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第36話
相変わらず佑真さんは時間の許す限り一緒にいてくれた。
俺を不安にさせまいとするその優しさが、嬉しいけど切ない。そんな複雑な感情に支配されていた。
その日も佑真さんと家に帰ると閉め切っていた部屋が暑かった。
「佑真さん、あの時、慎吾の部屋で何か思い出した時も暑くて、慎吾の手も熱くて……」
漠然と思い出した状況をただ言葉にしてみる。
エアコンのスイッチを入れてキッチンに向かう佑真さんは独り言のように呟く俺に何も答えなかった。
何気なくエアコンの前に立つと、冷たい風が額の汗を急速に冷やしていく。
「佑真、さ、ん」
締め付けられるような頭痛に出す声が途切れる。
「翔!とりあえず、座れ」
慌てて俺に近寄る佑真さんの強い口調におとなしくソファに座ると、頭痛が治まってきた。
「俺の知ってる水沢はな、成績がよくて、真面目なやつだった」
麦茶を手渡しながら佑真さんが静かに話し出した。
「友達や先生からの信頼も厚くて、誰にでも優しい――」
「嘘だ!!」
反射的に俺は叫んだ。
「どうして?」
佑真さんの目が静かに俺を見ている。
「だ、って……」
昔の兄さんは優しかった。慎吾と話していて思い出した子供の頃の兄さんはすごく優しかった。でも、俺が中学2年の夏から兄さんは変わった。
変わった……そうだ、どうして忘れていたんだろう。
「俺、兄さんに殴られてた。俺の態度が気に入らないとか、兄さんの事を騙してたとか、優しくなんかなかった!」
どうして忘れていられたんだろう。
兄さんの俺を見下すような視線をこんなに鮮明に思い出すのに。
悲しいような、苛立つような、行き場のない気持ちに握りしめた手を強く噛んだ。
痛みと鉄の味に手を見ると親指の第一関節から血が流れ出していた。
「翔!何してる!」
佑真さんが怒鳴りながら俺の手首を強く掴んだ。
「あ……すいません。痛 っ、痛いです」
「当たり前だ!」
怒りをあらわにしながら、佑真さんは傷をティッシュで押さえた。
佑真さんのこんなに怒った所、初めて見たかも。
怒られているのに何だか嬉しい気がしてふふっと小さく笑った。
「何笑ってるんだ、お前は」
まだ怒りのおさまらない佑真さんが俺を睨む。
「佑真さん、顔怖いです。でも俺なんだか嬉しくて、すいません」
嬉しかったのは佑真さんが心配してくれているのが伝わったから、怒るというより叱られたことが俺のためを思ってくれたんだと嬉しかった。
「まったく」
呆れながら消毒をして器用に包帯を巻いていく佑真さんの指が綺麗で、いつまでも眺めていたくなる。
「水沢の家で俺は叱られたことがなかったんです。怒られることはたくさんありましたけど」
叱ると怒るは似ているようで全く違う。
叱るのは相手のため、怒るのは自分が腹が立つから。授業でそんなことを習ったけど、その通りだと実感した。
「俺にとって高校生の時の兄さんは怒ってばかりいたし、嫌いです」
俺が真っ直ぐ見つめると佑真さんの穏やかな眼差しが包んでくれた。
「それでいい、翔」
「え?」
驚く俺に佑真さんが優しく頷いた。
「お前は良い所を探して上書きしようとしてただろ、トラウマになるほどの嫌な事に良い所なんて探せないんだよ」
「でも、それじゃ――」
克服できない、教授は少しずつでもプラスを見つけて上書きしていくのが克服の方法だと言っていた。
「そうだな、良い所を見つけて上書きするのが近道なのかもしれない、でも翔にはそれができないだろう、だったら嫌だと認めて乗り越えるしかない」
包帯を巻き終えた俺の手を傷にあたらないように優しく握った。
「乗り越えるって……俺の中で兄さんは絶対で、逆らえなかったのに……できるのかな」
水沢の家での俺は兄さんだけじゃなく誰にも反論なんてできなかった。
反論したって聞いてもらえるはずもなく、殴られるか無視されるだけだったから黙ってるのが一番いいと思っていた。
「俺がいるだろ」
佑真さんの優しく強い意志を宿した眼差しを見ていると何でも出来る気がしてくる。
でもそこまで頼ってもいいのかな。それに――。
「佑真さんは兄さんと仲が良かったんじゃないんですか?」
さっきの佑真さんの話を聞く限り兄さんは佑真さんに悪い態度をとっていたように思えなかったし、友達の悪口みたいなのは聞いていて気分のいいものじゃないはずだ。
