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第2話

「椎葉さーん、ミーティングそろそろ準備しますけど、来れますかー?」 「あぁ、会議室もう空いたって?」 「さっきゾロゾロと出てきてましたー」  わかった、と返事をしてノートパソコンを閉じた奈央は、下を向いていたせいでズレたメガネを掛け直すと、席を立った。  ここは、情報通信関係の業務をメインとする会社の、とあるフロア。  入社4年目の奈央は、新人を脱却し、若手の有望株として案件のプロジェクトマネージャーや後輩の育成を任されるまでになっていた。 「部長が戻られたか確認したか? 本社とも繋ぐんだろ、向こうの担当者と時間の調整は?」 「あ……部長はさっき見たと思うんですけど……時間は今返事待ちでー、えと、ちょっと待ってください」  バタバタと走り回る後輩に小さく溜息をついた奈央。その姿は若干の冷たさと近寄りがたさがあった。  本来は、小柄で、幼くも見える甘めの顔立ちをしていたが、それ故に、ナメられたり馬鹿にされることも多く、虚栄するように伊達眼鏡が手放せなかった。  細いフレームの眼鏡に、意図した無表情で取り繕う姿は、ビジネスにおいては正しい選択だったようで、今では見た目で損をすることなく、どんな相手とも対等に仕事をこなせている。反面、誰に対しても同じような態度を崩さないせいで、友人と呼べる存在はいなかった。勿論、恋人なんてものも。 「椎葉さんっ、皆さん予定通りの時間で大丈夫だそうです。……あ、もし間に合えばお偉いさんが1人、遅れて参加するとのことでした。今、移動中らしくて……」  これから始まるミーティングは、部下をメイン担当に押し上げるために取ってきた、新しい案件のキックオフだ。この仕事を通じて一人前に育って欲しいと思い、なるべく口出しはしないつもりだったが……最初からコレだと先が思いやられる。 「はぁ……そういう人はどうせ来ないだろう。時間通りで良いって言うなら、さっさと準備を始めよう」 「はいーっす!」  ……けれど。  この時、参加者の詳細をきちんとチェックしておくべきだった。  まさかこの会社に、あいつがいたなんて。  大学の時に決別してしまった親友と、こんなところで再会するなんて。  ……カケラも想定していなかったのだ。   *** 「――部門の……です。本件では……に関しての窓口を担当させて頂き……」  緊張しきった後輩が司会する、キックオフミーティング。  奈央にとっては何度も経験し、今更何の困難もない簡単な顔合わせ、の筈だった。  なのに、 (うそ、だ……なんで、こんな所に……)  順調に進んだミーティングも中盤に差し掛かった頃、控えめなノックと共に開いた扉から、1人の参加者が入ってきたのだ。  50を超えた部長が、恐縮しきったように席を勧めるのを見て、遅れて参加のお偉いさんなのだろう、とすぐにわかった。ちゃんと来たのか、と冷ややかな目線を向けた奈央は、堂々とした足取りで席に着いた、スラリと若い男の顔を見て、絶句した。  それは、お偉いさんにしては若すぎるとか、俳優やモデル以上の美形で驚いたとか、周囲の注目を全て掻っ攫った壮観さに唖然としたとか、そんな事ではない。 (……志貴……!?)  数年ぶりの再会だったが、この男を見間違うわけがない。こんな目立つ、別格の男を。  だって高校も大学も、一番近くで過ごした仲なのだ。あの頃は親友だと思っていたし、絶大の信頼を寄せていた。  ……あんな形で裏切られるまでは。 「…………っ」  衝動的に視線を落とした奈央は、パソコンのディスプレイから顔を上げられないまま固まっていた。キーボードに置かれた指先は、微かに震えている。  それ程に動揺したのだ。 「――ご質問は無いようですので、えっと、では続きまして……あっ。あー、あの、宜しければ、そちらの遅れて来られた方のお名前も、頂戴して宜しいでしょうか……?」  狼狽える奈央に気付かない後輩が、話題の切れ目に紹介を促してきた。 (嫌だ、聞きたく無い……っ)  他人の空似ならいい。自分のトラウマを再認して、無理やり蓋をすれば終わる事だ。  