6 / 10
第6話
-霖雨-
「八重に、何か変なことされたこと、今までなかったか?なんでもいい、なんか、変だなって思うこと」
給湯室に来た秋桜先生に藪から棒に問われる。秋桜先生、子供出来てからあまり顔出してくれなくなっちゃったから嬉しかった。
「ないですけど…?」
「じゃあヨシには?」
「美仁先生?ないですけど…」
秋桜先生から美仁先生の名前が出ると、ちょっとゾワっとした。
「本当に?隠さなくたっていいんだぞ?」
「変なことって何ですか?漠然とし過ぎていて、ちょっと分からないですけど、ないです」
なんで、なんで?美仁先生、ヘマした?ボクとトイレごっこして遊ぶの嫌だった?それよりも、秋桜先生に何か言ったの?それが怖い。事の次第じゃ、嫌なんだけど。不愉快。
「お前ももうそこそこ大人の男に片足突っ込んでる頃だしな…ケツ揉まれたり、尻の穴いじられたりとかだよ」
「…ないですよ。どうしたんですか、秋桜先生。久々にここ来てくれたと思ったら、いきなりそんなことを言い出して。八重さんと何かありました?」
「ない!深月チャン、お前はオレが守るからな」
「うん?はい」
秋桜先生は鼻息を荒くしていた。絶対嘘だ。絶対なんかあった。
「深月チャぁン…」
「なんです?」
「八重とはその、あんまり2人きりになるな」
「え…?はい」
秋桜先生にしては歯切れが悪い。どうして染井先生と2人きりになっちゃいけないの?どうして染井先生がボクのお尻揉んだり、穴をいじったりするの?
「秋桜先生、どうしちゃったんですか。喧嘩でもしたんですか?変ですよ。いつもなら秋桜先生はそんなこと言いません」
喧嘩してたってそんな、染井先生に対してボクが不信感を抱くようなことは言わない。やっぱりあんなにいい男はいない、くらい言う。
「いや…特にどうということはないんだ。ただ、その…少しな」
秋桜先生は少し冷静になったっぽかった。
「ボクが大人の男に片足突っ込んでる頃って言ったのは秋桜先生ですが、ボクには話しづらいことですか」
秋桜先生は、ムゥっとしたカオでボクを見つめる。話していいかどうかの試験って感じだった。ボクは姿勢を正す。
「八重とはもう昔みたいには遊べないことになった。それだけさ」
「どうして?つまらない理由でそこまで言うならちゃいちゃいしますよ」
秋桜先生はまたボクを試験するみたいな目で見て結局理由を教えてはくれなかった。
「あ、分かった。結婚ですか。秋桜先生が結婚するって時、八重さんから聞きましたもん。もう昔みたいには遊べないって。相手に悪いからあんまり無理言うなよって具合に」
でも相手は誰だろう?結婚ってことは社会的に認められてるから、女の人ってことだ。だから美仁先生はない。それに美仁先生はボクの白いおしっこ専用のおトイレになってくれたんだから。染井先生も美仁先生も可哀想だな、好きな人と結婚出来ないなんて。でも仕方ないね、わざわざ好きな人に結婚出来ない相手選んじゃうんだもん。今からでもやめたらいいのに。染井先生はやめたのか。美仁先生はまだボクのこと女の子だと思ってボクに精液出すんだから、可哀想だな。男同士は結婚出来ないって知れたらどうするんだろう?
「アイツそんなこと言ったのか。気ィ遣わせたな、深月」
「いいえ、ボクは別に。八重さんのほうが色々抑圧されてる感じしましたし」
秋桜先生はちょっと難しいカオして考え始めちゃって、お父さんになったんだな、って感じがじわじわした。前ならそんな考えたりしなかった。嫌だな、所帯染みてさ。3人兄弟が2人兄弟になった時のあの閉塞感はなかったな。染井先生がボクのことを1人にしないでくれたこともあってさ。そんな染井先生になんでそんな接触を避けて欲しいようなこと言うんだろ?一抜けしたのは秋桜先生のほうなのに。
「八重はその、複雑な事情を持ってるんだ。オレの口からじゃ言えんから、訊かないで欲しい。訊かれてもオレは答えられん。でもな、その事情ってやつにお前が場合によっちゃ関わる。それが心配だった」
「美仁先生も関わってるんですよね?さっきの訊き方からして」
秋桜先生は固まっちゃったけど、ゆっくり縦に首を振った。顎がゆっくり落ちるみたいな。もしかして美仁先生、秋桜先生にアイノコクハクしちゃった?染井先生を売るみたいな真似したってこと?ボク忠告したのに?
