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第6話

 驚愕に固まった部長が、数瞬置いて破顔した。 「……い、いやぁ、そうだったんですか! あぁもう全く存じ上げず、失礼いたしましたっ。でもそうでしたら話が早い! いやいや、さすが取締役でございますね」 「そういうことですので、私が奈央を呼び出している間は、誰も近づけません。秘書にもそう伝えています。明言する必要はありませんが、そちらでもご配慮願います」 「はい、それは勿論。その為の取締役室でございますからね」  何故か喜色を浮かべる部長に、表情1つ変えることなく頷く志貴。その片腕は、今や奈央の腰に回っていた。あまりにも自然な仕草である。  奈央は、そんな一連の様子をぼんやりと眺めながら、志貴の傍にいる心地よさに揺蕩っていた。  こんなにも安心感を覚え、人前でリラックス出来るなんて、不思議だ。  そうだ、だから高校生の頃の俺は、志貴の勧めでこの伊達眼鏡を外すことが出来ていたんだ。……志貴がそばにいるから。怖いものが、なかったから。 「この後も、少し奈央をお借りしますが、宜しいですね」 「はい。同じ部署の者達に伝えておきます」  2人の話す言葉が遠い。耳に入っているのに、頭に入ってこない感じだ。 「……そういえば……さっき下のフロアで、奈央の横にいた女性は、優秀?」 「松野ですか? はい、役職はありませんが、中堅の中ではバリバリと頑張ってくれています」 「そう。じゃあ彼女、主任に上げて新設するオフォスの発足メンバーに加えておいて」 「……え、あ、はい。承知しました。転勤を打診しておきます」  少し怪訝そうにしながらも頭を下げる部長。そこに至ってようやく、話題が松野さんのことだと察するが、思考が上手くまとまらなくて理解できない。  だけど、そんなことはどうでもよかった。  形容しがたい欲求が湧き上がってきて、身の置き所がない。  無性に牙を立てられたいという疼きは……やはり、血が志貴を求めているのだろうか。  もう、目を背けることのできない、事実、なのだろうか。  自分自身から溢れ出てくる欲求のまま、端正な面差しの志貴に目を向ければ、 「…………っ」 「行こうか、奈央」  穏やかに微笑む瞳の奥に、揺らめくような赤が見えた。  連れ去られるように手を引かれ会議室を出た後、辿り着いたのは、新設された取締役室だった。 「ふっ……ん……っ」  ドアに押し付けられた途端、伊達眼鏡を奪い取られ、噛みつくようなくちづけが降ってくる。  志貴の香り。志貴の体温。傲慢なまでに俺を奪っていく、その存在感。  このままドロドロに溶け合いたいとさえ思う程の求めていた感覚に、身体中がビリビリと歓喜する。  何なんだ、これは。この感情は。  キスの合間、混乱する頭で志貴を見上げれば、唇が落ちてきた。 「泣かなくていい」  いつの間にか、目の端には涙の粒が溜まっていたらしい。吸うように舐められて、そして再び唇を擦り合わせるように重ねる。 (……気持ちいい……)  唇からの刺激も、抱き締められる感触も、そして、求め合っているという『欲求の共有』も。  今まで生きてきて、こんなにも興奮したことなんてなかった。  こんな、誰かを求めて、自身の中心が熱を持つことなんて……。 「そんなに、欲しい?」  欲望の色に染まった志貴の双眸。  同じ色をしている瞳に見つめられて、抱きしめられた身体が震える。 「本当に、可愛い。……ぐちゃぐちゃになるまで愛してから、咬んであげる」  押し付けられた志貴の腰にも、熱く、存在を主張する塊があった。 ***  そして。  あの日から志貴に呼び出されない日はない。  表向きは『新規案件獲得の為のコンペ対策会議』。  だが実際には、 「……ぁあぁ……っ……!」  目尻を真っ赤に染め、濡れた睫毛を震わせながら、ボタボタと白濁を零す奈央。その姿は、白いシャツ一枚というあられもない格好で、取締役室のソファに縫いとめられていた。  覆いかぶさる志貴は軽く前を寛げただけのスタイルで、奈央の胎内に欲望を放ち、その息を整えながら、のけぞる獲物の喉元を舐めている。 