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第9話
-瑞雨-
数秒、数十秒、それ以上見つめ合っていた。俺と?こいつと?見慣れた顔はまるで他人のように思えた。俺の憧れで、俺が惚れた兄貴分。
「お前…!」
静寂が嘘みたいに咲は怒鳴って、構えた拳は俺に向かってきた。
「待って!待ってください!待って…」
あいつが俺を庇う。咲の振り上げた腕が止まる。殴られるより痛い眼差しを全裸のまま一身に受け、俺はその後姿をただ見ていることが出来なかった。こいつにもプライドがあるが、俺にだってある。好いたやつが好いたやつに1人責められるような目を向けられて黙ってられるほど静観には慣れてないし、ともすれば勝手に身体は動いて咲とあいつの間に割り込んだ。咲の意識が俺に移る。怒っているというより悲しそうな表情で、それが咲の強烈な殴打より響く。
「どうなってんだよ?オレにはさっぱり理解ができねぇ。ここは保健室だぞ、鍵まで掛けてよ…」
引き攣った笑みは俺のよく知らない笑い方だった。もう笑うしかない、みたいな笑い方、咲はしないだろ。
「気持ちを抑えきれなかった」
努めて平静を装うが、語尾も手も震えたし、膝に力入れて立ってるのがやっとだった。
「お前が、そんな奴だなんて思わなかった…やっぱ教師、向いてねぇよ」
「違、…、ッぅ」
「あんたは黙ってろ」
あいつの顎を掴んで唇を奪う。咲は顔を顰めて視線を逸らす。
「不埒だろ、ここは学校で、オレたちは生徒を清く正しく指導する立場にあるはずだろ?なんだよ、この為体 は?」
困惑に顔はまだ引き攣っている。
「慣れてなかったな、やっぱり。お前の危惧するとおりだった」
咲の拳が俺の頬を打つ。骨とか歯茎が軋むくらい痛い。でもこんな無様を晒してるのはもっともっと痛い。目の前がちかちかしたが、あいつの匂いに包まれる。
「どけよ、ヨシ。そいつにはちゃんと教えなきゃなんねぇ」
「やめてください。暴力はご法度です。教育者なら分かるでしょう…?」
まだ本調子に戻らない頭はぼぅっとしていたが、それでも月下が咲にそんな口を利くとは思えなかった。あいつの陰が濃くなって、俺を昂らせる柔らかな匂いは鼻奥の鉄錆臭さに阻害される。
「なんだよ、その背中…」
ぼやけた視界が輪郭を取り戻して、俺を覗き込むあいつは俺を見下ろすけど俺のことなんてもう意識の外で、それでも咲に顔見せないように俯いて、瞬きしたら涙が落ちそうになっていた。
「ヨシ、お前なんで刺青なんて入れてんだ…?」
ころころと話題が忙しいもんだ。俺は身体を起こして、身を引かないあいつをそのまま抱き締める。固まったまま肩にあいつの顎が乗る。冷たい裸体に体温を渡す。
「咲にも俺にも分からない苦労があんだろ」
「真夏にも脱がねぇ、健診にも来ねえのはそのせいかよ」
強張る身体をさらに強く抱いた。お前は孤独じゃない。こんな肌に入った絵でお前を独りになんてさせたくない。それでも咲じゃないと嫌なんだろ。でも俺は傍にいる。求めるなら離れたっていい。思わず咲を睨んじまう。
「教師なんだぞ、分かってるのか…?」
「よせって咲。分かってるからこいつは苦しんでんだよ。お前のその熱さだの純粋さだのが尚つらかったろうさ」
「八重、お前、見て見ぬ振りをしてたのか!」
こういう真っ直ぐなところが時折跳ね返って俺を突き刺す。でも咲はそのことに気付かないし、気付かなくていい。曇らなくていい。太陽みたいに照らされた人間を炙り殺しても、咲の良さはそこにある。でもな、日陰まで照らそうとすることはなかったはずだ。
「咲…言いづれえけど、知らず知らずのうちってことがあんだよ。あの理事長は真っ当な社会の人間じゃ、」
