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第5話

-瑞雨-  雨が降って、物置小屋に繋がる渡り廊下でヤニを吸っていた。そんな愛煙家ってわけでもなかったが最近は本当に数吸っちまってるな。愛しのかみさんとガキがいるからといって家では吸わない咲はすごい。もっとすごいのは禁煙の成功者だ。飯が美味くなるらしい。少しずつ咲の本数も減っている。銘柄まで変わっちまって。嫁と息子。疎んでるのは深月だけじゃなかったってわけかい。俺なりに祝福してたつもりなんだがな。悪ぃとは思う。いい嫁さんだし、息子は…会ってなかったな。目を背けてもいた。大事なものを持った奴ってのは変わっちまう。特に親なんか。親になっちまったら、変わるんだ。俺っていう弟分ができた時に咲は変わって、多分純和(すみか)が生まれた時にも。深月の時なんて顕著だったろうな。それで俺も変わっちまった。咲はマジの妹抜きにして俺だけが独占できる兄貴分じゃないんだ、とか。深月がいるからアホな真似出来なくなる、とか。それで嫁さんもらって、あの嫁さんも母親になったんだからきっと変わっちまった。咲だって漏れなく。ひとつの指標になる。直情的に今まで通り純真にやっていられないことだってあるだろうな…そうしたら咲は…俺の憧れた咲は。やっぱりガキは俺だ。深月のやさぐれが分からないわけじゃない。俺よりずっと早くに悟っていた深月のほうが利口だな。あくびをして携帯灰皿に短くなったタバコを押し付ける。そろそろ中身捨てないとな。深月が咲と揃いでくれたものだ。アイツの前じゃタバコ吸わねぇけど。咲も本数減ったしな。タバコ臭いのは嫌いです、なんて言われたら、本格的に禁煙しようかね。なんてな。  そろそろ保健室に顔出してみるか、という気になって、でもあいつ俺来るの嫌だろうな…とは思いながらも、あいつの様子が知りたくなった。一目見て何事も無さそうならすぐ帰ればいい。俺が会いたいだけで、あいつは俺を見なくても。本心は違う。ただ理性が働く限りは、それで。ままならない。深月のフォローもしてやらないと。この前険悪な感じになってたが、あれで深月だって結構あいつのこと気に入ってんだから。でなきゃ、怒りを覚えるだとか、いちいち話題に出すほどあいつは周りに関心なんか持っちゃいない。咲と俺がいればそれでいい、そんなヤツ。  保健室は開いてなかった。鍵掛かっていて、もうあの先生帰ったんだな、って感じだった。じゃあ深月たちもどこかに居るんだろう。さすがに探す気は起きなかった。職員室で待ってればあいつは捕まるだろうし、あいつといるなら深月のことも特に心配することはない。信用してんな、俺。俺以外にならあいつは優しいし、過保護なくらいだ。風信がプールサイドで膝擦り剥いた時なんか…思い出して悲しくならねぇ?そこ代われよって感じ。咲が蚊に刺されて肘を掻き毟ってた時もあいつ…いや、咲は仕方ねぇけど!深月が全校集会で立ち眩み起こした時なんか、いの一番に駆け寄って、なんかそこだけミュージカルの舞台だったぞな。妬いてねぇよ。俺はあいつにとって、部員とか生徒とか、尊敬してやまない片想い相手とかになりたいわけじゃない。あいつの中がたまには笑顔向けて、あいつが疲れたらちょっと心のサンドバッグになって、あいつが悲しいなら居場所になり…たいんだな。咲を追うのはデカすぎる。あいつが惚れちまうのは方向性は違えど分かっちまうから。好き好き言ってれば振り向いてもらえる歳でもない。俺の行く道は晴れてっか?  職員室にはもう咲が戻ってきていて、慌ただしく帰りの荷物をまとめ、ワルい顔で俺に近付いて背中をバシバシ叩いてからニヤニヤして帰っていく。これは毎日の一連の流れで特に言葉は要らなかった。