「それならボクは関係ないです。あの2人の問題だと思うんですけど、秋桜先生、何か言われたんですか?主に美仁先生のほうから」
それなら言わなきゃ、気紛れだって。変な意味のはずないって。秋桜先生が曲解して、1人で悩んでるだけだって。あの人はボクとおトイレごっこしてればいいんだ。やっと安定した二等辺三角形みたいなボクらの関係に割って入ってくるのは秋桜先生のお嫁さんだけで、もう十分なのに。
「ヨシのほうからは、特に何も言われてねぇ」
「ならいいです。兄弟喧嘩なんてくだらないですよ。ボクに話せない事情ってやつも、ボクらの関係清算させるくらい大きなことなんですか。ボクは八重さんのこと好きですし、八重さんもボクのこと好きですよ。それは秋桜先生がボクらに向けてものと、ボクらが秋桜先生に向けてるものと同じです」
染井先生と秋桜先生の間に何があったの?ただ美仁先生の横恋慕がバレてないならそれでいい。どうしてボクが尻揉まれたり穴いじられる話になるんだろう?もしかして、バレたのって、染井先生の完全な片想いのほう?染井先生、また人前で言い寄っちゃったのかな、ボクの時みたいに。
「秋桜先生は八重さんと今後どうするんですか。もう絶縁ですか」
「そんな簡単に切れるもんじゃねぇよ。時間の問題だろうな。多分。もし八重のその事情をオレが理解できないでいたら、お前、オレをぶん殴れ」
「いやですよ。ボクの手が痛くなっちゃう。そんな業を背負う気ありません。理解出来ないなら理解出来ないでいいじゃないですか。煙草ぷかぷか吸ってる2人のことも、ビールがぶがぶ飲んでる2人のことも、ボクは理解出来ませんけど、2人はボクに煙草もお酒も勧めてきませんし、理解出来ないことに苦悩したことないですから」
それはボクが未成年だからだよ。でも秋桜先生は真っ直ぐだから、そんなこと気にもしないで感心してた。簡単に縁を切れるほど、良いところばかり見てきたわけじゃない。利があるから、都合がいいから一緒にいたってそんな仲間とか友達とかみたいな関係じゃない。ただ理由もなく傍にいて、何となく一緒にいて、目的の共有なんて必要ない関わり合い方をしてきたから、別に、染井先生の事情ってやつが理解出来なくたって、これからのボクらの関係を清算する必要なんてない。秋桜先生の考え方は違うの?それとも変わっちゃった?自分と血の繋がった子供ができたら、もうボクらなんて二の次、三の次?比べたって仕方ないし、比べるものじゃない。お嫁さんのことは秋桜先生が自分で選んだ関係なんだし。もうボクらなんて、秋桜先生には必要ないのかも。だから、染井先生と縁を切れるなら、ボクは染井先生といく。
「分かった。ごめんな、深月。八重のこと分かってやれなくて」
「分かってないです、秋桜先生は。分からなくたって、別にいいのに」
このボクらの関係さえ壊れなければ。でも秋桜先生はそうじゃない。お嫁さんを連れてきて、子供作って、それでもボクらは。
「八重たちのこと分かってやれないオレが、一番、恥ずかしいやつなんだよ…」
なんでボクにそんなツラ見せるの。やめてよ。秋桜先生は悲しい時も笑ってたじゃないか。壊れちゃうよ、ボクらの思い出が。変わっていっちゃう。誰がいけないの?ボクらを放った秋桜先生?軽率な染井先生?秋桜先生のこと諦めないのに染井先生に告白されてた美仁先生?
