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第3話

 それは、大学4回生の文化祭前だった。 「っつー……切った……カッターが滑った……」 「何してるんだ、不器用。早く保健室行ってこい」 「あー……ま、いいよ。これぐらい。確か絆創膏持ってたし……」  講義の無い時間に、空き教室で文化祭の準備をする……そんな、他愛もない日常で、たまたま指を切ったのだ。  眉を寄せる志貴に、心配をかけるまいと笑いかけ、ポタポタ垂れる血をハンカチで押さえる奈央。 「そこの鞄の内ポケットに絆創膏入ってない?」 「……いいから保健室で消毒してもらえ。ここはやっとくから」 「こんなのすぐ止まるよ。わざわざ保健室まで行くのも面倒だし……」  話している間にも、圧迫止血で殆ど血は滲まなくなってきている。こんな程度で保健室に行ってたら、鼻で笑われるだろう。血が出るような怪我なんて、本当に久しぶりだったが、それだけだ。  それだけの筈、だったのに、 「血を流したままにしておくな。……吸血貴が近くにいたら、喰われるぞ」  どこか呆れたような言葉に、ただの冗談だと思った奈央は、吹き出すように笑った。 「はぁ? そこらへんにいるわけないだろー。吸血貴なんて、産まれた瞬間から上流階級の別世界だぞ? こんな普通の大学にだなぁ……」  世界に一握りの、特別な存在なのだ。一般庶民である奈央にとっては、身近に存在しない、テレビの中だけのセレブ達と同じような認識でしか無い。  だから。血の止まりかけた患部に気を取られながらの会話だったから、気付かなかった。  女子に囲まれても、常に冷めた眼差しの志貴が、熱っぽく、艶っぽく、奈央を見つめていたことに。 「俺がそうなら、どうするんだ?」 「はいー……?」 「……ふふふ。奈央のそれは、防衛本能なのかな。ずっと、決定的なことは見ないフリ、気付かないフリ……。いつまで逃げ続けるのかなぁって思ってたんだけど……」  そろそろ俺も、本気を出していい?  楽しそうに言い切った志貴の、言葉の意味がわからずに顔を上げた。 「…………っ」  そこには、オレンジ色の夕日を背に、圧倒的なまでの存在感を放つ、志貴がいた。 (これは……誰だ……)  特別顔が良く、頭も良い、高校からの自慢の親友……なのに、全く知らない人だった。  どこがどう、とは言えないが、気品すら感じる立ち居姿と、絶対的な空気感に息を飲む。  普段から、周囲とは一線を画した雰囲気はあったが、こんな、呼吸すら躊躇う程じゃ無かった。 「奈央が成熟して、欲しがるのを待つのも良いか……なんて思っていたけど……」  悠然と近づいてきた志貴が、微動だにできない奈央の手を取った。 「こんなに甘く熟しているのに放っておいたら、他の奴まで寄ってきそうだからね」  ……どうしても外すことが出来ない志貴の双眸は、赤く、輝いていた。  そして、気が付いた時には知らない部屋にいた。  裸で、大きすぎるベッドに寝かされていた奈央は、得体の知れない恐ろしさに慌てて逃げた。  幸い服や貴重品は傍に置いてあったし、部屋の外に誰もおらず、高層マンションの一角だとすぐにわかったのだ。非常階段で数階降りてからエレベーターを使い、更に非常階段で人目を忍んで夜の街に逃避した。  すぐに見つけた駅は、自宅からそう遠くなかったが、一人暮らしのアパートに到着した時にはヘトヘトだった。とりあえずシャワーを浴びようと服を脱いで、今度は血の気が引いた。  赤い華が、何個も、何個も、奈央の白い肌に咲いていたのだ。……2つ並んだ、『吸血貴』の噛み跡と一緒に。  自覚した瞬間に、ぶわりと蘇る、幸福感。  噛まれる度に感じた、絶頂感。  自分が自分じゃなくなりそうな恐怖に、奈央はシャワーの湯を浴びたまま、蹲った。  ……ダメなのに。  ……自分は、志貴の一番の友人じゃないとダメなのに。  だって知っているのだ。志貴の周りにいた、何人もの美男美女たちを。  誰もが俺を厭うように見下し、蔑んでいたが、暫くすると憎しむような眼差しだけを残して去って行った。