「ふん、秋桜くん。ここで何をしておるのかな」
ああ、咲、ドア閉めてなかったもんな。
「津端理事長…」
「深月は来なかったのかね」
咲の怪訝そうな顔は雄々しくて見惚れる。こいつには見えないし見せない。まだ硬直して俺の腕の中でじっとしている。さらさらした髪を撫でた。このままショックで死んじまいやしないかと怖くなる。指通りのいい毛は絡まることなく俺の手から滑り落ちた。
「まぁいい。美仁よ、お前はその背中の呪いがある限り、儂から離れるなんてことは出来ない。諦めよ」
「いいや、俺にください。月下美仁を俺にください」
俺を突っ撥ねて月下は俺から距離をつくる。
「美仁は嫌なようじゃ。何よりわぬしに美仁は渡さん」
「くれとか渡さないとか、ヨシは物じゃないはずです。ンでも刺青を入れている人間が教職に就いていていいとも思いません。理事長!」
「ふん、残念だ秋桜くん」
咲のギラギラした目を見ていられない。もう近くで見ることもないかも知れない惜しさはあれど。
「ならばわぬしにも入れてやろう。無理矢理に墨が入ってから、教員の在り方について考えるといい」
くそじじいは月下に手招きする。全裸のまま行こうとするあいつを引き止めた。あいつは振り払おうとする。放したくない。行かせたくない。俺を鬱陶しそうに振り返ったあいつに首を振る。気拙げに咲は俺たちから目を離した。
「秋桜くん、深月を連れてきてくれぬか。皮肉なこともあるものよ」
咲は狼狽えながら了承し、クソじじいは杖をつきながら保健室の内線へ向かっていく。風信を呼び出して欲しいと言って内線は切られ、俺への抵抗を諦めた月下は遠い目でクソじじいを追っていた。
「どうした?続けたまえよ。ここからが本番であろうに」
クソじじいは嫌味な笑い声を押し殺した。月下はゆっくり俺に意識を戻して、不安そうだったがベッドに戻る。
「秋桜くんも戻ってくる。ちょうどいいかも知れぬな。役者が揃ったも同然。あとはどう秋桜くんが屈するか…あの手の者は力では御せん。ともすれば…住所、家族構成が知れているとは便利よな。あれで儂を信じ切っておる。出会う場所さえ違ければ、血の繋がらぬ息子に迎えるのも厭わなかった」
「好き勝手ヌカしてんじゃねぇぞ、じじい!」
月下の手に引っ張られる。冗談じゃない。
「協力してください」
懇願されたら断れないんだよ、お前にされたら。
-霖雨-
「染井先生とは仲直りできましたか?」
秋桜先生はボクから目を逸らして、ちょっと黙ってから、「ああ」って言った。ちょっとだけ楽しくない感じがあった。このまま中途半端に修復して、変な部分だけ直らないまま、そこから大きな罅が入っていって長引かせるだけ長引かせて結局壊れてしまったら。それなら粉砕して欲しい。小さい頃にやったスイカ割りみたいに。秋桜先生の手で。染井先生に導かれて。っていうか、本当に染井先生いたんだ?
「保健室に来いって…でも、行かなくていい。行かなくていいぞ。っていうか来るな。もう少し八重と話してぇことあんだ」
「誰が呼んでるんですか、ボクを。染井先生が呼んでるんですか?」
「ああ」
少し苦々しい。秋桜先生は単純で真っ直ぐな人だから誤魔化すことなんて出来ないんだろうな。
「分かりました、そういうことなら行きません」
秋桜先生はボクを不審そうに見下ろす。秋桜先生は大きいなぁ。ボクは何も知らないフリをする。秋桜先生はそのほうがボクを可愛がってくれるから。きっともうすぐ終わる。子供がもっと大きくなったら。でも仕方ない。秋桜先生はボクらの三角形から抜けて、違うところで三角形を作ったんだから。もっと傍にいてよって思う。
「深月。深月は八重が好きか」
「嫌いです」
