから、永井の背中めがけて動き出した

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