-瑞雨-
「咲」
見たこともない。咲の気まずそうな表情。話しかけたのは、俺なのにな。
「な…んだよ」
緊張と警戒が伝わってくる。俺は咲に言い寄るつもりも、責めるつもりもねぇんだけどな。
「月下のことだけど」
「…やめてくれ。その話は、聞きたくない。見なかったことにするし、聞かなかったことにしてやるから…」
遠回しながらも明確な拒絶だ。弁解でもするか?ゲイじゃねぇんだ、月下だけが好きなんだ、と。
「なんでお前がプール見てたのか、オレぁ考えるのも怖ぇよ」
単純な咲の顔はまた青白い。そんなにショックか、弟分がゲイってのは。
「いや、俺が月下を好いてることをそんなふうに蔑ろにして欲しくねぇ。咲、特にあんたには」
「よせ。ヨシのことも妙な目で見ちまうだろうが…水泳部の副顧問なんだぞ。目の前で水着にならなきゃならねぇオレや飛広也の気持ちが分かるか?え?お前に…」
「月下は関係ねぇ。俺が一方的に好きになっちまって、我慢ならなくなって手、出しちまっただけなんだ。あいつにそういう態度はやめてくんねぇか」
なんでお前がつらそうなんだよ。裏切りか?これは。
「頭が追いついてねぇんだ。勘弁してくれ。何も言うな。オレも平静保つので必死なんだよ」
咲は目元を覆って震えていた。これ以上の対話の意思が、もう俺にもなかった。
「深月には、近寄るな。頼む」
弱々しく懇願するように言われたら、俺は了承するしかなかった。
「一応ぼかして、伝えておく」
「…ああ」
深月は知っちまってるけど、そんなことが知れたら咲は発狂するかもな。
「ヨシのことも、どうにか努めっから…」
頭を抱えて咲はよろよろと俺の前から離れていく。とりあえず、月下のことは分かってくれるようだった。
放課後に風信が部室の鍵を借りにきて、気が重くなる。風信は関係ないのに咲が話に出してくるもんだから、コイツも話に関係しているような気がして、後ろめたい。知らず知らずのうちに巻き込んじまってたか?深月はとにかく、風信は無関係過ぎる。とばっちりもいいところだ。風信が親しげに話しかけてくるが、俺は変な誤解を与えたくなくて顔も見ずに返事をした。ここに咲はいないが、俺の中には常駐している。昨日出したプリント課題の採点をしながら適当にあしらった。稚児趣味は本当にない。男色ですら怪しい。月下が女だとしたってあの出会い方してたら好いちまってた。別に女だったら良かったとも思ってねぇけど。男で生まれたからああいうやつなのかも知れないなら、俺にとってあいつに仮定なんぞ必要ない。
「八重せんせ~?」
「鍵借りたらさっさと行けよ」
追っ払うような仕草をすると、素直な柴犬は耳と尻尾を垂らして出ていった。咲も俺が分からなくて困ってるんだろう。分からない自分を責めてるんだろう。申し訳なく思う。咲の中には今までなかった価値観なのかも知れない。社会的にも法的にも失恋して、個人の感情でも完全な失恋を喫したあいつのことを考えると目の前の作業に戻れなくなる。俺の馬鹿な行動がそれを叩きつけた。諦めろ、と何度も思ったはずで実際諦めざるを得ない状況になっていると、どうにもこうにも。さっさと片せばいい採点をサボって、ぼーっと正面に位置する離れた窓を見つめた。
「…ヤエサン…オチャヲ、ドウゾ…」
視界が塞がれ、力自慢に茶を出される。今日も菓子付き。ういろうだ。力自慢は地方の銘菓を持ってくるが大体は咲に食われていて、俺はほとんど味を知らない。「うみねこの王子」とかいう白い菓子は美味かった。
「悪ぃな」
