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第5話
――翌日。
社内にいたくない、という理由だけで、無理やりねじ込んだミーティングのため、朝から取引先に直行していた奈央は、戻ってきた社内の浮き足立った雰囲気に困惑していた。
(あれ……何かあったのか……?)
どことなくそう思ってしまうのは昼から出社したせいだろうか。なんて考えながら自席につき、すぐにパソコンの電源を入れた。
何かあったなら、通達を確認した方が早いからだ。
「あ、椎葉くんお帰りー」
「お疲れ様です、今戻りました」
近くの席から松野さんが顔を出して挨拶をしてくれた。それに軽く答えつつ、カバンから書類の束を引っ張り出す。
「椎葉くん今日は直行だったんだねー。朝いたら良かったのに」
「え、何でですか?」
少しの嫌な予感を抱きつつ続きを促すと、いつも以上に楽しそうな表情の松野さん。
「なんとね、昨日アレが言ってた『出向してくる吸血貴の取締役』と、ご対面しちゃったのよっ」
「……そ、うなんですか……」
やはりその話か……と、心臓が鷲掴みされるような衝撃に頰が引きつる。考えないようにとひたすら社外にいても、事態は刻一刻と迫っているのだ。
その現実に気が重くなる。
「通達見てみ? そこにも書いてあるけど、本当に今日からうちの取締役になるんだってさ! お席は最上階の社長室の横だけど、皆で仕事したいから、このフロアにも時々顔を出してくれるって言ってたのよっ」
早く降りてきてくれないかなーっ、と楽しげな様子に愛想笑いすら返せない。
確かに、通達に辞令が出ている。
志貴が取締役に就任するという、見間違えようも無い、この名前……。
「もうねぇ、超絶美形で目の保養よ! 隣にいた秘書も美青年って感じでさぁ……あぁいう人が『甘露』なのかな?」
「…………え……」
「そんなことないか。『甘露』が働いてるとか聞いたこと無いもんねぇ」
他意の無い彼女の言葉が突き刺さる。
『甘露』なんて、奈央も見たことがない。……なのに、自分がそうらしいのだ。
……なんでこんなことになったんだろう。いつからそうだった? 初めから? 産まれた時から? それともどこかで道を間違えた?
考えても詮無いことだ。自分が『甘露』だなんて自覚はないし、今までそれなりに順調に生きてきた。
志貴にさえ出逢わなければ……出逢わなければ……?
(そんなの、存在している意味がない……)
すらりと頭に浮かんだ言葉に、ゾッとする。
3年以上を掛けてようやく、志貴のいない世界を受け入れられたと思ったのに。あっさりと、一瞬でまた、堪え難い喪失感に苦しむ日々に落とされるのか。
「あ。椎葉くんってこういう話、嫌い?」
相槌も打たずにパソコンのディスプレイを見つめていた奈央に、松野さんが気を使うように声をかけた。それに慌てて顔を上げる。
「え……いえ、そんなことは……」
「だって、凄い顔してるわよ? せっかく可愛い顔なんだから、眉間のシワは無い方がいいわ」
「あっ……すいません……」
笑いながら手を伸ばし、奈央の眉間をモミモミしてくる松野さん。
確かに、私的な感情を社内で丸出しにするなんて未熟だと言われても仕方ない、と恥じ入った……のだが、
「えっ、ちょっとまって……っ。やーん、椎葉くんのお肌ってば、ちょー柔らかーい。これが年の差?」
「……何言ってるんですか、3つしか変わらないですよ」
「その差が大きいっつってんのよっ」
真顔で頬までぐにぐにと触ってきた。
そのあまりにも真剣な表情に、だんだん面白くなってきた奈央は、
「……っふふ」
「笑うなっ!」
食い気味のツッコミすらおかしくて、本当に久しぶりに、何も考えない自然な笑みが溢れた。
まるで弟か、幼い子供を相手にするかのような彼女の態度に、冗談交じりの抗議でもしようか、なんて思った、その時……――。
「――椎葉くん、ちょっといいかな?」
「あ、部長……っと、取締役!?」
「…………っ!」
驚いた松野さんの声に続いて振り向いた奈央が見たのは、部長と、そして少し離れた場所に立つ志貴だった。
今日も一部の隙もなく着こなしたスーツ姿で、ひたりと見据えてくる視線が痛い。その表情は若干の笑みすら浮かべたものだったが、昨日会った時と違って苛立っている……いや、怒っているような気がするのは、長年一緒にいた奈央だからわかる違いだろう。
