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第13話

「翔、この後バイトないなら飯でも食いに行く?」 講義が終わり大きく伸びをした慎吾がいつもと違い、急いで帰り支度をしている俺に声をかけた。 「悪い慎吾、教授のとこに寄ってくから!」 そう返すなり呆気にとられる慎吾の視線を背中に感じながら俺は走って教室を出た。    心理学 沢渡 一とネームプレートの掛かる部屋のドアを緊張を和らげようと大きく息を吐いてノックするとすぐにどうぞと中から返事がした。 緊張で汗ばむ手をドアノブにかけると俺の緊張とは裏腹に軽く開く。 「水沢くんだったかな?どうかしたかい?」 白衣を着た沢渡教授が柔らかく微笑んだ。 少し汗ばむ陽気に開けられた窓からわずかに吹き込む風が沢渡教授のやや癖のある無造作に伸びた白髪交じりの髪を揺らした。それを気にするでもなく俺を見る眼鏡の奥の穏やかな眼差しが固くなっていた気持ちをほぐしてくれた。 お爺ちゃんがいればこんな感じなのかな。60代の教授に対して失礼な話になるのかもしれないが。 「はい、あの、トラウマの克服についてお聞きしたいと思いまして」 「ふむ」 教授はわずかに思案した後、キャスターのついた椅子を本や書類が乱雑に積まれた机の前に移動させ、座るように促した。 俺が座ると正面の定位置なんだろうとわかるぽっかりと空いた場所に教授が腰掛けるとさっきまで乱雑に積まれていると感じた本や書類も意志をもってそこに置いてある気がしてくる。 「散らかっていてすまないね」 「いえ!そんな!」 忙しい中時間を作ってくれた教授に恐縮しかない。 「さて、トラウマの克服についてだが、克服と言っても完全になくなるわけじゃない。上書きしてトラウマを軽くするということなんだ」 「上書き……?」 首を傾げる俺にゆっくり頷いて教授が続ける。 「そうだね。例えば人前で話すことがトラウマによりできないという人のトラウマの原因とは何だと思うかい?」 「えっと……緊張してうまく話せなかったりとかですか?」 「そうだね。他にも言葉に詰まって嘲笑された、頭が真っ白になった、とかね。 トラウマの原因は人によって様々なわけだが、克服、つまり上書きするためには原因を記憶から引き出してこないといけなくなるわけだ」 膝の上に載せていた俺の手がぴくりと震える。『トラウマの原因を記憶から引き出す』教授の言葉を頭の中で繰り返すと心臓を掴まれたような息苦しさに襲われる。 「大丈夫かい?水沢君」 気づかう教授に、はぁはぁと小さく息を吐きながら頷いた。 「コーヒーでも淹れようか」 そんな俺を見て立ち上がった教授がコーヒーメーカを操作すると体に染み入ってくるようなコーヒーの優しい香りが俺の気持ちを落ち着かせてくれた。 ミルクと砂糖はどうする?と訊ねる教授にミルクだけお願いした苦みの残るコーヒーを一口飲んでふぅと一息つく。 「僕はね、水沢君。無理にトラウマを克服しなくてもいいと思っているんだよ」 静かに話す教授の眼差しがとても穏やかで胸に熱いものが込み上げてくる。 「でも俺はっ、克服したいんです……っ」 涙ぐみそうになり思わず唇を噛み締める。 「気持ちはわかるよ。でもね、上書きするということはトラウマになったほどの恐怖をもう一度体験するということなんだ」 ふっと眉を下げ諭すような目で教授は俺を見た。 「例えばジェットコースターに乗れない人が再び乗れるようになるには何度もジェットコースターに乗って、風が気持ちよかったとか、日常ではできない体験ができたとか、ジェットコースターは怖いという意識を少しづつプラスに変えて恐怖に上書きしていかなければいけないわけだよ」 教授は砂糖がたっぷり入った、まだ冷めきっていないコーヒーを味わうように目を細めながらずずっと啜った。 「思い出さないようにすることはできないんですか?」 トラウマの原因自体を思い出さずに済むのなら、兄さんの話が出ても気にせずにいられるんじゃないかと思った。 「難しいね。トラウマというものは条件反射みたいなものでね、レモンを見ると口の中がレモンを食べた時のように酸っぱくなるような気がするだろう?あれはあまりにも強烈なレモンの酸味を脳が記憶していて、その時の感覚が条件反射的に脳から引き出されるからなんだ。トラウマも同じで、思い出そうとするから思い出すのではないんだよ」 「そう、ですか……」 肩を落とした俺に教授が申し訳なさそうに続ける。 「トラウマを克服するということは、その原因が記憶からよみがえった時、どれだけ問題のないレベルまで上書きされているかということなんだ。これがとても難しく、短期間できることでもないから、長期間モチベーションを維持するのも大変だろう。トラウマを持つ人の精神的苦痛は計り知れない。下手すれば悪化させてしまう恐れもあるからね」 教授が『無理にトラウマを克服しなくていい』と言った理由がようやく俺にも理解できた。でも俺は――あの人、五十嵐さんともっと話がしたいんだ。 まだ数えるほどしか会ったことのない五十嵐さんと、どうしてもっと話したいと思ったのかはわからない、わからないけど、五十嵐さんのことが知りたいと思ったんだ。 「それでも俺は克服したいです」 真っ直ぐに教授を見つめはっきりと言った。 「そうかい。大事なことはね、水沢君。焦らないことだよ。トラウマになっている記憶を嫌で辛いものだと認識して、引き出した記憶を些細なことでもいいからプラスに変えること」 一つ一つ確認するようにゆっくりと話す教授の口調がとても優しい。 そんな教授の優しさに込み上げてくる涙を呑み込むように力強く頷いた。 「もう一つ、これが一番重要なんだが、必ず誰かにサポートしてもらうこと」 「サポート?」 「うん。記憶がよみがえった時、過呼吸になったり、意識がなくなる人もいるくらいだよ。それに誰かに話すということで、順序立てて正確に話そうと意識するからね。」 心配そうなそれでいて見守るような表情の教授に俺の涙腺が崩壊寸前だった。 「誰かに、話す……」 ぐっと目に力を入れて呟く。 「話すのも勇気がいるだろうね。少なからず相手にも負担を背負わせることになるだろうしね。話せそうな相手はいるかい?」 話せそうな相手……どう話しても重くなりそうな俺のトラウマを聞いてくれるような相手。そんな奴一人しかいない。周りからは保護者と言われ、猪突猛進な俺に呆れたり、小言を言いながらも俺の世話をやいてくれる。 無愛想なせいで冷たく見られがちだが優しく、気遣いの上手い男。高校の寮で同室になって以来5年の付き合いになる江角慎吾しか思い浮かばなかった。 「います」 少し照れながら俺が笑うと、教授も安心したように頷いて微笑んだ。 「ありがとうございました」 姿勢を正し、深く一礼する俺に困ったことがあればいつでもおいでと穏やかな声が降ってくる。 仏か、仏なのか教授は。本日何度目かの崩壊寸前の涙腺を抑え、教授の部屋を後にした。

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