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第8話
リビングルームを出た向かい側の客間に入ると、巫遥は静かに眠っていた。
艶やかな黒髪に透明感のある色白の顔に、長い睫毛に覆われた目元。薄桃色の唇はストイックな色気を感じさせる。三十才を過ぎても若く魅力的に見える青年が、ベッドに横たわっていた。
「遥義兄さん、離れていてごめんね。今、お客さんを連れてきたよ」
桂斗は、真っ直ぐ遥の元へ向かい、跪いた。
「エレメンタルサーヴァントの藍佐波さんと玖珂さん。義兄さんを助けてくれるかもしれないんだ」
「初めまして、遥さん。今日は桂斗さんの御依頼で、様子を見させてもらいに来ました。よろしくお願い致します」
そう話しかけても全く反応が無く、眠ったままだった。特には強い精霊のいる気配は感じられないが、ベッドの付近を眼を凝らし手をかざすと、僅かにひんやりした感触が伝わってくる。
「どう、何か見えるか?」
「特には何も。ただ遥さんの周りに、精霊が干渉した形跡はうっすらとある。恐らく昏睡状態の原因はそれだと思う」
「じゃあ、精霊を呼び出して無力化するまでは、このままってことか」
「何が精霊のトリガーになっているかも探さないとな」
桂斗は、話し合う俺達を不安そうに見ながら、力無く伸ばされたままの義兄の左腕を優しく撫でた。少し涙汲みながらも微笑み、彼に元気づけるようにそっと話しかける。
「早く元気になって、目を覚まして。義兄さんの声が聞きたいよ。いつも弾いてくれるピアノの曲を聴きながら、絵を描きたいんだ。外国で買って来てくれるお土産よりも、義兄さんが笑って傍で話してくれるのが、一番のプレゼントだって思ってるから」
喉を震わせ、遥の手を両手でしっかり包み込み、祈るように彼自身の額に添えた。
「義兄さんもこんなに長い期間、ピアノから離れているなんて嫌でしょ?僕なんかよりもずっと才能があるんだから……。目覚めてくれるなら、僕が喜んで代わりになるから。義兄さんがいないと、寂しくて悲しくて堪らない。生きててもしょうがないって思ってしまうんだ。何でもするから。だからお願い。どうか目を覚まして、遥義兄さんっ……」
感情を押し殺した声で、桂斗がそう願った時だった。
遥の目元から一筋の涙が流れ落ちた。
意識が戻ったのか?いや、違う……。
一瞬、遥が桂斗の声に反応して目覚めたのかと思ったが、周囲の様子の急激な変化に気づく。
甘やかな花の香りと水気の含んだ風が吹き、どこからともなく聞こえてくるピアノの旋律。ひやりとした空気が室内を満たし始めた。
「これは……」
「冷たっ、何だ?」
ぽたり、ぽたり。
雫が一滴、二滴と、顔に落ちて来た。周りにも雨漏りしているかと思うほどに、上から止めどなく降って来る。
咄嗟に上を見上げると、天井をびっしりと埋め尽くした藤の花が、揺らめきながら咲いていた。その桃紫色をした藤の花の先から、次々と雫が滴り落ちて来る。
「うわっ……、な、何が起きているんですかっ……?」
桂斗が遥を護るように抱き寄せて、怯えた声を上げた。どうやら彼にも藤の花が見えているらしい。特に精霊に攻撃性が感じられないので、一先ず藤の花に意識を集中させた。
雫は冷たいが凍る程ではない。数え切れない数の藤の花が甘い香りを漂わせ、風までが吹き優しく揺れている。雫を浴びる度に、誰かを憧れ慕う、切なくも愛しくて堪らない想念が身体中に押し寄せてくる。うっとりと心を痺れさせる音色が、天井から慈雨のように伝わり降り注いでくる。
聴覚だけで音楽を聴くのではなく、五感全てを使う事で湧き上がる不思議な感情。誰かを狂おしく想い続けながら、花が萎れ枯れるように逝きたいと願ってしまう。うっかりすると、このままずっと切ない調べに聞き入ってしまいそうになるが、生憎ピアノの音に浸る訳にはいかない。
桂斗を見ると、瞬きもせずに放心した表情で、魅入られたように藤の花を見上げていた。俺は玖珂を振り返った。
「不味いな。玖珂、あの藤の花を消すのを頼めるか?」
「よっしゃ、任せろ。浄火鬼灯 」
既に用意していたのか、直立不動の姿勢で目を閉じ、深呼吸をして集中する。左右の指を対称的に繋ぎ合わせ、逆ハートの形を作ると、真ん中部分に真っ赤な種のような物が現れた。やがて手の中がぼんやりとオレンジ色に光り始めた。そして手の中へ、ふっと息を吹き込むと、淡く赤色に光った物がポンと飛び出した。
それは立体的なハートの形を成していて、まるで鬼灯のように見えた。中の小さな丸い種がメラメラと燃えて赤く光りながら、ふわりと上昇して行く。
数十個の鬼灯が、あっという間に天井まで上り、藤の花に当たった。すると鬼灯はパンっと破裂し、キラキラした赤い炎が吹き出して、藤の花を燃やしていく。同時に雫もジュッと蒸発させながら、跡形もなく消えていった。
玖珂の『浄火鬼灯』は、見た目は派手だが、威力は強くも弱くも加減が可能で、こうした室内で精霊を浄化するのに適している。対象が固定されていて、かつ数が多く一度に対処しなければいけない場合に、とても重宝するのだ。攻撃性のある術を使わせたら、玖珂はかなり頼もしい存在だ。決して本人には言ってやらないが。
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