風信くんのところ、行っちゃうのかな。それとも暮町さん?秋桜先生みたいに、三角形から抜けていくの?大きくて厚い掌がボクの頭の上に乗る。美仁先生とは全然違う手。
「好きだろ?」
「はい」
「待ってろな。八重と話つけてくるから」
「それは決着する話なんですか。解決はするんです?お互いに妥協するか、どちらかが折れるんですか」
秋桜先生は困ってるけど笑った。染井先生と喧嘩した時ボクにだけ見せるカオ。お嫁さんとか子供にもするのかな。
「やれるだけやるさ。でもダメな時は…あいつなりの道を尊重するよ」
オトナの難しい話だな。漠然とした比喩と漠然としたそれっぽい言葉。秋桜先生らしいけど、秋桜先生の中ではその意味が分かってるならいいや。秋桜先生は来たばかりなのにまた戻っていった。ボクを呼びに来たくせに手ぶらで。
授業、風信くんはサボったみたいだった。優等生なのに。暫く授業に集中していたのにお父さんが覗きに来て手招きしたから先生を見たらアイコンタクトで行っていい、って感じだったからお父さんのところに行った。会いに来てくれて、わぁ!ってなった。今日は一緒に家に帰ってくれるのかな。一緒にご飯食べられる?訊きたかったけど、もし違ったらお父さんを潰しちゃいそうだから訊かなかった。お父さんは忙しいから仕方ない。あっちこっち飛び回って、それでボクはお腹減らないし、不便なんてない。テレビも大きいし、廊下は勝手に電気が点いて、リビングはとっても広いんだし。お父さんは杖をつきながら階段を降りるから、ボクは腕を貸す。お父さんが車に轢かれた時はびっくりした。今でも怖い、ぴかぴかの黒くて大きな車って。狭い道でもすぐアクセル踏むし…お父さんは先に保健室に行きなさいって言った。保健室で何かあったの?染井先生はあそこで話があるみたいだし、秋桜先生は来ないで欲しいっていうし、もしかして上手く仲直りできてないの?このまま壊れちゃうほうがいいのかな。でもそうしたら秋桜先生、困るよね。染井先生だって。それは、ご飯食べられないときみたいな感じになっちゃう。ボクは戸惑ったけど、お父さんの言うことだから、お父さんを階段に置いて保健室に向かった。でも後ろから腕を引かれて止められる。
「ダメっすよ、行っちゃ」
ボッコボコにされてシャツとかニットベストを鼻血とかで汚した風信くんだった。腫れ上がって潰れかけた目がボクをみてる。かっこいい顔が台無しだね。
「行って欲しかったんじゃないんです?」
「意地っすよ。殴られ損だ」
へらへら笑うけど全然かっこよくない。
「お父さんが行けっていうんですよ。秋桜先生は来るなっていうんですけど」
「…月下せんせ~から手を引いてくれないっすか。あの人は理事長のモノなんすよ。ここで頷いてくれたら行かなくていいんす。オレも殴られた甲斐があったってもんで」
風信くん、たまには面白いことを言うんだなぁ。
「別にボクは手離してもいいんですけどね。でも美仁先生はどうかな。あの人はボクが見張ってないと全部壊す気なんですよ。ボクごと、染井先生のことも、秋桜先生のことも。もしかしたら風信くんのことだって」
ボコボコになった風信くんの顔、治るかな。傷は塞がるだろうけどシミみたいになりそ。お母さんもそうだった。お母さんも女の人にボコボコに殴られて、痣は消えてもシミが残って。ああ、考えると眼球と喉が痛くなって風邪引いちゃう。
「だから黙っててよ、君は壊れてもいいけど、秋桜先生と染井先生は壊れたらダメなんだから」
掴まれてる腕を振り払う。顔が痛くなった。お父さんはしないけど、お母さんを殴った女の人にはされたことがある。じん…って破裂したみたい。あの時ボクにも力があればな。ボクにも力があって、状況を理解する能があったなら、お母さんのこと守れたのにな。
