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第16話
バイトが終わり慎吾のアパートに着いたのは19時少し前だった。二階建てアパートの一階の一番左の部屋、何度も訪れたことのあるその部屋への足取の重さに話すことを躊躇っている自分に気付く。
何となく話したかっただけ――などと誤魔化したとしても慎吾は無理に聞くことはしないだろう。パニクった俺がうまく状況を説明できない時も、急かさずゆっくり話を聞いてくれる。そんな慎吾だからこそ、話したいと思ったし、聞いてほしいとも思ったんだ。
でもそれは俺の感情なわけで……慎吾にとってはどうなんだろう。迷惑にならないだろうか。
昨日から何度、出るはずもない答えを探しただろう。
そんなことを考えながら部屋の前で佇む俺を、アパートの住人であろう帰宅した男女に不審そうな目でちらちらと見られた。
慌ててチャイムを鳴らすと鍵の開く音がしてすぐにドアが開いた。
「お疲れ。遅かったな」
そう言った慎吾の視線がまだ俺を見ていたんだろう背後の男女に向く。慎吾が無言で会釈をすると納得したのか俺の背後から男女の気配は消えた。
「おじゃましまぁす」
鍵を閉めて靴を脱ぐと狭い廊下の右手にキッチン左手にユニットバス、その奥に6畳のフローリング。俺の部屋と同じ間取りのワンルームのはずなのに慎吾の部屋の方が広く見えるのはきちんと整頓されているからなのか。
シンプルなパイプベッドに敷いてある高級な低反発のマットレスが神経質な慎吾の性格を物語っているようだ。このマットレスの感触が心地よく何度眠ってしまったか。
ベッドとは逆側にあるサイドボードの上には20インチの液晶テレビとスマホの充電器が乗っているだけだ。
俺の部屋の液晶テレビはごちゃごちゃと周りに物がありすぎて、テロップの文字が欠けてしまうくらいには見づらい。
ベッドとサイドボードの間にある黒い光沢のテーブルにはノートPCとリモコンだけが置いてあり、そのテーブルがルームライトの光を反射して少し眩しかった。
「これ買ってきた」
バイト先のコンビニで買った缶コーヒーとペットボトルのお茶が2本ずつ入った袋をテーブルの上に置いて、ベッドとテーブルの間に膝を立てて座った。背中に感じるマットレスの感触が心地いい。
「おぉ、さんきゅ」
缶コーヒーを2本テーブルに置き、残りを冷蔵庫に入れる慎吾を膝に頭を乗せながら眺めた。
「で、話したいことって?」
缶コーヒーを開けながら斜め前に胡坐をかいて座った慎吾が俺を見る。
「俺ってさ、普段から慎吾に迷惑かけてる自覚はあるんだよね。慎吾は何だかんだ言いながらいつも最後には助けてくれんじゃん?いつもありがたいって思ってて……」
普段は言わない言葉に何だか照れくさくなって足元を見つめる俺に慎吾はまだ話の途中なのがわかっているようで何も言わなかった。
「だから、これ以上迷惑かけていいのかなって……」
「翔、俺には弟妹が3人いてな、お前の世話をやいてしまうのも癖、というか性分だな。逆にお前の方が迷惑だと思ってるんじゃないかと思ってたよ」
弟妹を思い出したのか慎吾の表情が緩む。
慎吾、いいやつだな。俺の方がいつも慎吾に助けられてることの方が多いのに……。
ん?んん?こいつ、今何て言った?弟妹の世話をやくように俺の世話をやいてしまうとか言わななかったか?
「慎吾――俺、20歳、お前と同じ歳だけど?」
ふっと沸いた疑問を恐る恐るぶつけてみると、実年齢はそうだなと平然と言いやがった!お前の中で俺の精神年齢いくつだよ!?何か怖くて聞けねぇ。むしろ聞きたくねぇ。
「今更お前のことで迷惑に思うことはない」
ぶつぶつまだ不満を漏らしている俺に聞こえた慎吾の真剣な声に深く息を吸い込んだ。
「俺、トラウマっていうの?それがあってさ、克服したいなぁって思って。あ、だから昨日教授に話聞きに行ったんだけど、一人じゃ難しいらしくて、誰かに話聞いてもらったほうがいいって言われてさ、で、まぁ慎吾が迷惑じゃなければだけど聞いてもらえるかなって」
重くならないように、なるべく明るく早口で捲し立てた。
俺ちゃんと笑えてたかな……不安になってちらりと慎吾を盗み見ると今まで見たことのない真剣な表情の慎吾に心臓がざわつく。
「翔、無理して笑わなくていい」
怒っているように聞こえたその声に心配になって見た慎吾の真剣な眼差しが怒りを含んでいるように感じて不安になった。
「怒ってはいない」
そんな俺に気づいたのか少し目元を緩めた慎吾の包み込むような黒く澄んだ瞳が俺の不安を掻き消した。
「翔が何か抱え込んでいるのは知っていた」
「えっ?」
思わず身を乗り出して慎吾の顔を見る。
「高校の時、たまにうなされてたし、最近の、五十嵐さんに逢ってからの翔も気になってた」
淡々と話す慎吾に驚きを隠せない。
「俺うなされてた?」
寝ているんだから当然かもしれないけど自覚が全くない。
「あぁ。起きたら覚えてないみたいだったから、わざわざ聞くこともないなと」
気遣いのできる男だと知ってはいたが、想像以上だ。俺ならうなされてたけど何かあったのかって聞いてしまいそうだ。
「五十嵐さんに逢ってからの俺って変だった?」
「変、というか、五十嵐さんと会うと不安そうに助けてほしそうな顔をしてたな」
もうやめて慎吾。聞いたのは俺だけど、恥ずかしい、恥ずかしくて死にそう。
「俺ってそんな顔に出てんの?」
「わりと」
今更という顔で慎吾が即答した。
慎吾、俺は今新しい自分の一面を発見した気分だよ。思ったことをすぐ口に出してしまうとはわかっていたけど、顔にも出していたのか……まんま子供みたいじゃね?