でも……志貴だったら……? 「ぁあ、遅れて申し訳ありません。この春、グループ本体から出向という形で取締役となります、須賀宮 志貴(すがみや しき)です。普段の皆さんの仕事の進め方を知れたらと――」  目の前が真っ暗になった気がした。  耳に馴染んだ心地よい声音も、喋り方も、全部が全部、懐かしすぎて切ない。  わざと地元を離れて就職したのに。  こんな感傷とは決別したはずだったのに。  流れるように続ける志貴の話なんて、全く頭に入って来なかった。 「――では、本日はお時間を頂き有り難うございました。これから宜しくお願いします」  定刻でキックオフミーティングは解散となり、会議室に集まった十数人が一斉に動き出した。  その殆どは、あわよくば若き取締役である志貴に声を掛けて貰いたいという、チラチラとした視線を投げていたが、奈央は違う。  後片付けを後輩に丸投げして、忙しいフリをしながら俯きがちに会議室を後にすると、足早に廊下を歩き出した。  息の詰まりそうな空間を脱出し、震える息を吐いた奈央は、一度も志貴と目が合わなかった事に安心しながら、エレベーターのボタンを押す。 (もう全員の紹介は終わってたし、システム側のメイン担当は後輩だし、十数人もいたんだから、きっと気付かれてない……はず……)  そう思いながらも、全く気付いた様子のなかった志貴に、少しの寂しさと腹立たしさをも感じていた。  あんなに一緒にいたのに、たった3年ちょっとで忘れられるなんて……と。本当に俺の存在なんて気にも留められてなかったんだな……と。  普段の、怜悧で落ち着いた奈央の外装は剥がれ、眼鏡で誤魔化してきた弱さが見え隠れしていた。 (煙草……吸って落ち着こう……)  ようやく開いたエレベーターに素早く乗り込んだ奈央は、屋上のボタンを押した。禁煙が叫ばれる昨今、煙草が吸える場所なんて限られている。  ポンッ……と音を立てて扉が開き、屋上へと到着すると、片手にノートパソコンを抱えたまま、目の前の扉を開けて屋外へと出た。  外は気持ちの良い天気だった。まだ午前中ということもあって日は高く、爽やかな風が心地良い。  偶然にも喫煙スペースには誰もおらず、人と会話をする気になれなかった奈央は、タイミングが良かったと安堵した。  ベンチに腰をかけ、胸ポケットからロングタイプのボックスを取り出す。  少し億劫そうな動作で箱を開け、一本を取り出して口に咥えた。そして同じく箱の中に入れておいた使い捨てライターを取り出すと、左手で風除けを作りながら点火する。  オレンジに揺らめく炎を見つめながら、咥えた煙草の先端を炙ろうとして――、 「――いつからそんなものを吸うようになったんだ、奈央」  ……視界に影が差したと思った時には、煙草が奪われていた。  火を点けようとした体勢のまま、衝撃に固まる奈央。  見開かれた目の前では、男らしく少し節ばった手が煙草を持ち上げ、……ぐしゃり、と握り潰した。  紙が破れ、茶色い煙草の葉がパラパラと風に飛んでいくのを、ただ呆然と見つめることしか出来ない。 「……志、貴…………」  引き攣れた声で呟いた名前に、小さく笑うような息遣いが聞こえた。  ――背後に、志貴が立っている。 「久しぶりだな、奈央。また伊達眼鏡を掛けているのか? せっかく掛けなくなったのにな」  取り上げた煙草を握り潰したとは思えないほど、穏やかで、にこやかな声音の志貴。  だが奈央は、凍ったように後ろを振り向けない。  今さっき逃げてきたはずの相手が、こんな至近距離にいるという衝撃に、思考が追いつかないのだ。  その間にも目の前の手は、軽く煙草の葉を払うと、奈央の手からライターを奪い、胸ポケットにしまったボックスをも取り上げた。 「これは没収、だ。身体に悪いからな」  あくまでも穏やかな言葉に、混乱する。  冗談なのか何なのか、どう反応したら良いのかもわからず、ただゆっくりと、座ったまま背後を振り仰いだ。 「……志貴……は、相変わらずだね……」  そこには、さっき会議室で会ったそのままの志貴が、立っていた。 

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