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第7話

「悪い、奈央。少し出る」  ソファに横たわったまま、ぼんやりとキーボードのタイプする音を聞いていた奈央は、その言葉に小さく頷いた。  志貴は曲がりなりにも取締役。  平社員である奈央なんかよりも多くの会議や重要な決断があり、グループ本体としての業務だってあるのだ。自分なんかに長時間、手を割いてはいられない。 「外に秘書がいるから、何かあれば声を掛けて」  忙しそうに書類とタブレットを手にした志貴は、そう言い置いて扉の向こうに消えていった。  主人がいなくなって、静まり返る室内。  そこは急速に熱を失っていくかのように、重たく、無機質なものへと印象を変えていく。 (……俺も早く戻ろう……)  志貴がいない取締役室に、奈央の心を満たすものなどない。むしろ、広く重厚な執務室は、乱れた奈央を拒絶するかのように錯覚してしまう。  よろよろとソファに腰を掛けた奈央は、ゆっくりとスーツを着込み、そして髪の乱れを直した。側に置かれた伊達眼鏡を掛け、なんとか立ち上がると、痛む腰を庇いながら扉へと向かった。  扉の前では、ノブに手をかける前に一度大きく深呼吸をして姿勢を正す。この先には秘書室があって、そこを通らないと廊下に出ることが出来ないからだ。  秘書室には必ず、志貴の秘書が控えていて、恐らく……いやほぼ確実に、中で何をしているか把握しているだろう人物に、その名残りを悟らせたくはなかった。 「……失礼しました」  扉を開け、形だけの挨拶をして取締役室を後にし、入った秘書室。  整頓された執務机に座っている、涼やかな美貌の青年に小さく目礼をして前を通り過ぎていく。  ……普段であれば、それだけだ。  この秘書と、直接何か話をしたことなどない。  なのに、 「――椎葉さん」  気怠い調子を隠すように、意識して背筋を伸ばした奈央を呼び止めたのは、その秘書だった。 「……はい……?」 「ベストかセーター、お持ちですか?」 「え、いえ……」  そんなもの、今着ていないのだから当然持っている筈がない。それに、そろそろ暖かくなってきた春先。少し前にセーターは仕舞い込んだばかりだった。  質問の意図がわからず戸惑いながら返答すると、凛とした雰囲気の彼は、一度瞳を伏せてから立ち上がり、そして近くに設置されたクローゼットから、クリーニングタグが付いたままの黒いセーターを持ってきた。 「…………?」 「どうぞ。取締役のスペアとして保管しているものですが、セーターであれば多少サイズが大きくても誤魔化せるでしょう」  目の前に立った彼は、淡々とした調子で話しながら手早くタグを外し、手触りの良いセーターを奈央に差し出した。  今すぐ着ろと言わんばかりだが、こんなの、突然渡されても困る。 「ぇっと……ありがとうございます。ただ、寒くはありませんのでお気持ちだけで」  困惑しながらも丁寧に断ってみるが、彼は差し出した手を引かない。 「着た方が宜しいかと。取締役も、貴方に貸したのであれば文句は言いませんから」 「……いえ、ですから特に寒くもありませんし、着る意味が……」 「そんなに白い顔をして? それに……ほら、シャツを少し汚されていますよ」  表情を変える事なく一歩踏み込んだ彼が、奈央のスーツの合わせを捲った。そこには、白いシャツに擦れたような赤い汚れがあった。 「…………っ!」 「溢れた血液が付いてしまったようですね。お時間があれば血抜きをしてお持ちしますが?」 「い、いえっ。大丈夫です……!」 「左様ですか。ではやはり、セーターを着用されてからお戻りください。周りの方に聞かれたら困るのでしょう?」  彼の言葉に感情は一切こもっていなかったが、それでも、全てを見透かしたような物言いに恥ずかしさを覚える。  確かに、今はまだ、誰にも何も言われていないが、奈央が志貴の甘露であることを誰が知っているのか、ビクビクしている自分がいるのだ。部長がどこまで話したのかも知らないし、もし周知の事実だったら……と思うと、これからどう仕事をしていけばいいのかわからない。  そんな内心を的確に突かれるなんて、予想外だった。……彼は一切、奈央には関わってこない気がしていたのだ。 「……お借りします」 「はい、どうぞ。あと差し出がましいようですが、少し仕事をセーブなさって、休養をしっかりと取られたほうが良い。貴方が優先すべき事は、そこでは無いのですから」 「……ご忠告、有難うございます」 「お気をつけて」  伏せた目を上げられないまま、素早くセーターを着込んだ奈央は、逃げるように秘書室を立ち去った。  ……何となく、あの冷めた瞳が苦手だったのだ。 ***  足早に廊下に出た奈央は、そこでようやく安堵の吐息を零した。  今ここに人はいない。少しぐらいなら、気を緩めていいだろう……。  そう思って、柔らかな絨毯が敷かれた廊下の端に寄り、壁に手をついた。  やはり無理が響いているらしい。脳貧血のような、目の前がチカチカして地面が揺れているような感じに、一度目を瞑ってやり過ごす。