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第7話

「もしかすると、その友人は精霊の気配を感じたのかもな」  玖珂は紙を細く丸めて手の上でポンと叩くと、ソファから立ち上がり、部屋の壁に描かれている絵画に向けて歩いて行った。 「おい、玖珂」 「ところでさ、さっきから気になってたんだけど。このしだれ柳の絵さ、近くでみるとやっぱりすごいな」 「確かにそうだが……」  幾重の葉が大きく広げて重なり合う、若葉色のしだれ柳。夏の真っ青な空へと届きそうな程に、枝葉の盛り上がりが優美で瑞々しい生気を放っている。そして放物線を描きながら、青碧色の湖へと下方に流れ落ちる様は打ち上げ花火のようで、雅やかな佇まいを滲ませていた。  枝葉の隙間から洩れる、明るい日射しが柔らかく水面を反射している。まるでしだれ柳が神秘的な湖を周りから護るようにも見えた。この聖域を他の誰にも侵されぬようにと。  繊細な線で描かれた水彩画は、金色の額縁に入れられ、壁面に掛けられていた。 「なんかさ、絵が生き生きしてて、命の塊が柳の木と湖に宿ってるように見えるんだよな。めちゃめちゃ好きなんだよ、こういうの」  唐突な玖珂の行動に、俺は眉を潜めてしまう。確かに素晴らしい絵だが、今は仕事中だぞと注意しようか迷っていると、背後にいた桂斗が答えた。 「褒めてくれてありがとうございます。それは、僕が描いた物です」 「桂斗さんの作品なんですか」 俺が訊ねると、桂斗はソファから立ち上がり、絵に近寄った。 「ええ。兄がヨーロッパに長期滞在中に会いに行った時に描きました。兄の住むアパートから、きらきら光る水面と澄んだ湖畔が良く見えて、そしてそのすぐ傍に生えていたしだれ柳がとても美しかったんです。見た瞬間気に入って、記念に数週間通い詰めて描いてみたんです」  照れた表情で小さく微笑みながら、額縁に手を添えた。 「これを見た義兄が、感動してすごく褒めてくれて、僕もとても嬉しくなって。大学の教授に見せたら、全国水彩画コンクールに出したらどうかと推薦してくれたので、試しに出品してみたんです。そしたら最優秀グランプリを貰ってしまって。それからはコンスタントに絵の依頼も来るようになりました。兄のお陰で画家になれたと言っても過言じゃないんです」  桂斗は、懐かしむような優しい瞳で、しだれ柳の絵を見つめた。 「最近は義兄も僕も、それぞれ舞い込む仕事で忙殺される事が多くなり、会話どころかめったに顔も見られなくなりました。義兄は外国で演奏する機会もどんどん増えて、一年の内、半年間は海外生活を送ってます」 そんなに長く国外にいるのかと、俺は頭の中で情報を修正した。確かに著名な音楽家だと、様々な国で演奏する事は普通なのだろう。 「それでは桂斗さんは、その間ここに一人で住んでいるんですか?」 「はい。両親が事故で亡くなった後、悲しくて泣いてばかりいた僕に、義兄が大きくなったら、二人で一緒にこの家に住もうと言ってくれたんです。だから今は、僕がこの家を守らなきゃいけないんだと思ってます。でもやっぱり独りでいると、どうしようもなく不安で堪らなくなる時があって。そんな時この絵を見ると、楽しかったあの当時を思い出す事が出来て、頑張れる気がするんですよ。僕の画家としての原点なんだと思います」  どこか寂しそうな表情で話す彼を目にして、胸の奥がつきりと傷んだ気がした。  大柄で長身だが、まだ二十五才の若者だ。自分のようなアパートのワンルーム住まいと、こんな広い家に独りで住む彼とは、また全く違った孤独感を感じるのだろう。  不意に無言になった俺達の視線に気付き、少し慌てた彼は、誤魔化すように明るく笑った。 「あ、すいません。なんだかしんみりしちゃいましたね。もう僕も大人ですし、大丈夫ですから。質問がなければ、そろそろ義兄を視て貰いたいんですが……」 「分かりました。先程のピアノの音も気になりますし、遥さんの様子を視させて頂きますね」 「ピアノの音って?」 玖珂が、何があったの、と反応し振り向いた。 「二階の無人のピアノがある部屋から、ピアノの音が聞こえてくる事があるんですよ。さっきも藍佐波さんが来られた時に、少し音が鳴りました」 「へぇ。面白い精霊障だな。俺も聞いてみたかったな」 「お前がいると聞こえないかもしれないけどな」  精霊障に興味を示す玖珂に、お前はもう少し緊張感を持てと一言釘を刺してから、巫遥の部屋へと向かった。

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