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第12話
10分ほど歩いて着いたマンションの部屋に入ると五十嵐さんはようやく掴んでいた俺の腕を離した。
「五十嵐さん」
「冷えてる。シャワー浴びてこい」
すっと俺の頬に手をあてた五十嵐さんの顔を見上げるとやっぱり不機嫌そうで俺はおとなしく頷いた。
暖かいお湯を浴びてほぅっと一息つくと思っていたより体が冷えていたこと知る。
シャワーを浴びながら少し考えてみたけど五十嵐さんの不機嫌な理由はわからないままだった。
浴室を出るとルームウェアが上下置かれていた。
置かれていたのだが……五十嵐さんと俺とでは身長差がありすぎて上は着れても下はとてもじゃないがはけない。上だって裾が膝までくるっていう何とも恥ずかしい姿になっている。
「あの、五十嵐さん」
リビングのソファに腰掛けている五十嵐さんにとりあえず俺の服を返してもらいたくて声をかけた。
「ふっくっくっ」
振り向いた五十嵐さんが声を殺して笑いだした。
「五十嵐さん!俺の服どこですか!」
「乾燥機――くっくっ」
口元に手の甲を押し当て笑いを噛み殺しながら答える五十嵐さんに抗議の目を向けた。
「まぁすぐ乾くだろ。そういうの彼シャツって言うんだろ、似あってるぞ」
「嬉しくありません!」
楽しそうに笑う五十嵐さんに思わず怒鳴る。
さっきまでの不機嫌さは何だったんだ。
座ってろよと言って五十嵐さんはすぐ隣のキッチンに向かった。俺は乾くまで諦めることにしてソファに座った。
ソファのふかふかさと暖かさで、今日1日のついてなさの疲れがどっと押し寄せたのか睡魔に襲われた。
「おい……翔」
ゆっくり目を開けるとイケメンが俺の肩を揺すっていた。
「冷めないうちに飲めよ」
そう言って癖のない黒髪をさらっと搔き上げた。
イケメンは何やってもいちいちイケメンだな。じっと五十嵐さんを見ていた俺に冷めるぞともう一度言った。
「甘っ――。」
五十嵐さんが淹れてくれたココアを一口飲んで俺は呟いた。
「ココア苦手だったか?」
「コーヒーの方が好きですね」
五十嵐さんのマグカップのコーヒーを見ながら言った。
「意外だな」
コーヒーを一口飲んで五十嵐さんが答える。
意外ってどういうことだ?コーヒーは苦い大人の飲み物でココアは甘い子供の飲み物ってことかもしかして。
「五十嵐さん俺のこと子供だと思ってます?」
ふっと沸いた疑問を直接ぶつける。
「ん~?弟かな」
刹那、俺の体がぴくんと震えるのがわかった。同時にどくんどくんと鼓動が早くなる。
だめだこのままじゃ――何か、何か言わないと。
「い、五十嵐さん、スマホ貸してもらえますか」
少し震える声をようやく絞り出した。
「構わないけど、何だ?」
スマホを手渡しながら五十嵐さんが訊ねる。
「今日バイト先でカバン間違えられちゃって、スマホも財布も鍵も全部カバンの中なんですよね。店長が間違えた人に連絡とってくれるって言っていたので、それの確認したくて」
深呼吸して話すと呼吸は大分落ち着いた。
「かけないのか?」
手渡されたスマホを見つめたまま動かない俺に五十嵐さんが怪訝そうな顔する。
「店の番号……俺のスマホに登録してて――」
「お前……」
呆れながら俺の手からスマホを取りバイト先の電話番号を調べてくれた。
俺のカバンは店に届けられていて、都合のいい時間に店に取りにくればいいと店長が言ってくれた。
「よかったぁ、家にも帰れないとこでした。ありがとうございます」
安心しながらスマホを五十嵐さんに返した。
「帰れない家に帰るって言ってたのか?濡れたまま?」
五十嵐さんが少し意地悪く笑う。
「えっと、それは――」
「それは?」
曖昧に流そうとした俺に訊ねる五十嵐さんの目が興味深そうに光っていて流させてくれそうにない。
「五十嵐さんモテるから、俺なんかより他にかまう相手がいるんじゃないのかなぁって」
「青葉に何か言われた?」
ソファに肘をつきながら知っていたかのように五十嵐さんが言う。
「えっ」
「俺の友達にも言ってたからな」
驚く俺に面倒臭そうに呟いた。
山下さんも山下さんだけど……この人もこの人だな。わかってるなら何とかしろよ!
「自分より友達を優先されたりしたら彼女としてはやっぱり寂しくなるんじゃないですか」
俺にはわからない感情だけど。
「この間も言ったが彼女はいない」
「え、でも――」
「あぁ否定するのも面倒で、彼女がいると思われてれば告白されることも減るだろ」
言いかけた俺の言葉を察して五十嵐さんが答えた。
うわぁ……何だそれ。イケメン特有の悩みなのか、俺の人生で告白されすぎて困ったことなんかねぇよ。
むしろ告白されたことがねぇよ!
