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第8話

「……え……」 「んな血の匂いさせてたら、すぐに分かるっつーの」  尊大に言い捨てる様さえ似合うこの男は、 (……吸血貴……)  この怖さは、捕食される側としての本能だったのか。  男の正体に驚愕する暇もないまま、身を竦ませる奈央に向かって、男が一歩、足を進めた。 「……ぁ……」  それだけで、力が抜けた。 「おっと」  崩れ落ちる奈央を片手で支えた男は、そのまま引きずり上げるようにして奈央の顔を覗き込んだ。  怜悧な瞳と、視線が合う。  奥に燻る、赤い色……。   「なんだ、お前。コントロール剤も与えて貰ってねぇのか?」 「……な、にを……」  奈央の首筋に、男が指を這わせた。 (っそこは、志貴が咬んだ場所……)  ぞくぞくとした欲求が、身体の奥から溢れてくる。  咬まれたい。  奪い尽くされたい。  そんな強い衝動に、身動きが出来ない。 「だいたいそういう甘露は、大事に仕舞い込まれてるんだが……お前のマスターは悪い奴だな」  酷く愉快気に笑う男に、何も返せない。  だって、知らない。そっちの世界の常識なんて、俺が知っているわけがない。  志貴が教えてくれないものを、知る必要すら、わからない。 「……飢えてる甘露は、綺麗だな。真っ白い肌で、目元を赤く染めて……俺たちを誘う」  薄く開けた男の口の端に、鋭い、2本の牙が見えた。  欲求を満たしてくれる、気持ちいいもの。 「咬まれたいのか?」  咬まれたい。  咬んで、愛されて、満たされたい。  身悶えるほどに熱く昂ぶってくる身体。  徐々に荒くなる呼吸と共に、痺れるように全身の感覚が鋭くなるのがわかる。 「……泣くほど可愛がって、とろとろに甘くなってから、咬んでやりたくなるな……」  瞳の奥に赤い炎を揺らがせながら奈央の腕を取った男は、片手で器用に袖口のボタンを外すと、柔らかい腕の内側に唇を滑らせた。本気で咬みたいと思っているのか、時々牙を押し当てては、しかし焦らすようにペロリと舐める。 「……ゃ……っ」  肌への直接的な刺激に、ズクリと熱が溜まっていくのを感じた。興奮する身体は、更なる快感を求めて男へ擦り寄ろうとする。  ……なのに心は、鉛を飲んだように重く鈍かった。 (だって、この男じゃない)  違うのだ。  吸血貴なら誰でもいいわけじゃない。    身体の欲求と、心理的な拒絶という、相反する衝動に引き裂かれそうになる。 「……っ……やめ……っ」 「あー……やべぇな……コントロールされてない甘露は、強烈過ぎる……」  熱い吐息を逃がすように、眉を顰めて深く息をする男。しかし片方の手はゆっくりと奈央の腰を撫で、唇は今だに奈央の真っ白な腕を這っている。 「やだっ、離せっ……や……っ」  快楽を期待する身体と、それに絶望する感情で身動きの出来ない奈央に、男は欲のこもった視線を浴びせた。 「こんな状態で放り出す奴が悪いんだ、って言いたくなるな……」  大きく開いた口。  そこから伸びる牙が、奈央の肌へと近づいてきて……、 「っ、や……っし、き、志貴っ……志貴……っ!」  無意識に、唯一自分を庇護してくれる男の名前を叫んでいた。 「志貴……っ!」 「――やっと呼んだね」  ふわり、と、呼吸が楽になった、……と思った時には強い力に引き寄せられていた。  知っている香りと、知っている温もり。  一瞬で、安心感に満たされる。 「どうしたの、奈央?」  抱きしめてくれたのは、志貴だった。  いつも通りの余裕のある笑みで、涙に濡れた奈央の頰を拭い、その額に唇を落とす。 「……っし、き……っ……」  ……志貴じゃないと、ダメだった。  もうこの感情と衝動に、疑問を抱く余地なんてない。  最初から、欲しいのはこの男だけだったじゃないか。  言いたいことは沢山あるのに、戦慄く唇は上手く声を発すことが出来ない。しかし言葉は不要とばかりに、志貴は奈央を慰めるようにその身体を抱きしめ、ゆっくりと背中を撫でた。 「っ志貴……志貴……っ」  縋り付いてくる奈央をその腕に、志貴は、獲物を掻っ攫われた男へと満足気な目線を向けた。 「お待たせしました、海崎さん」 「……遅ぇぞ、須賀宮」  若干イラだったような男……海崎は、諦めたように1つ大きな吐息をつくと、手近な椅子にどっかりと腰を下ろした。 「くっそ……お前のかよ……」 「綺麗でしょう? なんの矯正もされてない、無垢な甘露」 「危うくヤっちまうところだった」 「そんなこと、させませんよ」  緩やかに笑う志貴。  それは奈央に絶大なる安心感を与えるものであり、同時に、全てを奪われる恐怖を覚えさせるものだった。 「コントロール剤ぐらい与えてやればいいものを……」 「あんな無粋なもの……。