俺は人の少なくなっていく空間で採点だの、テキストの確認だのをして時間を潰した。赤ペンが手の上を回る。部活終了の音楽が流れて、顧問がいれば延長できるが水泳部と野球部と男子バレーボールと確か吹奏楽部以外はそんな熱心な部活はなかったから、大体今頃生徒たちは帰っていくんだろう。ドアが開いた音で手が止まっていたことに気付く。疲れた顔のあいつが帰ってきた。近くの教員に声を掛けられて擦り切れた笑みを浮かべている。擦り切れて見えるのは俺だけなのか。教科書とか紙束をご丁寧にカバンに詰めて、スマートな仕草で帰ろうとしたから俺も後を追った。あいつはすぐに気付いていたみたいで、でも職員玄関に着くまでは互いに黙っていた。先に反応を示して振り返ったのはあいつで、だが目を合わせただけでまた帰ろうとするから俺は呼び止める。何も無いと思ったか?残念。お前に絡むために待ってたんだよな。あいつは溜息を吐いて、放っておいてほしい、話し掛けないでほしいって感じを前面に押し出してたけど、無駄だ。 「…なんですか」  無視する選択もあるっちゃあるんだよな。でもこいつはそれを選ばなくて。律儀だから?そこまで嫌われてねぇって自惚れてもいいのか? 「深月はどうした?」 「帰りましたよ。どこも怪我はないようだったので」 「1人でか?」 「はい。暮町さんが迎えに来ていると思いますが」  話は終わったとばかりに俺へ背を向けようとするから、俺は言葉より先に手が伸びちまって肩に触れた。不機嫌な目が俺を睨む。焦りが窺えた。苛立ってもいるようだが、それよりも怯えいるような。何かを恐れているんだ? 「一体何なのですか?何の用なんです?」  自分の感情を誤魔化すみたいに語気が強まっているくせに俺をきつく睨む目はやっぱり弱々しい。俺が怖い?人が怖い?何に対して恐れている?俺はお前の脅威になるつもりなんてないのに?伝わらないのか?まず信じられちゃいないんだろ。そりゃそうだ、こいつは俺のこと嫌いなんだから。 「あんたは大丈夫なのか?」  月下は俺をじっと見てから顔を逸らして、下駄箱を見つめる綺麗な色の目が濡れていく。薄い唇を噛んで、眉が力んでいた。やべぇな、とは頭で思ったけど身体が勝手に動いちまって、綺麗なこいつを腕の中に入れていた。骨張った感じがある。男の硬い身体。咲とは違う、反発してくるほどの筋肉はなくて、深月よりしなやかでも吸い付くような歓迎するような肉感はなく、無感動で慣れていない感じがあった。ほんの数秒か、もしかしたら数十秒。やめてください、と突き飛ばされる。どうみたって無理強いした俺が悪い。相手が女だったらセクハラ通り越して準強姦だろうし、今の御時世なら男相手でも十分犯罪の領域だろう。こいつの匙加減で。 「悪り」 「…こういうことは、女性に対してするべきです」 「さすがにそれは犯罪だろ」 「私にはいいんですか…」  拗ねたような態度が可愛い。女性に対して、ね。こいつだって同性に対して、いや、咲に対してままならない感情を抱いてるくせに、そんな他人ごとみたいに。自嘲するみたいにさ。 「いや、悪かった。あんたにもしていいことじゃなかった」 「随分と素直ですね」 「下心は否定できねぇもんよ」  観念するように両手を挙げておどけた。こいつはまだ不服そうな顔をしている。 「貴方は、男を好くということがどういうことか、分かってない…」  分かってねぇだ?もう気にならなくなっちまっただけなんだけど。 -霖雨- 「あ…ぁ、う…ぁ…ッ」  ボクのちんちんを覆うゴムの中が真っ白なおしっこで逆流しちゃって、ボクのちんちんの周りは自分のと、先生の尻の穴から流れ出てくる他人の白かったおしっこで汚れていた。もう変色してパリパリしてる。ゴムの中の感触が気持ち悪くて、はあはあ息してた美仁先生がボクのちんちんを締め付け終えて上から退いた。