「奈央、美味しそう……」 「っ、ん……ふ……」  余韻を弄ぶように剛直を緩やかに律動させる志貴は、溢れた白濁を奈央の屹立に塗りつけていく。絶頂の後の敏感すぎる身体には、そんな刺激すら強すぎて、奈央は逃げるようにその身をくねらせた。  が、逃げるなんて許さないとばかりに、ぐいと肩を押さえつけた志貴は、そして、容赦無く滑らかな白磁の首筋に噛り付いた。 「ひっ、あぁぁ、っ……」  鋭い牙が突き刺さっていく感触と、その後に続く、形容しがたい快感。  奪われることが、こんなにも快楽をもたらすものだなんて、知らなかった。  志貴の瞳が赤く色付き、欲望を抑え込みながら牙を穿っていく、その幸福感。何にも代え難い瞬間は、肉体的な快楽よりも、精神的な方が大きい。  一旦、口を離した志貴は、奈央の首元についた傷口を入念に舐めとる。次第に出血がなくなり、傷口が薄れると、今度は別の場所に再び牙を立てた。 「……んっ、んぅ……っ……」  貪るように、だが愛おしみながら奈央を味わう志貴は、決して奈央の限界を超えるほどには奪っていかない。  壮絶なまでの色気と、周囲を平伏させる程の圧倒的な存在感で、奈央を慈しむ極上の男。 (……別に、いいのに)  全部奪い尽くしてくれても。  そう言いたくなる程に、自制する志貴からは、毎回毎回強すぎる欲求がぶつけられている。しかしそれを理性で押し留める志貴は、今日も奈央の傷口を舐めながら、欲望の波を抑え、少ししてから身体を離した。 「……奈央、大丈夫か?」 「ん……」  本当は大丈夫なんかじゃない。  最近になって無理やり開かれた身体は痛いし、失った血液の分はフラフラする。  だけれど、心底不安そうに気遣われると、安心させたいと思ってしまうのだ。   (それに、俺の飢えも癒されてる……)  時折感じていた、どうしようもない満たされない感じ。自覚してしまうとそれは、血を吸われたい、という欲求からくる疼きなのだとわかった。  最近では定期的に感じてしまう、欲求。  志貴に求められて、血を吸われ、ようやく満たされて安心する。その、繰り返し。  しどけなくソファに身を投げ出したままの奈央は、手早く身支度をする志貴を横目に、溜息を吐いた。 (全然力が入らない……)  求められるまま、欲望のままに果てたのだ。暫くは動けそうもなかった。  するとそれに気付いた志貴が、どこからか濡れタオルを持ってきて、側に座った。 「……やはり無理をさせたみたいだな……。今日はこのまま送ろう」 「いや、いい。少ししたら、仕事に戻る」  眉根を寄せて奈央を労わる志貴に、そっけない返答の奈央。  だって毎日、直前までは理性的に仕事をしているのだ。なのにその時になると、まるでスイッチが入ったかのように、志貴の元へと向かってしまう。どれだけ、今日こそは社内で乱れないと心に決めても、簡単に瓦解してしまう……。  牙を立てられている瞬間は、酷く満たされた気持ちになるのに、冷静になってくると、その背徳感に苛まれ、どうしたら良いのかわからないのだ。  志貴はそんな余裕の無さを咎めるわけもなく、ただ愛おしそうに微笑んだ後、奈央の身体を拭い始めた。 「……っ、自分で……っ」 「いいから、寝てろ。どうせまだ起きれないんだろ」  羞恥から抵抗しようとするも、図星を指されて一蹴された。  その言葉通り、腕を動かすのすら億劫だと思うほどに疲れているのだ。諦めて抵抗しようとしていた身体の力を抜く。……それにもう、このやり取りすら毎度のお決まりだった。  一握りの、誰もが憧れと畏怖を持って敬う相手に、こんな奉仕をしてもらっているなんて、自分でも笑える。まるで大切な宝物のように扱う志貴に、何を返せば良いのかわからず、目を伏せて見ないふりをする事しか出来ない、情けない自分。 (でも、どうせ俺は、都合の良い食糧だ……)  だから、思い上がりたくない。大事にしてくれるのは有難いが、そこに過剰な期待を抱きたくない。……でも、離さないでいてほしい。  相反する気持ちは自分でも整理がつかず、なのに志貴は、混乱する奈央に多くを言わないし、求めない。  ただ、1日に1度の逢瀬を、欠かすことはなかった。

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