でも確かに、切れ長のでもきつくない目、すっと通った鼻筋、主張しすぎない唇がふっと少し口角をあげたときに見せる艶っぽさ。思わず触れてみたくなる癖のないさらっとした黒髪。細身ではあるが適度に筋肉のついた体形。おまけに高身長とくればモテないわけないよな。
初めて逢った時はただ整った顔立ちとしか思わなかったのに、今はもっといろんな表情を見てみたいと思っている自分に驚く。
「何?」
あまりにも俺が見つめていたからか、視線に気づいた五十嵐さんが軽く組んだ長い脚に頬杖をついて首を傾げた。
その仕草にイケメン耐性のない俺の心臓はきゅっと締め付けられた。違う!俺の言いたいことはそんなことじゃなくて!
「彼女じゃなかったとしても、もっとかまってあげれば山下さんだって安心するんじゃないですか」
イケメン特有の悩みなのか何なのか知らないけど、山下さんに文句を言われた俺の口調は強くなる。
「何で俺がそこまでしなきゃならないんだよ」
「周りが迷惑するからです!だいたい五十嵐さんが曖昧な態度をとるからいけないんですよ!山下さんだって可哀想です!」
面倒臭そうに吐き捨てる五十嵐さんに腹が立って思わず口調が荒くなる。
「可哀想……ねぇ。青葉だって俺と付き合ってると思われることで優越感に浸っているし、俺は寄ってくる女が減るし、WinWinな関係ってやつだろ」
「――最っ低!!」
思わず立ち上がってはぁはぁと肩で息をする。
「どうしてお前がそんなに怒るんだ?」
五十嵐さんが理解できないというようにふっと眉を寄せた。
五十嵐さんと山下さんはお互い納得している関係なんだろうからそれでいいのかもしれない。でも俺はそういう利用するみたいなの嫌なんだ。利害が一致している時はまだいい、でもどちらかが少しでもズレた途端にその関係は破綻する。父さんと母さんのように。
母さんは所謂愛人ってやつだった。俺が出来たとわかった時、父さんは関係を切ろうとしたらしい。強引に俺を産んだ母さんは5年間父さんに金を要求し続け、5歳の俺を水沢の家に押し付けて行方をくらませた。
俺がそれを知ったのは中学2年の夏だった。
子供の頃から違和感はあった。水沢の母さんは俺に笑いかけることはなかったし、俺の存在がないように振る舞うことも多かった。父さんは仕事が忙しくほとんど顔を合わせることがなかった。歳の近かった兄さんだけが俺の話を聞いてくれて、遊んでもくれた。兄さんと過ごした時間が子供の頃の唯一の暖かい時間だった。
中学2年のあの夏までは――。
「翔?」
五十嵐さんはルームウェアの裾を握りしめて俯く俺の頬に手を添え優しく上を向かせた。ゆっくり目線を上げると心配そうな眼をした五十嵐さんと視線が交わる。
「泣いてるのかと思った」
五十嵐さんが安心したようにふっと目を細めた。
「泣いてません!」
顔が熱くなるのがわかった俺は慌てて顔を逸らしてソファに座り直した。
そんな俺をちらっと見て五十嵐さんも座り直し雑誌をぱらぱらとめくった。
な、何だこれ、何でこんな恥ずかしいんだ!?頬に触れた五十嵐さんの手が妙に心地よかったとか、キ、キスできそうなくらい近かった顔とか……!
そんな考えがぐるぐるとまわって俺は頭を抱え込んだ。
そんな俺の横で頬杖をつきながら面白いやつと肩を震わせて笑う五十嵐さんがいた。
まだ思考のまとまらない俺の耳に乾燥機の終了を告げる電子音が聞こえた。
立ち上がろうとする五十嵐さんを制して乾燥機のある洗面所へと小走りで向かった。
「あの、これありがとうございました」
きちんと畳んだルームウェアを五十嵐さんに差し出す。
「サイズ合わなかったけどな?」
五十嵐さんが口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「五十嵐さんが大きいんですっ」
「水沢も同じくらいだったろ」
五十嵐さんがしばらく会っていない友人を思い出すように視線を宙に泳がせた。
大きく鼓動が跳ね、呼吸が圧迫される。だめだ、兄さんの話が出るだけこんな風になるなんて。五十嵐さんにしてみれば俺は同級生の弟。兄さんの話が出ることは何の不思議もない。悪いのは、ダメなのは俺の方だ……兄さんを思い出すだけで心臓を鷲掴みされたかのように息苦しくなる。
「翔?」
「あ、そ、そうかもしれません」
浅い呼吸をしながらお世話になりましたと頭を下げて逃げ出すように五十嵐さんの部屋を出た。
だめだこのままじゃ……まともに五十嵐さんと話すこともできない――!
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