ボクはゴムを取って、美仁先生のお尻を掴む。適当に置いたゴムの中身が溢れてベッドを汚しちゃったけどそんなことに頭は回らなくて、先生はやめてって言ったけど、先生の中でまたおしっこしないと治まりがつかなかった。他の人には白いおしっこさせるくせに。ボクの白いおしっこも受け止めてよ。先生の背中に乗って、あとはもう勝手に腰が動くだけだった。美仁先生が上に乗っていた時とは締め付けられてジンジンする部分が少し変わって、頭の中がじわーってした。先生の背中を覆う黒いタンクトップをめくると美仁先生はやめてやめてって暴れて泣いちゃったけどボクは綺麗な白い花といっぱい尻尾の生えた狐の絵にチュウした。肌の下に色が入っていて、痣よりも鮮明で、不思議な気分になる。美仁先生は神様みたい。心臓がギュッとして、普通とちょっと違う運動してるからかな。ちんちんがジュワーってして、目を開けてられなくて、美仁先生のさらさらの髪に頬擦りしながら腰だけ陸に上げられた魚みたいにびちびち跳ねて、ぱんぱん肌がぶつかった。 「い、や…!やめて、やめてくださ、…!ぁっ、アッぁぁ……ぅんンっ、」 「先生!先生…頭おかしくなりそう。美仁先生…お尻きゅうきゅうする…」  腰が溶けちゃう。全身が溶けて、骨だけになっちゃう。骨ごと溶けて、美仁先生にどろどろの液体になったボクを踏まれたい。腰骨が壊れちゃうのに止められなかった。止めたいと思わなかった。むしろ腰骨が壊れちゃうことも厭わなかった。ぱんぱんぱんぱん音がして、耳も頭も変になる。指の腹に当たる先生の肌はずっと揉んだり引っ掻いたりしていたかった。 「あっんっ、背中、やだ…っ、も……許して、っ、ん、んっあ!」  先生、この背中の絵好きじゃないの?だから黒のタンクトップなんて着てるの?だからプールの時も秋桜先生みたいに水着にならないの?みんな、この絵綺麗だから、見ればいいのに。でもボクだけが知ってるんだって。秋桜先生も、風信くんも知らないんだって。染井先生も!美仁先生のこと好きって言ってたくせに!ボクだけが知ってるんだって!お父さんと、先生の中に白いおしっこした人も?あの人たちがいなくなれば、ボクと先生だけの秘密になる?先生の肌にひとつひとつ色を入れた彫師になりたかった。先生の肌にひとつひとつ色を入れて、こんな綺麗にして。秋桜先生みたいにがっちりしてないし、染井先生とはまた違う感じの美仁先生の身体に抱き付いて固定した。先生が泣いて、息を乱して抵抗して、ボクが「ダメだよ」ってつもりでガンってちんちんを打ったら、ビクビクしながら背筋が曲がってた。怖がってるみたいだから、怒ってないんだよって伝えたくて耳と首を舐める。ごめんねって言葉に出来なかったけど、またビクビクして怖がっちゃってボクもどうしていいか分からなかった。機嫌悪いのかな?背中見られるのそんなに嫌だった?お尻の中をギュッてされる、先生のこと考えてられなくなって、またガンってちんちんを押し付けちゃった。そしたら今度はぎゅうぎゅうって柔らかく腸がボクのちんちん締め上げるからボクはまた白いおしっこを漏らす。先生もシーツに精液出してた。シーツと先生の大きくなってるおちんちんの先が繋がって、ゆらゆら揺れてる。やっぱりボクのこと女の子だと思ってるんだ。ボク男の子って知ってるはずなのに。ちんちんを押し付けて、男であることを主張するけど、まだ分からないみたいで、びゅびゅって精液吹き出してた。 「ボク男ですよ。精液出したって赤ちゃんデキません」  いけないおちんちんを触った。ぬとぬとしてる。このまま弄ったら、先生も白いおしっこするのかな。先生の失禁みたいな。恥ずかしいよね。ボクも先生の喉奥で失禁しちゃって恥ずかしかった。