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第58話
「水沢、そこもう終わる?」
「はい、もう終わるとこです」
入口から顔を出した山口さんに大浴場の脱衣所を清掃していた手を止めて振り向いた。
「仲居さんが宴会場手伝ってくれって、学生の団体が入ったらしくて忙しいんだと」
「わかりました。すぐ行きます」
足早に去って行く岩下さんに返事をして急いで清掃道具を片付けてから宴会場に向かった。
学生か……俺も何か月か前までは学生だったな。去年は確か藤崎がサークルのみんなで行く温泉に誘ってくれたんだっけ。金がなくて断ったけど、行ってたら佑真さんに逢えてたのかな。今年も藤崎のサークルは温泉に行くんだろうか。佑真さんも参加するのかな。
佑真さんと温泉かぁ……浴衣とか似合いそう、うん、絶対似合う。
想像するだけで顔が熱くなるのがわかる。
もう嫌だこの乙女思考。
俯 きながら足早に歩いていた俺は何かにぶつかった衝撃でよろめいた。
「大丈夫?」
腕を擦 りながら俺を見る旅館の浴衣を着ている泊り客らしきその人と目が合う。
……ということは前もよく見ずに俺はお客にぶつかったのか。
「す、すいません!あの、お怪我とかは――」
「僕は大丈夫」
状況を把握した俺が慌てて下げた頭をゆっくり上げると穏やかな笑顔が見える。
俺と年は変わらなさそうに見えるけど落ち着いた雰囲気の人だった。
「あれ?君って確か……」
首を傾 げじっと俺を見つめるその人からは穏やかな笑顔が消え、考え込むような表情が見える。
何だろう、どこかで会ったことあったかな。ふわりと揺れる前髪から覗 く額 は綺麗なカーブを描いていて、全体的に色素が薄く、どこか中性的な雰囲気を漂わせていた。
知らない。こんな特徴ある人と出会っていれば忘れるわけない。きっと人違いだ。
俺はどこにでもいるような顔だしな。
「水沢君!ビール追加で持ってきて!」
「あ、はい。すいません失礼します」
足早に宴会場へ向かう仲居さんに声をかけられ、その人に頭を下げるとビールを取りに厨房へ向かった。
学生の団体が騒ぐだけ騒いだ後の片づけがまた大変だった。
「忙しすぎる、また今日も帰って寝るだけになるな」
「俺なんか子供の寝顔しか見れてないぞ」
山口さんがこぼした愚痴に岩下さんが続く。
「旅館がこんなに忙しいとは思ってませんでしたよ」
俺は溜息をこぼした。
繁忙期とはよく言ったもんだよ。仕事は楽しく嫌ではないけど、のんびりしているお客を見ると羨ましくなる。
「お前、まだ若いくせにそんな顔してると老けるぞ」
「そんな顔ってどんな顔ですか、やめてください!」
からかうように笑いながら俺を小突く山口さんの手をむきになって振り払っていた。
「まだまだ元気だな。そういえば水沢、正月は従業員で朝から餅つきをやるんだけど、毎年板長がお汁粉を作ってくれてな、うまいぞ」
その味が口の中に広がったようにごくんと喉を鳴らした岩下さんに相当おいしいんだろうなと食べてみたくなる。
「餅つきって、昔話に出てくるようなやつですか?」
「ぶはっ。水沢、餅つきも知らないのかよ」
「昔話な、そうそう、それそれ」
俺を指さしながら笑う山口さんにつられるように岩下さんまで大笑いしていた。
「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか!もう後は俺やりますから!」
拗 ねたように言う俺に笑いながら二人は帰っていった。
体験したことのない餅つきを楽しみにしながら、散らばった座椅子や座布団を片付けていった。
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