34 / 83

第34話

 それからも佑真さんは時間が合う限り行きも帰りも一緒にいてくれた。 俺がつけてしまった傷はもうほとんど消えている。あれから佑真さんは兄さんのことを話さないし、聞くこともなかった。兄さんのことを思い出して話さなければいけないのはわかっていたけど、佑真さんと過ごす時間が楽しくて、このまま一緒に居られればいいのにと思ってしまっていた。 「――翔、翔」 「えっはい?」 キッチンテーブルに頬杖をついていた俺を覗き込んだ佑真さんに驚いて、椅子ごと倒れそうになる。 「――っと。お前1限からじゃないのか」 倒れそうになった椅子を俺ごと戻しながら、壁の時計を指さした。 「やばっ行ってきます!」 いくら近いとはいえ、急がないと間に合わない時間に慌てて家を飛び出した。 「うそだろぉ」 はぁはぁと荒い呼吸の後に大きく溜息をつくと、頬に一筋の汗が流れ落ちた。 もう一度確かめるように掲示板を見ても、俺の受ける1限目の講義は休講だった。 「ちょっと待ちなさいよ、水沢翔!」 じりじり強くなる日差しに帰る気も起きず、図書館のある棟を目指して歩き出した俺をフルネームで呼び止める声に驚いて振り返ると、山下さんが冷たい目で俺を睨んでいた。 前も思ったけど、綺麗な顔の人が睨むと迫力あるんだよな。どうせ呼び止められるならもっとにこやかに呼び止められたい。それも楽しい話題で。 山下さんの表情にどうしたって楽しい話題じゃないことがわかり憂鬱な気分になる。 「何ですか」 立ち止まった俺に近付く山下さんの目線が、ヒールを履いているからなのか俺とあまり変わらない。 「この前あなたに佑真になれなれしくしないでって言ったわよね」 「はぁ……」 派手すぎない化粧をした顔に不快感をあらわにした山下さんに(ただよ)う甘い香りが、照り付ける日差しと混ざって俺にまとわりつき、息苦しさを覚え曖昧(あいまい)相槌(あいづち)を打つ。 「4年のこの時期が大事な時だってことくらいわからないの?」 言われて気づく俺もまぬけだけど、4年といえば卒業論文や就職活動で忙しいはずだ。 「何その今気づきましたみたいな顔」 山下さんの声に苛立ちが濃くなる。 「すいません」 「あなた佑真の友達の弟なんでしょ、仕方なく面倒見てることくらいわからない?佑真が何も言わないからって迷惑かけないで!」 山下さんの見下すような目が兄さんを思い出させるようで頭が痛くなる。 「佑真さんには、迷惑ならちゃんと言ってくださいって――」 「は?佑真がそんなこと言えるわけないじゃない。そんなこともわからないの」 山下さんの冷たい声に頭の痛みが増していくようで、こめかみを押さえる手に力を込めた。 「あなたのせいで佑真は私と会ってくれなくなったのよ。私と佑真の邪魔しないでっ」 俺の返事など聞く気もないように一方的に(まく)し立てる山下さんの勝手な言い分と頭痛で気分が悪くなっていく。 「でも彼女じゃないですよね?」 口に出した瞬間、乾いた音と共に山下さんの平手が俺の左頬に鋭い衝撃を与え熱をもった。 「――()っ」 頬を押さえながら山下さんを見ると目に涙を浮かべ小刻みに震えていた。 しまった……どう考えても俺が悪い、いくら苛ついたからって女の人を泣かせるとか最低だろ。 「山下さん、俺、すいません」 「今日、佑真と話すわ。今までだって私と付き合ってるって言われても否定しなかったもの。あなたにも私が彼女だってはっきり言ってくれるように話すから!」 叫ぶような声で言うと教室棟に向かって足早に去って行った。 佑真さん……やっぱり曖昧な関係はだめなんだよ。

ともだちにシェアしよう!