「いや、さっきはお前の本音を聞こうと――水沢の外面 がよかったのは確かだけど、どちらかといえば俺は敵視されてたかな」
あまりいい思い出じゃないのか眉間に皺 を寄せた佑真さんの表情が曇っている。
「そう、なんですか」
「だけど、俺は水沢に負けたことはない」
負けるわけないけどなと自信に満ちた顔で佑真さんが笑った。
佑真さんが言うと本当にそうなんだろうなと素直に思えるから不思議だ。
俺は兄さんに勝てるどころか逆らうことさえ考えなかった。
何をされても――。
『お前まで俺を馬鹿にするのか!どうして俺は五十嵐に勝てないっ!』
頭の中で兄さんの声が響いて心臓が締め付けられたように鼓動 を早める。思わず耳を塞いで、目を固く閉じた。
「翔?」
「あ……嫌……だっ」
目は閉じているのにその光景は鮮明に見える。嫌だ、見たくない、頭を激しく振って振り払おうとしても思い出したくないその光景は蘇った。
あぁこれかトラウマの原因。心は悲鳴をあげているのに、頭はひどく冷静で、心と体が離れてしまったような感じがして自分がどこにいるのかわからなくなる。
「翔」
「触らないで、ください……」
優しく抱き寄せようとした佑真さんを両手で押し返した。
心配の色を浮かべながら困った表情をしている佑真さんが綺麗で眩しく見えた。
俺は汚い。望んで兄さんと関係をもったわけじゃない。でも俺は逆らえなかった、無理矢理だったとしても俺は兄さんの言いなりだった。俺を抱いた後にほんの少し見える兄さんの罪悪感に、俺の自尊心は保たれていた。
タスケテ イガラシ
頭の中に流れ込む“オレ”の声に全てが理解できた気がした。兄さんが勝てないと言っていたイガラシ、は、佑真さんのことだったのか。
原因はわかっても、こんなこと言えない。言いたくない。こんな、狡 くて汚い俺を佑真さんには、佑真さんだけには知られたくない。
「翔……」
辛そうな表情で俺を見つめる佑真さんが伸ばしかけた手をそっと下げた。
頬を伝う熱さに涙が流れていることを知る。俺はまた佑真さんに辛い思いをさせてしまっている。
一緒に乗り越えようと言ってくれた佑真さんに、ずっと助けて欲しいと願っていた佑真さんに。
「佑真さん、トラウマの原因が、わかったんです」
手のひらで涙を拭 って深く深呼吸をしながら話した。
「大丈夫か?」
佑真さんの心配そうな表情が嬉しくて拭った涙がまた溢 れそうになる。
「大丈夫です。どうして忘れていたのかも、その理由も思い出したから、大丈夫です」
「何が大丈夫なんだ」
佑真さんの口調が少し強くなった。佑真さんは優しい。俺が話したとしても露骨に態度に出したりしないだろう。
そんな佑真さんだからこそ、そばにいたいと思った。
話せばきっとそばにいてくれるだろう、でもそれは同情心からだ。
これ以上佑真さんに哀 れまれたくない。
数日一緒にいただけなのにすごく長かった気がする。楽しくて、ずっとこんな日が続けばいいと……トラウマのことがなければ一緒にいることもなかった佑真さんとの日々を思い返す。
良かったのか悪かったのか。自嘲的 な笑いが込み上げる。
「佑真さん、いろいろ迷惑かけてすいませんでした。もう大丈夫ですから心配しないでください」
そばにいたい、でもいられない。俺はいつのまに、こんなにも佑真さんのことを必要としていたんだろう。
「どういう意味?」
佑真さんの表情が険しくなる。
最後に佑真さんの優しい笑顔見たかったな。無理なことだとわかっていても願わずにはいられなかった。
「翔、無理に話せとは言わない、だけどひとりで抱え込もうとするな」
表情は険しいまま、それでも俺を見つめる瞳はひどく優しい。佑真さんは俺が離れようとしていることに気づいているのかもしれない。
「今は俺も混乱してるっていうか、うまく整理できていないんです。明日、学校が終わったら、聞いてくれますか?」
どんなに迷惑をかけても佑真さんは俺を見放すことはできないと思う、他人の気持ちを思いやれる優しい人だから。そんな人に暗く汚い俺を知られたくなかった。
誰よりもそばにいたかった佑真さんから離れることしか俺にはできない。
「それは構わないが、無理はしなくていい」
見守るように注 がれる視線に飛び込んで、何も考えずただ佑真さんの鼓動を感じていたい衝動に襲われる。
「はい」
俺はゆっくり頷いて微笑んだ。
このままだと俺の感情が佑真さんを汚してしまいそうで怖かった。
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