奈央には、そのままの欲求を感じて欲しいんです。可愛いでしょう? 目元を赤く染めて欲しがるなんて」 「……こいつは強烈すぎる。マスターじゃない俺まで煽られたんだぞ。籠の中に仕舞い込んどけよ」 「嫌ですよ。見せびらかしたいので」  ようやく、奈央が手に入ったんですから、と。  優しく抱き締めくれていた筈の手が、緩慢に奈央の肌に触れ始めた。  静まりかけていた衝動が、志貴の手によって再び揺り動かされてくる。 「なに、俺にまで精気を分けてくれるのか?」 「血の香りぐらいなら、勝手に愉しんでくださって宜しいですよ」 「はっ、甘露に酔いながら商談出来るなんて、贅沢なこって」  海崎の言葉に低く笑った志貴は、そっと、奈央の伊達眼鏡を取り上げた。 *** 「え……な……志貴……?」  これがどんな状況なのか理解出来ない奈央は、ジャケットに伸びた志貴の手を阻むことが出来ない。  スルリと奪われた上着は、そのままデスクへと投げ捨てられ、次はシャツに手が掛けられた。 「ぇ、ちょ……っ」 「……ぁあ、そういえばセーターを貸したんだってね。秘書が言ってたよ」  戸惑う声は黙殺され、志貴の手は滑らかに奈央の衣服を奪っていく。  本来であれば、こんな場所で、第三者もいる状況……もっと抵抗しても良い筈なのに、志貴の視線に絡め取られると、抗う気なんて消し飛んでしまう。 (……なんで……)  湧き上がってくる欲求を、抑える方法がわからない。  欲しいと思って、同じだけ欲してくれている……志貴が望むなら、いつだってこの身を差し出したいと思ってしまうのだ。  世界の全てが、志貴だけになってしまう。 「秘書、か。そういやあの秘書が、お前の甘露なのかと思ってた」 「まさか。カモフラージュに良いか、とは思いましたけどね。ただの従属者ですよ」 「ぁあ……血を与えて牙を折った、元吸血貴のスレイブか」  和やかに会話をする2人。    しかし、素肌を晒されていく奈央の心中は全く穏やかじゃ無い。 「可愛い、奈央。震えてるの?」  最後にシャツ一枚を残しただけの姿で立ち竦む奈央を、志貴が愛おしそうに微笑んで抱き寄せた。  その温もりに、安堵の吐息をつく。欠けていた空間を埋められたような幸福感が溢れてきた。  志貴で満たされれば、他はどうでもいい……。  そんなことまで考える自分に、驚く。 「いいんだよ、それで。思い知ったんでしょう?」 「……ぇ……」  嬉しそうに微笑む志貴が、奈央の髪を梳いた。 「奈央には、俺が全てだって。理解したでしょう?」  そうだ……。人であれ物であれ、執着することなんてなかった。部屋には必要最低限の生活用品しかないし、友人だって、いない。  ただ一つ、志貴の存在だけが、奈央の心を揺り動かすのだ。  あの日、大学生最後の年、一度世界が終わった。  志貴がいなくなり彩を無くした世界で、ただ、生きていた。  今、再び世界が構築されたのだ。 「……っくっくっく……甘露なんて、そういう生き物じゃねーか」  愉快そうに笑う海崎の声に、志貴が苦笑した。 「私たち吸血貴も、こういう生き物なんですから、仕方ないですね」 「あっはっはっ、ほんとお前、性格悪いわ」 「そうですか? 求めた分と同じだけ、奈央にも求めて欲しいだけですよ。……だって、中学生の頃に見つけてから、高校・大学と、ずっと待っていたんですから……」  空調の効いた室内では寒すぎる格好なのに、ゆるゆると触れてくる志貴の手で、奈央の身体は火照ってくる。 「だからって一度咬んで契約した唯一の甘露を、数年放置するなんて、俺には考えられねーな」  いつでも喰いたいのに。  そう嗤う海崎の視線は、奈央の肢体に注がれている。  志貴の愛撫によって柔らかく開いていく奈央の身体は、甘露の甘やかな香りを身にまとい、吸血貴を誘惑するのだ。 「ちゃんと自分から、堕ちてきて欲しいんです」  飢えにも似た、相手を欲しいと思う衝動に志貴を見上げれば、その瞳の奥にも同じだけの欲望の色が映っていた。  それだけで、奈央の感情も簡単に昂ぶる。  抱きしめたまま、柔らかく奈央を戒める志貴。逃れようと思えば簡単な筈なのに、その束縛をも心地よいと感じた。  だって、奈央が感じるのと同じだけ、志貴も奈央を求めていると、わかったから。  『欲求を共有』しているということが、事実、求め合っているという至上の幸福に、気付いてしまったから。 「俺をあげるよ、奈央」  誰よりも魅力的な男が、その最上級の笑みで、奈央を戻れない淵へと誘う。 「……その代わり、奈央の全てを俺にちょうだい」  形の良い唇が弧を描き、鋭い2本の牙がゆっくりと首筋に穿たれていく。  それを……奈央は熱い吐息をついて迎え入れた。

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