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第4話

 『甘露』とは、吸血貴の為に存在する、糧だ。  吸血貴が生まれ始めた時期と、時を同じくして現れた、特別な血液を持つ希少な人種である。  『甘露』の身体に流れる血液は、吸血貴にとって特別に甘く、飢えを満たし相応以上の力を与える、なくてはならない存在だ。何故なら普通の人間の血液では、吸血貴の飢えは満たされないからだ。『甘露』がいなければ『吸血貴』は生きていけない。……しかし、その逆もまた然り。社会的弱者になりやすい『甘露』も、その性質が発露すれば、定期的に吸血貴を求めて飢えるのだ。  『甘露』の存在は、吸血貴によって経済を回している人間社会にとっても重要なファクターで、『吸血貴』が庇護するのを当然と認識し、それに対しての助力は惜しみない。万一『甘露』に不備があって、『吸血貴』の生命を脅かしたり、機嫌を損ねるなんて愚行をするわけがないのだ。 「……だから、思春期に『甘露』として発露すれば、行政から連絡が……」  誰もが知っている話を口にする奈央は、志貴に腕を取られたままだった。何とか冷静に話をしようと腕を突っ張って身体を逸らすが、それより力強い腕が、奈央の身体を戒めて、現実を知らしめる。 「それはマスターが定まっていない『甘露』を、効率良く吸血貴へ提供するための、ただの仕組みだ」 「…………マスターのいない『甘露』……」 「そう。我々、吸血貴にとって、捕食対象を選定することは、とても重要だ。食事だと割り切って、適当に充てがわれた甘露をその場その場で受け入れるか、自分だけの甘露を見つけ出し、大事にするか……」  至近距離からの赤い瞳に、魅入られたまま動けない。 「一目で分かったよ、奈央が俺の唯一の運命だって。だから奈央には何もしなかった」 「……うそだ……」 「そう思うか? 本当に? ……俺に血を吸われて、こんなに蕩けているのに」 「…………っ!」  愛おしそうに微笑んだ志貴が、首筋をつぅ……と撫でた。  その瞬間。  ぞわぞわと這い上がってくる欲求に、志貴を突き飛ばし、後ろも振り返らずに逃げ出した。体当たりするように非常口の扉を開け、一目散に階段を駆け下りる。  認めたくなかったのだ。  ――咬まれたい、だなんて。 *** 「あれ、椎葉さん、もう戻ってこられたんですか?」  何とか冷静を取り繕い、戻ってきたフロア。  自席に近づいたところで呼び止めてきたのは、さっき一緒にミーティングに出た後輩だ。  慣れ親しんだ日常の会話に安堵し、強張ったままだった肩の力を抜く。 「……何でだよ。煙草吸いに行ってただけだぞ」 「えー、そうなんすか? さっき須賀宮取締役が、任せたい仕事があるからって、後を追って行かれましたよ?」  会わなかったっすか? という他意のない質問に、笑みが引き攣る。 「いや……まぁ、少しは話をしたが……」 「えーっ、羨ましいっすー! 絶対に大きな仕事ですよ、取締役から直々に話があるなんてっ。まぁー、椎葉さん元からエリートコースまっしぐらですもんね。ちょーすげぇー」 「そんな事は……」 「吸血貴とお近づきになれるチャンスじゃないですかーっ。キックオフ終わった後、周りみんな顔色変えてましたもん――」 「――え、なになに、吸血貴だって?」  浮かれたようにテンションの高い後輩の話は、もちろん周囲の席の人間にも聞こえていたようで。奈央より3つ年上の松野さんが会話に加わってきた。彼女はオフィスカジュアルながらも、かっちりめのパンツスタイルで、しっかりと髪を纏めた姿は、仕事が出来る人のそれだ。  後輩が自慢げに笑いかける。 「俺さっき会議室でご挨拶しちゃったんすよー、吸血貴の方に」 「えー、本物? 凄いじゃない」 「いやもう、オーラが半端なかったんで、間違いようがないっす。もうね、会議室中の視線がバッと一点集中ですよ。こんなに違うんだな、ってビックリっす」  血を吸われる対象ではない彼らにとって、吸血貴は憧憬の存在だ。もし、自分がそうなれたら、と憧れと尊敬を持って吸血貴を見つめる。  しかし、『甘露』の存在はその付属品でしかない。極一部の人間は、血を吸われる誉れを享受するなんて、と忌み嫌う人間もいるが、殆どは意識もしない程度のオマケだ。  ……奈央だって、今までは他人事のようにそう思っていた。 「ちょっとちょっとー! なんでそんな方と、あんたみたいな新人が挨拶すんのよっ」 「俺の案件のキックオフに顔を出されたんっすよー。てか、うちの会社の取締役になるみたいですよ。グループ本体からの出向で」 「いやん、ホント? 出向でうちの会社に来てくれるのっ!? きゃーっ、なにそれ勤労意欲が上がるってもんじゃなーい!」 「あはははっ、単純っすねぇー」  盛り上がる2人を尻目に、奈央は居心地の悪さを感じていた。  吸血貴が志貴でさえなければ、何も考えずに話題に乗じることが出来ただろうか。……いや、無理だろう。もう奈央の中では吸血貴といえば志貴なのだ。  ぼんやり自問自答しているだけで手首が疼き、思わず反対の手で掴んだ。……志貴に噛まれた場所だ。 「……あれ、その手首どうしたんですか? 血が滲んでますよ?」  目ざとく見つけた後輩の言葉に、ギクリと肩を震わせる。 「あら、椎葉くん怪我? 絆創膏持ってる?」 「……あー……擦っちゃっただけなんで……。シャツについたら嫌なんで、ちょっと洗ってきますね」 「はいはい、主任が来たらそう言っとくわ。さっき何か話をしたそうに探していたから」 「わかりました、すぐ戻ってお伺いします」  仕事があるということに安堵する。  今は、志貴のことを考えたくないのだ。  忙しければ、余計な事を考えないで済むのだから。  ジンジンと疼く手首を握りしめながら、足早に洗面室へと向かった。  そしてその日、脇目も振らず仕事に打ち込んだのだった……。

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