先生のお尻の中をトイレにしちゃった大人たちもきっと恥ずかしかっただろうな。 「い、や…!やめ、!んぁっあっ…!」  先生の両膝の裏に手を入れて、ボクの腿の上に乗せる。なんか届かなかったところにちんちんの先が入り込んで、先生は天井を見上げ痙攣しちゃってた。背中の絵が見えづらくなって残念だけど、先生に白いおしっこさせないと。普通のおしっこと違って、おちんちんをごしごししたり舐めないと白いおしっこは出てこないみたいだった。もうひとつは先生のことを考えればいいみたいだけど、それは先生の中の問題だから、ボクは先生を抱えちゃって両手が塞がってるからどうやって美仁先生のおちんちんをごしごし擦ろうか考えあぐねる。その間も先生の尻の中はボクのちんちんを潰す勢いで動く。またボクを女の子だと思ってるみたいで精液出してた。白いおしっこに似てるけど、ダメだよ。ボクは赤ちゃん産めないんだから。 「深い、…!下ろして、くださ…ッ下ろして……っ!」  ボクは腰を引いて、ちんちんを先生の中から下ろしたけど、流れのまま腰を上げちゃったからムダだった。狭いところにちんちんの先が入っていっちゃって、まずいなぁと思った。ぐちゅぐちゅ音がして、ボクはまた奥で失禁する。 「ぅんんんっぁ、あっ……あ…」 「ごめんね?美仁先生」  先生はあひあひ言って震えた。力が抜けちゃっててボクも支えきれないほどだったからベッドに寝かせて、ねちゃねちゃになってる先生のおちんちんをごしごし擦った。先生は痛がって、「もう出ません」「もう出ない」って繰り返してて、でも先生のおちんちんから白いおしっこが漏れちゃうところ見たくて見たくて仕方ないからそれは聞いてあげられなかった。 「美仁先生のおもらしも見せて」  先生は嫌がったけど、ボクは先生の前で失禁したんだし、先生はそれ飲んだんだから恥ずかしくないよ。美仁先生はベッドの上で身体をくねらせてまた泣いちゃって、「出るから離して」って必死にいうから焦って、なんかお願い事しなきゃ!って流れ星みたいに思って、「またおしっこ先生のお尻の中にしたいです」って言ったら、うんうん頷くからまたごしごししたら、「見ないでください」って言いながら白いおしっこをちょっと漏らしたからボクは満足で、また声を掛けたら寝ちゃってた。 -瑞雨-  淡い杏みたいな色の乾いた唇が、すっと触れた。俺の口に。何の不自然もないように。何が起こったのか、何をされたのか、分からなかった。ふい、っと何もなかったみたいにあいつは俺の手を払って帰ろうとしたが、俺は頭の中が光ったみたいになってあいつを捕まえて、今度は俺から唇を奪った。俺の唇は戦慄いている気がした。冷えていくようにも、熱くなっていくようにも感じられた。後頭部を打たないに、逃がさないように手を添えて、下駄箱に押し付ける。几帳面に切り揃えられて磨かれてる爪と洗い過ぎて荒れた手が俺のシャツを掴む。どうして拒まない?弾力を味わって調子に乗る。舌を挿し込んで、確かに胸元を握るシャツは嫌がっていたのに俺は無視した。殴られなかったらきっと続ける。全部俺が悪い。こいつは嫌がってる態度を示してる。それでもやめない俺が悪い。 「ぅ、ん…」  鼻を抜ける声。誰が来るかも分からないのに。 「は……ぅ、」  逃げ惑う舌を追う。踊りに誘うなんてストーリー付きのクラシック音楽みたいに俺は奥に縮こまる慎ましやかな月下の舌を掬い上げる。 「ぁ、…ぅん、」  甘い。心臓が破裂しそうだった。好きなやつとキスしてる。触りたい。背中とか、腰とか、もっと。シャツを握る手が力を持って俺を押し返す。口腔内を大きく回すように絡めると腕の中から月下がすり抜けそうになって口を離して慌てて支えた。唇を繋いだ唾液の糸が生々しくて多分俺は情けない顔をしていたと思う。