さっき慎吾の中で俺の精神年齢が何歳なのか聞かなかった俺を褒めてやりたい。
「さっきも言ったが、お前が何を言っても迷惑なんて思うことはない。だから無理して笑おうとしなくていい」
「ありがとな、慎吾」
重くならないようにわざと明るく言おうとしたことも、多分慎吾は気付いていたんだろう。
たまに俺は人の顔色を見て無理に笑おうと意識する時がある。
それはいつからだったか……思い出そうとすると何故か胸がちりっと痛んだ。
「俺には姉さんと兄さんがいるんだけど、二人とも俺と半分しか血が繋がっていないんだ。俺の母さんは父さんの愛人だったらしい。俺がその事を知ったのは中学2年だったけどね」
事実だから仕方ないんだけど、あまり気分の良くない話に俺は目を伏せながら小さく深呼吸をして続けた。
「俺が出来た時、父さんは堕ろせって言って別れたらしい。でも母さんは俺を産んで、5年間、金を要求し続けた」
自分でも不思議なくらい客観的に話せている。教授が言ってた『順序立てて正確に話そうとする』ってこういうことなのかな。
「5年間?」
「うん、どうして5年だったのかわからないけど、俺が5歳の時、水沢の家に預けて母さんはいなくなった」
水沢の家に押し付けたが正解だと俺は思っているけど、そこまで卑屈な言葉にしなくてもいいかなと冷静に考えている自分に苦笑する。
「5歳から水沢の家で暮らしたのか?」
何か思案するように眉間に皺を寄せる慎吾に気になることでもあった?と訊ねた。
「いや――お前の親父さんと奥さんがよく了承したな、と」
慎重に言葉を選ぶように話す慎吾にそんなわけないと俺は首を振った。
「父さんは弁護士でね、世間体ってやつじゃないかな。違和感はあったんだよ。水沢の母さんは俺に無関心だったし、俺が話しかけても返事をしてくれることはなかったから」
「おまえ――」
慎吾の目に憐みの色が滲んだ。
「大丈夫だよ。俺の中で“お母さん”ってそんなもんなのかなって思ってたし、それに、兄さんが優しかったから……」
頬を緩ませた俺を見る慎吾が少し不機嫌そうに眉を寄せる。無理して笑ったように見えたのかもしれない。
「本当に優しかったんだ。兄さんが事実を知る、あの時までは――」
突然暗く深い闇に落ちていくような感覚に襲われ、とめどなく流れ出す涙に両手で顔を覆った。
「ご、ごめ……俺っ……」
「泣きたいだけ泣けばいい」
喉がぎゅっと締め付けられたようでうまく声が出せない俺にぽんぽんと頭を撫でて言う慎吾の優しさに我慢ができなくなった。
「ふっ……う……わああああ」
俺はしばらくの間、自分でもどうしてこんなにと思うくらい泣きじゃくっていた。
「翔って激しい泣き方するんだな」
ようやく涙の止まった俺にティッシュを箱ごと渡しながら慎吾がニヤニヤ笑う。
「いつもそんな泣き方しねぇよ!」
ずずっと鼻をかみながら、鼻声で抗議した。
「顔洗って来いよ」
慎吾に促され俺は洗面台に向かった。
「ひっでぇ顔」
瞼は腫れ、くっきりとしていたはずの二重が消えている。鼻も朱色に染まり、瞳はまだ過分に潤っていた。
一見して泣いたとわかる顔に情けなくなりながら、顔を洗うと熱を帯びた瞼に冷たい水が気持ちよかった。
「慎吾ぉ、頭が痛い」
こめかみを押さえながら締め付けられるような痛みに顔をしかめた。
「あれだけ泣けばな。横になってもいいぞ」
慎吾が顎で指したベッドに倒れ込んで目を閉じた。瞼が腫れているからか、目を開けているのが辛い。
「翔、教授と話したんだよな?何て言ってた?」
近くにいるはずの慎吾の声が遠く聞こえる。
「ん、焦ったら、だめだって、あと……嫌な、記憶、を、少しでも、プラス、に、変える、って……」
ひどくなる頭痛に意識が引きずり込まれていくようで、少しずつ言葉を吐き出した。
「あぁ、なるほど」
「ごめんな」
遠くなる慎吾の声に出せているのかわからない声で謝った。深く沈む意識に俺の耳には何も届かなくなった。
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