ボクの手はもうボッコボコの風信くんの顔に振り上げられてて止めるのは無理だった。もともとボコボコにされてたのもあったのかな、ボクの大したことない一撃で体勢を崩して、ボクはその上に乗り上げた。風信くんはボクの袖を掴んだままだった。ぐちゃって生々しい音とか感触があって気持ち悪いけどボクは風信くんを殴った。顔変形しちゃうんじゃないかな?整形だね。もともとかっこいいしかわいい顔してたんだし整形じゃないな。変形だよ、そのまま。でも大丈夫だよ、ボクってそんな力ないから。お母さんを殴る女の人が連れてきた子供たちにいっぱい殴られて蹴られて抵抗しても、ビクともしなかったんだから。変な咳しながら風信くんはぐったりしちゃった。強制的に眠くなるんだよね、目が上に引っ張られてさ。分かるよ。昔のボクみたい。お腹とか蹴られてさ、踵落としは吐いちゃうくらい痛かった。ボクは「フギノコ」とかいうキノコなんだってさ。風信くんも?手が汚れちゃった。風信くんはボクの腕を離さない。そんなに行かせたくないの。ボクだって行きたくないよ。精一杯風信くんをぶん殴ったら手を放してくれて、ボクは出張の札が掛かってる保健室に入った。
まず目に入ったのは暮町さんだった。秋桜先生を床に敷いて動きを封じている。猫の交尾みたいだった。
「やめてよ、暮町さん。秋桜先生がつぶれちゃうよ」
勢い余ってぽかぽかとケバブ屋に吊るされてる肉塊みたいに太い腕を叩いてしまった。暮町さんらボクの血で汚れた手を一瞥して、秋桜先生を放してくれた。乾いてるから汚れてないはず。秋桜先生はボクを睨むように見てからじっとクリーム色のカーテンに囲われてるベッドを見ていた。
「深月」
秋桜先生が呼ぶ。ボクは訳の分からない押し潰されそうな感じがした。
「やめとけ」
秋桜先生に後ろから抱き竦められる。懐かしい。もうしてくれないと思った。ボクは大きくなったから。もう子供にしかしないかなって。でもね。ボクは首を振った。秋桜先生は難しいカオしたけど少し力を緩めてくれたからボクはカーテンに手を伸ばした。でもボクが開ける前にカーテンは開いて、誰が開けたかとかよりも、ベッドの上に寝てる人に心臓が飛び跳ねた。お母さん。裸のままベッドの上で、頭撃ち抜いて死んじゃった。お母さんだ。会いたかった。ボクは息苦しくなって、踵や爪先の感覚がなくなった。お母さんに会えるの?お母さん居るの?なんで?
「やめろ。寝かせておいてやれ」
お母さんがいるのに。起きて。また二度と会えなくなっちゃうの?近付かせてくれなかった。お母さん、なんで。邪魔しないで!邪魔しないで。お母さんに会いたいのに。お母さん。肩を掴まれて、振り解いても腕を掴まれて、邪魔しないで。ボクはもうどこの三角形にも居られないんだから。
「離してよ。離して、…離せ…っ、離せよ!」
ボクは叫んだ。お母さんが。でも、
「いい加減にしろ、深月!」
息を焦る。ベッドの上の人が寝返りをうって、ボクの前には染井先生。色々なものががちゃがちゃに崩れていくような気がした。お母さんなんていない。美仁先生が苦しそうに寝ているだけだった。お母さんなんていない。もうお母さんは死んじゃったんだ。だからもう会えない。二度と。
「ごめんな、深月。月下先生は、俺のだから。お前は手を引け。忘れるんだ」
眼球の裏側を抓られたみたい。人間の身体ってお湯沸かせるっけ?ってくらい目が熱くなって、ボクは目の前の人をどうにかしなきゃいけない感じがした。この人は誰?よく知った声。名前も頭に浮かんではいるけど。爆発する。やめて、やめてよ。
「もう月下先生はお前の遊び相手じゃない。俺のだから、手を出すな」
壊れる。染井先生と秋桜先生みたいに?ボクと染井先生も?違う、美仁先生が壊した。ボクも、壊れちゃった。秋桜先生も?