力自慢は顔をふっと赤くして、こくりと頷くとどこかへ消えていく。どうせ深月のところだろう。咲のこと、忙しくしちまったな。水泳部に、深月のお守り。深月のお守りは私用みたいなところあるけど。さっさと仕事を片して帰らないと、またあいつに後ろめたい思いをさせそうで、持ち帰ってもいいが仕事は職場で終わらすもんだと教えてくれたのは咲だった。
授業終わりに女子に囲まれて質問攻めに遭い、漸く抜け出せたところで風信に取っ捕まる。コイツのことだから、カノジョいるんですか?とか、好みのタイプはどんな人ですか?とかじゃないはず。落ち着かない様子で俺を見上げて、なんとなく咲に見られている心地になって、話し出さないコイツに甘えて俺は合ったままの目を解いて職員室に帰った。別に取っ捕まるといっても声掛けられたとか、腕掴まれたとかじゃなくて、俺の進路方向を塞がれただけだし?無視したとかぞんざいに扱ったとかいうわけじゃない。普通だ。俺は一切合切コイツを性的な目で見たことはない。意識したところで。好みのタイプはどんな人ですか?毎度聞かれるが、確かなのは同い年か年上ということだ。実年齢もそうだが、特に俺の精神的な意識に於いて。年下はないな、保護者になっちまったら恋愛は成立しない。俺の中では。
「八重せんせ」
追ってきてたらしく今度は呼び止められる。
「あ?」
「…いいえ、なんでもないっす」
職員室に近い渡り廊下だったもんだから俺も少し警戒しちまった。恐れてる?誰を?咲を?どうして咲を怖がるんだ、俺が?俺も一丁前に傷付いてるわけか、兄貴分にあそこまで拒まれて?風信はまだ何か言いたげだったが俺も忖度していられる状況じゃなくて、問い詰めることもなく職員室に入った。大して関わりもない同じ職場の人間を装って、あいつとすれ違う。遅れて漂う優しい匂いに肺を蝕まれそうだ。ニコチンよりも毒だと思う。落ち着かなくなる。呼び止めたくなる。呼び止めるか?いや…
「染井くん」
理事長 の声がして俺は自分の席を見た。理事長がただの事務イスに優雅に腰掛けている。
「話がある。理事長室まで来なさい」
ゲイはうちの学校に要らんとか、そんな話か?排他社会じゃ世も末だな。仕方ないか、古い体制に生きてきた奴等が構築する社会構造なら。次の仕事が見つかるまでは塾講師でもするか。選ばなければその日の食い扶持を繋ぐ仕事はそれなりにあるはずだ。教職に大して執着もない。咲に拒まれたなら、尚更な。杖を着きながら歩く理事長に合わせながら理事長室まで向かう。圧迫面接みたいに理事長席の真ん前にパイプ椅子が置かれて、尋問でも始まるのか?
「まぁ、そう緊張するでないよ」
緊張は別にしてねぇ。次の職探しに対する若干の不安感がある程度で。
「深月のことだ」
深月のことなんざ俺が知るかよ。息子ほっぽってねぇで親らしいことしろ。妾の子って言ったって手前のガキのはずだ。本妻のガキどもが可愛いのは分かるが、明らかに深月を蔑ろにしてる。あとどれだけ深月の腹違いの兄弟姉妹 はいるんだろうな。
「最近臭う。臭うて敵わん。
「風呂には入ってると思いますがね」
理事長は鼻で嗤った。そこまで面白い冗談は言ってない。
「童貞か、染井くん。だから美仁を抱かなかった?」
「は?」
理事長はまた押し殺したように嗤う。美仁呼びにも変な心地がしたが、理科室での一件がふと頭に浮かんで、何か考えることを拒否していたものが雪崩れ込んでくる。なんであいつは素っ裸であそこにいた?なんでその場にこのクソじじいもいた?