だからかちょっと気の強げな目で口元を拭われて、俺とこいつを繋ぐものは呆気なく切れる。 「なんで抵抗しないんだ?」  狡い男だよ、俺は。隙に付け込もうとしている。嫌がってただろ。嫌われていることも知ってる。 「私が誘ったから…」  乱れた息に俺の鼓動も乱れる。好きだ。心臓が胸を突き破って、肋骨を粉砕して押し出されそうなんだ。伝えて背負わせてどうする?もう一度、俯いたこいつの唇を拾うみたいにキスした。蕩ける。甘い。唇も歯も、肉体も邪魔になる。俺だけに意地っ張りで俺だけを嫌うこいつともっと重なりたいと思うだから、俺もとんだ物好きで、被虐的だ。悪くないな、こいつに踏まれながら罵られて、唾飲まされながら鞭打ちされるのも。こいつになら。  角度を変えて、縺れて貪った口付けは人の気配で終わりを告げる。見られた。腕の中の人を咄嗟に隠そうとしてしまう。帰ったはずだ。俺の背中を叩いて。 「お前ら…」  熱波みたいな圧があるからすぐに気付く。一緒にいた時間も長い。人を惹き付けて、誰も彼も魅了しちまうくせに、当の本人は嫌悪してるんだもんな、こういうの。もちろん惚れたってのも色々ある。でもこの人は理解なんてしてない。好きか嫌いか、その単純な二択しか。俺のことも月下のことも、好きな部類に入るだろう。でも俺も月下も、そんな単純にこの人への憧憬だの尊敬だの思慕だのを仕分けられちゃいなかった。 「男同士で何してんだよ…?」  激しい戸惑いは予想通りで、ただ背に隠したあいつのことを考えちまうと同時に俺も訳の分からない痛みがあった。 「なぁ…おい。なんとか言ってくれ…」  青褪めて強張った顔は俺だけを見る。 「ご、め…なさ…」 「俺が襲った。ここでやっちまったのは悪ぃけど、咲には関係ねぇことだ」  咲はかたかた白い歯を鳴らす。長かった仲もここで終わるかも知れない。俺は咲の拒絶を受け入れられても、咲は俺を受け入れやしないだろう。ここで、価値観の違いで。 「八重…お前、ホモだったのか?」 「一括りにするならそういうことになるな。今のところは月下だけだが」  咲は頭を抱えてしまった。少し違うが咲が理解するかどうか。分かって欲しくはあるが、分かり合う必要もない。咲という存在に限っては、一方的でもついていくだけだ。 「ヨシ…お前の意思は?」 「やめろ。本当に俺が巻き込んだだけなんだ。月下は被害者だから、」 「オレはヨシに聞いてるんだ!八重、お前は黙ってろ」  兄貴分の叱り方だった。懐かしい。俺は慣れてるが月下はそうじゃないだろう。 「誘ったのは…私です」  でも乗って襲って無理強いしたのは俺。 「ヨシ…八重も。お前ら学校では、あんまくっつくな…生徒に、悪影響だ…」  咲はもう呆然って感じだった。裏切られた気分だったのかもな。裏切ったつもりなんて微塵もねぇのに。 「ヨシ…水泳部のほうも、暫くは、オレ1人で回せっから…」 「待てよ、咲!どういう了見だ?」  真後ろであいつが息を呑む。巻き込んだのは俺だ。咲との間に大きな溝を感じる。何でもかんでも共有して、同じ時間を過ごしてきたくせに、そんなんじゃ覆せない大きなズレがそこにある。 「飛広也とオレは水着だろ」  強く握った拳を冷たく乾いた手に止められる。自分でもそうされるまで何をするつもりだったのか見当もつかなかった。後ろから抱き締められるみたいにあいつが張り付いていて、望んだ体温なのに、嬉しくない。ほんの一瞬で汗ばんで蒸れる。俺はじっと職員玄関に敷かれている(すのこ)を見下ろしていた。 「八重…少し頭を冷やせ。深月にも、暫く…」 「ざけんな。稚児趣味はねぇよ。俺はそんな後ろめてぇ(へき)持ってるつもりねぇからな、間違えんなよ」  咲は黙ったきりだった。あいつの手を握り返して咲の横を通り抜ける。 「オレぁまだ信じらんねぇよ、八重。