現に、その上っ面の笑みを見てかすかに頬を赤らめた松野さんは、慌ててじゃれていた姿勢を正し、椅子ごと身を引いた。
「すまないね、話の途中だったかな?」
志貴に何かを言い置いた部長が、機嫌良さげに歩み寄ってきた。
その背後から、痛いほどの視線が奈央を貫いている。
「……いえ、大丈夫です」
「あちらにいるのが取締役の須賀宮さんだ。……って、椎葉くんは昨日のミーティングで会ってたか。まぁ紹介を兼ねて、少し話したいことがあるから、今から会議室、いいかな?」
にこやかだが有無を言わせない部長の言葉。
そしてその背後に感じる志貴の存在感に、「はい」以外の返答なんて、出来るはずがなかった。
判決を待つ囚人のごとく、部長と志貴に連れられて来たのは、別のフロアの会議室だった。普段、来客や重役しか使えない会議室に通されたのは、志貴が一緒にいるからだろう。
奈央は見慣れないスーツの後ろ姿をぼんやりと見つめた。
長い歩幅にサラリと揺れる髪。3年ちょっとの間に少し伸びた背と、大人びた横顔。そして変わらないのは、周囲を従えるカリスマ性。
どれもこれも、落ち着いて眺めればこれほど懐かしく、焦がれた存在は他にない。もし2人の間に何もなければ、再び一緒に仕事が出来る幸運を、純粋に喜べただろう。
傍にいるというだけで高揚してくる感情に、眉根を寄せた。
(……やっぱり、近くにいると仕事にならない……)
揺さぶられる感情を悟らせまいと、必死に冷静さを取り繕う。
そんな中、志貴を上座に座らせた部長が、奈央にも席を勧めて、さぁ、と声をあげた。
「もう一度ご紹介しておこうかな。椎葉くん。通達にも出ていた通り、須賀宮取締役だ。お若いが米国で博士号を取られ、先期に完遂した、国内インフラの再構築案件でプロジェクトマネージャーを努められた」
「え、あの大型案件の……」
ちゃんと通達を読んでいなかったから、志貴の経歴は初耳だ。先期の件というと、ほぼ社運をかけてると言ってもいいぐらい投資したプロジェクトだ。あれほどの規模の仕事でプロマネが務まったというのは、素直に凄い。……と同時に、評価される志貴が誇らしかった。
「しかもそのプロジェクトも、取締役が自ら営業して取ってこられたそうで……そして取締役、こちらが椎葉くんで、あの件を任せようかと思っている者です」
「……はい……?」
奈央を紹介する部長の言葉に戸惑う。何も話は聞かされていないが、上層部では何かを検討していたらしい。
部長の言葉に、斜め前に座った志貴が、その深い眼差しで奈央を見つめた。
「……彼が部長一押しですか?」
「はい、まだ4年目ですが、技術力も十分あり、ユーザーからの評価も高く、社内での信頼も篤い。適任だと思っております」
「へぇ……コンペの経験は?」
「何件か。小さい規模のものですが、本件に関しましても取締役が相談役になってくだされば十分に務まるかと」
まるで見定められているような状況に胸が苦しくなってくる。
部長には高く評価してもらっているが、大きな案件での経験がない、ただの若手社員なのだ。もし、ここで志貴のお眼鏡に適わずNOを宣告されたらと考えると……まるで奈央自身が拒絶されたかのような絶望を感じるだろう。
そう。あの大学最後の年、吸血貴だと隠されていたことや、承諾なく牙を立てられたことなんかよりも、一番深い傷になったのは、知らない間に奈央の前から去られたことだった。完膚なきまでの拒絶だと感じたのだ。
もしまた、そんな想いを味合わないといけないのなら――、
「――問題ありませんよ。……ねぇ、奈央」
「…………っ」
突然、表情を和らげた志貴が、奈央を呼んだ。
ぶわりと広がる存在感に、強張っていた身体の力が抜けていく。
「え……? お知り合い、でしたか……?」
「そうです。私の奈央を高く評価してくださり、有難うございます」
「え、はい……いえ、あの……?」
「まさかここで紹介されると思いませんでしたが、奈央であれば安心ですよ。……さぁ、奈央」
穏やか、なのに絶対逆らえない、声音。
いきなり風向きの変わった室内の空気に、戸惑ったままの部長を置き去りにして、奈央は、促されるままふらりと席を立った。
志貴が、優雅に片手を差し出す。
当然のようにその手を取った奈央。
それは至極ぴたりと似合った、一対の存在だった。
「……これは内密にして頂きたいのですが……奈央は、私の『甘露』ですので、そのつもりで」
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