「好いた者が誘っても乗らないとは野暮な男だと思うたが、童貞ならば仕方あるまい」
頭が痛くなる。童貞じゃないという否定も忘れた。15の冬に卒業したよ、相手は高校生。確かカレシ持ち。今考えるとヤバいな。
「どういうことです?誘ったって?」
「少し揶揄ってやろうと思うてな。まさか、君ほどの男が本気ということもあるまい、そう思っておったが…本気か?本気で美仁を好いておるのか?味見をして終わっておけばよいものを」
「話が見えねぇんですよ。順を追っていただけますか」
理事長は俺に一瞥もくれず、杖をつきながら窓の外を眺めて窓際を行ったり来たりしている。歳もあるだろうが、大分前に車に轢かれて膝をやっちまって、それ以来杖をついている。湯治だなんだとあちこち出掛けているみたいだが、実際のところはどうなんだかな。
「美仁に言い寄る男がいると聞いてな。美しいやつだ、分からなくもない。だが…虫一匹往なせないとなれば男の沽券に関わる」
「そうですかね」
ふん、と理事長は鼻を鳴らした。なんだかな。
「揶揄ってやれ、と冗談を言ったらあやつは本当にその者を誘った…だが乗らなかった。儂を侮辱したも同然だよ。手を抜いたあやつも同罪じゃ。生温い優しさや気遣いは時にろくでもない錯覚を生む」
「どんなです?」
理事長が俺を睨む。老年でも元気なことだ。さっさと次の世代にバトン渡して隠居しろっての。特にこういう狡猾で狷介なじじいはな。若い血肉を食い潰すことしか考えてねぇ。
「野暮なことを訊くな」
理事長は俺を煩そうにみて背を向けた。
「諦めなさい。あやつはわぬしには堕ちん。あやつの両手両足に鎖が付いおる。わぬしの元にも堕ちん。秋桜の元にも行かぬ。だが、深月となれば別よ」
「そこで深月ですか」
っつーことは本題か?回りくどいじじいだな。校長の話より要点がまとまってねぇ。
「一度相手をさせれば、いっときの気の迷いで済むと思うたが無駄じゃった。より想いは増す。あれは身体が男でも、中身は子供じゃ。年上の女の業を背負った美仁を近付けさせるべきじゃなかった。よりによって、母親に容貌も雰囲気も、気性までよう似た美仁を」
「深月の兄貴だなんておっしゃいませんよね」
「馬鹿を申すな!」
いつでも冷淡で、何にも動じない理事長が感情的に怒鳴って俺は苦笑いを浮かべた。うっかり肯定でもされたら困るのは俺だ。
「それで、とどのつまり俺はどうしたらいいんです」
「深月に美仁を渡すな。深月は儂の跡を継がせる。男に気を惑わし狂うなどあってはならん。父親の愛玩具を欲しがるなど…」
「つまり独占欲ですか。渡すも何も…」
「深月は美仁を抱いて、色事に明け暮れておる。わぬしもあやつを好いておろう。哀れな男よ、触れた男をすべて惑わして、居場所を次々に壊していくんだからな」
顔が引き攣っていく。深月があいつを抱いてるだ?とうとう老害か。まずは被害妄想から始まると聞いたことがある。医療の進歩が人間をぶっ壊していくのかもな。
「仲を引き裂いてやれば、あとは儂のもとに帰ってくるだけだ。わぬしの悪いようにはせん。抱いたらいい。許しを出せば、あやつは喜んでわぬしに抱かれる」
咲の傍に居られるだけでいいってのは妥協じゃないんだな。
「俺と深月の関係はどうなります?月下の気持ちは?」
全部私欲で俺に利がねぇんだけど。深月まで俺から離れていくわけかよ。素晴らしく杜撰な計画だな。それとも息子に嫉妬してるのか?いや、意地だろ。息子だろ、容赦しろよ。いつまで1人の男でいるつもりなんだ?親だろ。
「今は気紛れに恋愛ごっこを楽しんでるようだが、すぐ引き下がるだろう。何も執着のない男だ。儂の財産にすら食い付かん。何をしてやったらいいか分からんほどだ。美仁のことは慮らんでよい。あれは儂の人形で、そう躾けてある」
このじじい正気か?月下が人形?それは綺麗って意味でか?着せ替え人形にしちゃ難儀で、可愛いやつなのに?