あれは……こういうことだったのだ。  そしてこのままでは俺も、あの中の1人になってしまう。  もし再びこの血を求められたら……それを正気のまま受け入れてしまったら……。  志貴にとってはただの栄養補給でも、その行為の意味を考えてしまう奈央からすれば、耐えられない。  ――絶対に、この関係が壊れてしまう。奈央が、壊してしまう。  その日から一週間、大学を休んだ。何も考えたくなくて。  志貴からの連絡も、なかった。  意を決し、恐る恐る出席した講義で、志貴が知らぬ間に留学したと聞かされた。『吸血貴』なのだから、そもそもこんな大学にいたことの方が変だったんだ、と。……知らなかったのは(気付こうとしなかったのは)、奈央だけだったのだ。  喪失感に、胸が裂かれた。  あまりの衝撃と動揺に、呆然とするしかなかった。  ……なのに、それを認めたくは無かった。  何とも思わないフリをして、その日の事だって忘れたフリをして、志貴の事は考えないように、意識の外に追いやった。  そして志貴のおかげで外せるようになった伊達眼鏡を、再び掛け始めた。  人目から逃れるようにしながら大学を卒業し、地元を離れた中堅の会社に就職した。  このまま何もかも無かったことにして、順風満帆に普通の生活を続けられる、と思っていたのだ。 *** 「……まさか、こんなところで会うとは、思わなかった」  穏やかな表情の志貴に、何と話したら良いのかわからず、素直な感想を告げた奈央。  助けを求めるように周囲を見るが、何故か今日に限って誰も煙草を吸いに来ない。 「そうだろうな。グループ本体の役員の名前まで、きっちり把握している社員なんていないだろ。俺自身、まだ経験が浅いから、な」  志貴の気軽な言葉に、少しだけ、懐かしい大学時代の友人関係を思い出してしまう。こうやって、他愛のないやり取りをしていたのだ。 「……え、じゃあいつから、うちの会社に……」 「出向については、もうすぐ正式に通達される。そんなことより……」 「…………っ」  突然、雰囲気を豹変させた志貴が、顔を寄せてきた。  その強すぎる視線に、身動きが出来ない奈央に微笑んだ志貴は、微かに震える手を取った。 「……え、ぁ…………っ」  久しぶりに触れた、人肌だ。  しかし、それだけじゃない、熱に触れたかのような火照りを感じて身が竦む。  ただ手が触れただけで、血が沸騰するように歓喜しているのだ。 「っ……なんで……っ」  コントロール出来ない昂りに恐怖すら覚えて、泣きそうな眼差しで志貴に助けを求める。が、 「イイ子だな、奈央」 「ゃ、やめ……っっ!!」  男の色気に満ちた表情で、軽く目を細めた志貴は、静止する奈央の言葉も聞かず、その白く細い手首に唇を落とした。  そして、 「……ぁあ……っ!」  噛んだ。  常人とは異なる、2本の犬歯を自在に尖らせた志貴が、奈央の手首に噛みついたのだ。  その瞬間、目の奥が弾けるような快感が、奈央を貫く。 「……ぁっ……っ」 「甘いな……」 「っ……ふ…………」  手首から、全身が支配されていくようだった。  まるで頭から足先まで、全てを喰い尽くされているかのような錯覚に、何故か高揚して身動きもできない。  血を啜りながらこちらを流し見る志貴の双眸は、やはり神秘的な緋色に染まっていた。   「なん……で……っ」  なんで俺に牙を立てるんだ……。  親友だと思っていたのは、思い上がりだったのだろうか。  たとえ志貴が吸血貴でも、あのままの友人関係を続けたかった。そう願っていたのは、俺だけだったのだろうか。 「それは無理だ」  奈央の思考を読んだかのように唇を離した志貴が、傷口から流れる血を舐めとりながら、否定した。舌の触れる、ビリビリとした刺激に吐息が漏れる。 「奈央は俺の『甘露』だからな」 「っ、嘘だ……っ、そんな、デタラメで……っ」 「俺の唯一だよ、奈央。……愛してる」  戦慄く唇が塞がれた。  暖かく、柔らかい志貴の唇は……鉄の味がした。

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