「ダメですよ…」
「深月」
美仁先生が全部壊す。みんなを壊す。あたしの家庭を壊しやがって!って叩かれちゃう。お父さんを奪らないでよー!ってお腹蹴られちゃう。この人はそれが分からないんだ。あんたには身体で教えなきゃダメなんだからってお母さんが叩かれて、殴られて、踏み付けられちゃう。ボクは怖くなって染井先生に手を上げた。でも染井先生は喧嘩強いから、弱いボクの手首を掴んで、ボクの視界が横転した。衝撃と熱と痛みが同時にきて、眼球が潰れたみたいに目の前が滲む。
「八重!お前…っ!」
「悪ぃな、咲」
耳の奥がわんわんする。秋桜先生の暑苦しいくらいの体温がボクを支えた。お父さんだったらな。秋桜先生がお父さんだったらよかった。秋桜先生がお父さんだったら…
「お前に嫁さんとか子供がいるみてぇに俺にも守りてぇやつがいるんだわ」
秋桜先生はボクのお父さんにはなれない。秋桜先生はもうお父さんだから。
「深月、来いよ」
「八重…!」
「教育に暴力は要らねぇ。お前を1人の男と見込んで、来いよ。俺にもこの意地は譲れねぇ」
もう戻れないんだ。三角形はぐっちゃぐちゃ。点と線だけ。ボクには守りたい人も、譲れない意地もない。ボクには何もない。ただ染井先生のことを殴れそうにない。怖い。ボクの手で粉微塵に砕くの、無理だ。悲しいよ。寂しい。でも染井先生は厳しい人だから、秋桜先生の腕から抜けたボクを殴る。秋桜先生が止めようとして、ボクは秋桜先生を止めた。染井先生は笑ってるけど楽しくなんてないんでしょ。
「お前を早々に手放さなかったのは俺たちの失態だ」
ボクも風信くんみたいにボコボコにされるみたいだった。少しは風信くんに優しくなれるかな、明日から。染井先生の拳は痛いな。でももっと痛いのは顔面じゃない。染井先生が壊してくれる。ボクと染井先生を繋いでた最後の1辺が砕け散って点線にもならなくて、破片も残らず消えていくんだ。それも悪くないのかな。だってボクたち、結局は他人で、いつか散り散りになるしかないんだもん。
「八重!もういいだろう!」
「まだだ!立てよ、深月。やられっぱなしでいいのか?月下は俺がもらうぞ、それでいいのか」
「八重!お前は冷静じゃない」
「冷静だ。冷静に決まってんだろ。だから、…っ、いや、深月、俺に1発でも入れてみろ」
殴れる?染井先生のこと。無理だよ、あの人のこと殴る理由ないもん。大丈夫だよ、ボクのパンチは弱いから。お母さんのことだって守れなかったでしょ?自分のことだって。
「大丈夫ですか、津端くん」
嗄れた声がボクを呼ぶ。下瞼に留まってたものが落ちちゃう。
「貴方がやったんですか」
「ああ」
シャツを羽織っただけの美仁先生がボクに駆け寄って、冷たい手に庇われる。ボクが壊しちゃうんだ、染井先生が新しく繋いだ1辺を。殴らなきゃいけないんだ。その1辺を守るなら。そんな駆け引きしなきゃいけないの?面倒臭いな、大人って。ボクは美仁先生を突っ撥ねる。もっと触れ合っていたいけど、苦しいよ。ボクには守りたい人も、譲れない意地もないから。よろよろだけど立ち上がった。1人だと立つのもしんどいんだなぁ。
「染井先生!さよならッ!」
痛いな。染井先生の横面は意外に硬くて、手も喉も目の裏も、どこもかしこも痛い。ボクの身体に存在しない部分が痛くて痛くて泣いちゃいそう。染井先生は転倒したけどすぐに起きた。
「深月…」
秋桜先生がボクを呼ぶ。抱っこしてくれるやつだ。空気で分かる。でももう、ボクらの三角形は砕けたから、ボクはもう秋桜先生の太くて暑い腕の中には帰れない。もうボクの居場所じゃないんだ。ボクは涙が止まらなかったけど、もうかんなところには居たくなくて、明日から1人だってことに早く慣れなきゃいけなかった。廊下に出てたらぼろぼろでボコボコの風信くんがいて、ボクの肩をぽんって叩いたけど、彼のことなんてどうでもよくて、元来た道を戻るけどお父さんは居なくなっていた。「人生は過酷で寂しくてつらいから、できるだけ笑っていたら、みんなが愛してくれる」ってお母さんが言った。でもお母さんは、みんなに愛されないで死んじゃったじゃないか。ボクを産み落として、お母さんだけ、自分で死んじゃった。さよなら、秋桜先生、染井先生。ボクは1人で生きてゆきます。もうお別れなんて嫌だから。
「……イキマショウ」
ここにも、1人を選んだ人がいる。染井先生を殴った手をぶよぶよしたパンケーキみたいに大きな手が包んでくれた。
「言わなくていいの」
「……ハイ」
「幼馴染に奪られちゃったね」
「…ハイ」
暮町さんはボクを理事長室に連れて行く。
「お父さん」
「深月、どうした?その顔は」
顔はぐちゃぐちゃになって、お父さんに見せたくなかったけど。
「染井にやられたのか!」
この土地を離れて、お父さんの仕事についていくんだろうな。秋桜先生や、染井先生が関わっちゃいけない社会に入るんだな。お父さんの傍にいる暮町さんの鉄仮面をみて、ボクは目を瞑った。
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