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第19話
慎吾の家に着いた頃には、初夏の日差しがシャツをしっとり湿らせていた。
部屋に入ると閉め切られていた空間に留まる熱気に一瞬足が止まる。蒸し暑さに息苦しさを感じてシャツの胸元を掴みぱたぱたと空気を送った。
「暑いな」
足早に慎吾がリモコンのスイッチを押すと、暑さを確認したかのように、ごぉっと忙しくエアコンが動き出した。
部屋を冷やそうとするエアコンの風の前に立つと汗で濡れた俺の体を急速に冷やしていく。
「ん~。夏にさぁ、寒いくらいの部屋にいると何か得した気分にならねぇ?」
「ならない。電気代の無駄だ」
エアコンの風を浴びながら冷えていく体を楽しんでいる俺に慎吾が冷静に言い放った。
確かに。去年もエアコンを最低温度にして布団にくるまって寝たりしていて何度か風邪を引いた。電気代どころか病院代もかかっている。得どころか損しかしてない。
でもつい、やってしまう。
「おい、そろそろ離れろ、風邪ひくぞ」
エアコンの前から動こうとしない俺の耳に叱るような口調の慎吾の声が届く。
「冷たっ、冷え切ってるじゃないか」
引き離そうと掴んだ腕の冷たさに慎吾の目が驚いたように見開いていた。
冷え切った俺の腕を掴む慎吾の手から伝わる温度が火傷しそうなほど熱く感じて、その手から逃れようと身をよじった。
何だろうこの既視感 ――。
「翔?」
慎吾が俺の名前を呼んだ刹那 、閃光が炸裂したような衝撃と同時に脳裏に深く沈んでいた記憶が鮮明に再生された。
既視感なんかじゃない――。
「あ……」
足元が歪んで身体は力を失っていった。
「翔?翔!?」
脳裏に浮かぶ兄さんの俺の体を引き寄せる手が熱い。その熱さは確かに感じるのに、全身の感覚はなく、ベッドの上で兄さんに組み敷かれ乱暴される“オレ”をまるで他人事 のように少し離れた場所から目を逸らすことも出来ずにただ眺めることしかできなかった。
ヤメテ、ニイサン、ヤメテ
うつ伏せに押し倒され、頭は沈み込むほど押さえつけられている“オレ”の声が頭の中に流れ込む。
『役に立ちたいんだろう?卑 しいお前が役に立てる事なんてこれくらいだろう』全身が凍り付きそうなほど冷たい兄さんの声。
イヤダ、タスケテ、ダレカ……
理不尽なその行為に抗 うことも出来ず、ただ耐えることしか出来ない“オレ”の悲痛な叫びが助けを求めても感情が麻痺してしまったかのように何も感じなかった。
まるで無機質なもののように。
『お前なんか誰にも必要とされていないんだよ』何度も繰り返し響き渡る兄さんの凍り付くような声に、足元から震えはじめ恐怖と共に感情が戻ってくる。
ヤメテ、やめて、ユルシテ、許して、嫌だ!!
“オレ”と俺の声が重なりあった瞬間、雷に打たれたような衝撃が体の中を駆け巡った。
「翔!おい!返事しろ!翔!」
慎吾が俺の肩を掴んで強く揺さぶる度に揺れる視界に入るフローリングの近さに横たわっていることを知った。
「翔!」
不明瞭 だった俺を呼ぶ慎吾の声が今ははっきり聞こえた。
慎吾が心配している。
何か言わないと……俺の気持ちとは裏腹に声を出そうとしてもはっ、はっ、と喉から空気が漏 れるだけだった。心臓が圧迫され息もうまくできない。
体を起こそうとしても小刻みに震える身体は痺れたように俺の意思では動いてくれない。
怖い、助けて、怖い。息ができない苦しさに言い知れぬ恐怖に侵された。
「翔!落ち着け、大丈夫だ。ゆっくり息をしろ」
慎吾が俺の上半身を抱き起こして支えながら背中をさすった。
耳の傍で聞こえた慎吾の穏やかな声が柔らかく響いた。
徐々に俺の呼吸が落ち着きを取り戻していく。時折、大丈夫か?と問いかける慎吾に頷きながら身体の感覚が戻っていることに気づいた。
「ごめんな、慎吾」
大きくひとつ深呼吸をして、少し視線を上げると包み込むような慎吾の瞳と視線がぶつかった。
「翔は悪くない」
小さく、でもはっきりと聞こえたその言葉に頬を少し緩ませた。
「今日は帰るよ」
「待て」
まだふらつく足に何とか力を入れて立ち上がる俺の手首を後ろから慎吾が掴んだ。
「離せ、慎吾」
バランスを崩しそうになり背を向けたまま動きを止めた。
「何を思い出した?」
背後から訊ねる慎吾の声に心配していることがわかる。
俺が何かを思い出したことくらい当然気づいているだろう。
だけど、言えない、言えるわけない……。
俺自身まだ混乱している。思い出したといっても現実味がなくて、感情がなくなってしまったかのように何も感じない。辛かったんだろうなぁとか、そりゃ忘れたい記憶だろうなぁとか、どこか他人事 みたいに“可哀想なオレ”を俺が見ているだけみたいな。
脳裏に記憶や声が流れ込んできた時の感覚に似ていた。
感情は何も沸いてこない。ただ鼓動が身体中に響き渡り、浅くなる呼吸に息苦しさを覚えた。
「落ち着け、翔。話せって言ってるわけじゃない。」
浅い呼吸を繰り返す俺に気づいた慎吾が静かに言った。
「お前が嫌な記憶を俺に話そうとしたのはトラウマを克服するためだろう?嫌な記憶を少しでもプラスに変えていくんだろ」
慎吾の言葉を黙って聞いていた。いや、聞いたというより音として耳に届いただけで、意味は理解できても何も感じない。脳が思考放棄したような不思議な感覚。
「翔?」
慎吾が立ち上がって何も言わない俺の肩を引いて振り向かせた。
俺を見る慎吾の表情が見えない。正確には見えてはいるんだけど、ただ映しているだけだった。それを何故だろうと考えようとも思わない、どうでもいい。
「帰るよ」
「大丈夫なのか?ちゃんと連絡しろよ」
玄関に向かって歩き出した俺に背後から聞こえた慎吾の声もただの生活音のようだった。
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