そりゃあんだけ身体を酷使した挙句に、血を失っているのだから、相応に休息を取る必要があることくらいはわかっていた。  ……ただ、そのやり方を知らないだけで。  今まで、余計なことを考えてしまう暇を嫌い、常に何か行動することで紛らわせてきた。今更、自分の為に時間を使うなんて、よくわからない。  どうしたものか……と思いながら、少しの間、壁に凭れて息を吐いていたら……、 「――あれ……椎葉くん、どうしたの?」 「……松野さん……?」  奥の会議室の扉が開き、出てきたのはノートパソコンを抱えた松野さんだった。不思議そうな顔が心配気に変わり、奈央の前に駆け寄ってくる。 「え、体調悪い? 大丈夫?」 「あ、はい、大丈夫です。ただの立ち眩みで……」 「やだホント血の気引いてるわ。どこか座りましょう」 「いえ、もう大丈夫ですから」  慌てて肩を貸そうとしてくる彼女の豪胆さに笑い、凭れていた体勢を戻した。もう、めまいのような症状はおさまっていたから、気怠さは我慢するしかない。 「ほんとに? ただでさえ細身なんだから、今にも折れちゃいそうよ?」  冗談まじりに心配してくれる松野さんが、歩き始めた奈央の隣に並んだ。 「折れませんって。……松野さんこそ、会議ですか?」 「え、私はねー、んー会議っていうか、3者面談? 社長と部長に説得されてたの」 「説得、ですか……?」 「そ。新オフィス開設の初期メンバーとして、転勤してくれないか、ってさ」 「……転勤……」  その言葉にハッとする。  奈央はその話を、最近聞いていたはずだ。 (そうだ……志貴が……)  部長と話していた。彼女をメンバーに加えてくれ、と……。 「ちょっと地方だから悩ましいのよねー。椎葉くんとは仕事もやり易かったし……って、あ……」  彼女の真剣な話にどう言葉をかけようかと悩んでいると、ちょうど正面の廊下を、受付嬢が誰かを案内しながら歩いてきた。  ここは社長室もあるフロアだ。出会う来客なんて、役員と打ち合わせをするような賓客の可能性が高い。そう思った2人は、サッと廊下の端に寄って道をあけた。  なぜか若干頰を染めている受付嬢が、ペコリとこちらに礼をして、来賓を促す。  受付嬢の後ろから出てきた男は、ゆったりした足取りで悠然と歩いてくると、奈央たちの少し前で足を止めた。  自然とその人の顔を見上げて、 「…………っ!」  息が詰まった。 (……怖い……)  志貴と並んで遜色ないほどの美丈夫だった。しっかりと黒髪を撫で付け、がっしりした体格に似合ったスーツを着た姿は、惚れ惚れするほどに完成された造形美だ。  ……なのに、怖かった。  無言で見つめてくるその双眸に、奈央の中から何かが湧き上がってきそうになる。 「……え、え、椎葉くん、お知り合い……?」  見つめ合ったままの様子に、松野さんが戸惑いの声を上げた。と言っても心配気ではなく、若干声色の変わった、ミーハーなテンションが滲み出ている。  奈央はそんな彼女に返事をする余裕なんて無く、ただ、凍り付いたように目の前の男を見上げている……と、 「……受付の。打ち合わせ場所は?」 「あ、あそこの会議室で……」 「なら案内はココまででいい。お前、ちょっと来い」  傲慢にそう言い放った男は、なんの断りもなく奈央の腕を掴んだ。 「……っ……!」  やめろ、と言いかけて、すんでのところで自制する。こんな場所で声を上げて、大事にならないわけがない。  来客に腕を掴まれただけなのだから、大げさにする必要なんてないのに……ないはずなのに、怖いのだ。  何が怖いのかわからないが、ふとした瞬間の雰囲気が……志貴に、似ている気がする。 「ぁ、え、椎葉くん……?」 「同僚か? 心配するな、貧血になってるみたいだから、そこの会議室に連れて行くだけだ」 「わっ、凄いっ、よくわかりましたね! そうなんですよー、さっきそこで立ち眩みしてたみたいで、私もどこかに座らせようかと……」 「見れば分かる。打ち合わせの時間まで会議室で休ませるから、お前たちは下がっていい」  サラリとそう言い放った男は、奈央の腕を掴んだまま、引き摺るように歩き出した。  後方では女性2人が、一瞬の間を置いてキャッキャと声を上げているが、奈央の心境はそんなものじゃない。 (……嫌な、感じだ……)  会議室は本当に目と鼻の先だったのに、とても時間がかかったように感じた。  入室してパタリ、と扉が閉まってようやく、男の手の力が緩まる。  早く逃れたくて引っ張るように重心を掛けていた奈央は、腕が解放された反動で身体がよろけた。 「…………っ」  数歩たたらを踏んで、壁に手をつく。  すると、そんな急な動きに、貧血気味の身体は素直で、またフラリと目の前が揺れた。もしこの男が、本当に言葉通り介抱の為に連れてきたのなら、これほど適切な行動は無い。  ……のだが、 「お前、喰われたばっかりか」  突然の言葉に、思考が停止した。

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