お前と一緒にいた時間はなんだったんだ」 「咲は女なら何でもかんでも好きになっちまうのか?既婚者にこんなこと言いたくねぇんだけどさ」  返答も聞かない。どうしていいか分からなくなって、気が付くと俺の喫煙所にあいつを連れてきていた。帰るつもりだったのにな。蒼白になった顔は足元ばかりを泳いで、俺を拒むことも忘れている。 「悪かったな。本当にすまないと思ってる。俺に無理強いされてたって言えばまだ…」  あいつの乾いた冷たい手をまだ握っていることに気付いた、放り投げるように離した。あいつは首を振る。 「あれだけ思い切り拒まれたら、もう何も言えませんよ」  月下は俺に笑いかけた。歪んで、下手くそで無防備な。 「悪かった。本当に。あんたには、出来るだけ関わらないようにする」  月下は、「ええ」と躊躇いもなく言った。鋭い爪で切り裂かれるような思いがした。出た言葉をまた口に入れ直したいが無駄なことだった。 「ですが、誘ったのは私ですから、それだけは」  月下はもう帰るらしかった。また職員玄関に向かうらしい。震えた声と、照っていた頬を見逃さない。死角に入った壁の向こう、間近で嗚咽が聞こえ始める。咲は無理だろ、諦めろよ。俺のこと好きになっちまえばいいのに。俺と付き合えば、それで癒えてくれるなら、俺は片想いでもいいのに。好きだ、と嗚咽を邪魔できたら。でもあいつはそれじゃダメなんだもんな。あいつも傍に居たかっただけなんだよな。ままならない。片想い同士、仲良く出来ない。どうして咲は妻帯者で、どうしてあいつはそんな妻帯者が好きで、どうして俺は咲を好いてるあいつを好きになっちまったのか。諦めろよ、と言えたら。俺もあいつを諦められたら。理屈、屁理屈で片付いちゃくれない。俺もじんわり目頭が熱くなって、タバコ吸って誤魔化した。咲は大馬鹿野郎だ。あんな言い方はなかった。俺は咲を掘りたいなんて考えただけでも吐気がする。深月に手を出すと危惧されたのも地味に傷付いて。咲に拒絶されたこともか。咲にそんなこと言わせちまった自分にも腹が立つ。話をしなきゃならないだろうな。月下は俺が巻き込んだ。襲って、言いくるめて、追い込んじまったって。 「八重せんせ!」  俺は暗い空を見上げて眼球を乾かす。目薬程度のものだったからすぐに乾いた。 「風信か。とっとと帰れよ。部活なかったんだろ?」 「はい!…どうかしたんすか?」  半分ほどのタバコを携帯灰皿に押し付けようとすると、風信は数歩下がった。その気遣いを立てることにしてもう少しヤニを楽しむが、若い肺を汚すのは罪悪感があるもんだ。 「それ、秋桜せんせ~とお揃いなんすね」  携帯灰皿を指差して柴犬は言った。よく気付く犬は可愛いもんだ。 「同じヤツからもらったからな」 「誕生日?」 「そ。秋桜せんせ~がオレンジで、俺がピンク」  風信は呑気な態度で、まだ下校する様子がなかった。家庭が上手くいってないのか?俺の知る最近のガキ共はホームシックかと思うほど家に帰りたがるものだが。 「秋桜せんせ~とも仲良いっすもんね。いいなぁ、オレもそういう幼馴染がいたらな」  刺さること言うじゃねぇか。 「ま、なんでもかんでも分かり合えるってもんでもねぇぞ」 「おっ?何かあったんすか」  犬ってのは少し鈍感なくらいが可愛いと思うんだがな。 「何もねぇよ。部活に生徒会にお勉強じゃ、案外友情育むには忙しいな?」 「そうでもないっすよ。クラスのみんなとはよろしくやれてますし」 「さすが優等生」  タバコが短くなって、また中身を捨てるのを忘れて満杯に携帯灰皿に吸殻を押し込む。 「もういいんすか?」  俺もそろそろ帰るか。

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