「…深月のことは分かりました。でも、月下を自由にしてやってくださいませんか」
「話が分からん男だ。わぬしは儂の若い頃に似ておるからな、気に入っておったのだが残念だ。儂がわぬしに深月との仲良しこよしは諦めろと言えば、わぬしは諦めるのか?」
理事長はぼそぼそと喋り始める。とすれば俺の行き着く先は晴れてねぇのか?こんなじじいにはなりたくねぇ。もっと、あるだろ。近所で犬散歩させてるおじいさんとか、炎天下で交通整備して働いてる老人とか、古びた駄菓子屋で近所のガキ見守ってるじいさん店主とか。よりによってこの狡猾なじじいはな。
「秋桜くんに頼もうか。最後にあの可愛い人形はどんな風に人間ぶってくれるだろう?」
暮町くん、ってクソ理事長はあの力自慢を呼んで、ああボコられるなって思ったが、まぁ、返事はもう決まってっからさ。
もう帰るのかよってただ世間話のつもりで、それから酔っ払いどもの介抱がダルくて抜け出した。手前の飲める酒の量くらい弁えておけよって。流されて見誤ったなら、それは手前らで始末すること。よく知らねぇけどなんとなくあいつは最後まで残っちまって面倒看るんだろうなって思ってたから途中退席は意外だった。俺は聞き飽きた咲と嫁さんの秘話が他の奴等には新しかったみたいで、あいつの退席は場をシラけさせたみたいだった。なんだかそれが面白くて、俺もこの機に乗じて金を置いて帰ることにした。俺が自分から話し掛けるくらいだから、俺も結局は相当な量飲んでたのかもな。もともとそいつは俺のこと苦手って感じの態度で、腫れ物扱いだった。固い苦笑とか、まだ少し記憶に残ってる。今ならもう不機嫌な眉間に上塗りされてるけどな。あいつは俺が話し掛けてもすたすた歩いて行っちまって、肩掴んで覗き込んで、流れて落ちていく涙に酔いが醒めて。泣上戸かこいつって感じだったのに、少しずつ分かってきて、目で追って。同情に似てるのか?咲と親しかった優越感?あいつの涙に堕ちた俺は結局、クソ理事長と同じ穴の貉 というわけかよ。でも俺はあいつに触れて欲しいから。あいつがまた泣くの、息が詰まるから。綺麗事でも理想論でもいい。あいつの泣いた顔が遠い遠い過去になって思い出せなくなれば。好きになっちまったきっかけなんていつでも塗り替えられる。あいつなら。俺に触れて、俺に笑ってくれ。
『やってやるよ、俺がやる』
「…ヤエサン…ヤエサン…」
雨が降る。俺をぶん殴る岩みたいな拳が解かれて、あり得ないほど優しく包む。円らな目が俺を見下ろして、でも目元が攣って焦点はブレる。鼻血が冷たい。力自慢の浮腫んだみたいな顔に飛んでる血飛沫は俺の血か?
「…ヤエサン…」
雨がまたぼたっと俺の顔に落ちる。室内なのにな。俺が泣いてんのか?殴られすぎて涙腺がバカになったまであるな。一生泣きっ面晒して生きるのか?あいつの泣いた顔に見惚れた罰にしちゃ洒落てる。面白くないロマンだ。
「…モウシワケ…アリマセン…」
「はは…また、茶、頼むわ」
ごつごつした枕付き。ありがたい手当だ。またぼたぼた雨が降る。そうだ、これから、深月を傷付けなきゃならねぇんだった。あいつを弄んばなきゃならねぇんだった。咲は何も知らなくていい。咲は俺たちの鎖から放たれたんだから。
「ヤエサン…ヤエサン…」
「深月のこと頼むわ、気難しいやつだけど、なんだかんだ優しいやつだから」
身体中が筋肉痛みたいに鈍く痛ぇ。結構派手にやったな。転がってるバットにまるで覚えがないあたり、意識ぶっ飛んでたかも。なんとなく、理事長もこの力自慢も、堅気じゃねぇんじゃねぇか、って。
ともだちにシェアしよう!