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第10話
◇
「ここか……」
階段を上がり二階に着くと、左手前にある部屋から、冷気が漏れているのを感じる。ピアノの部屋は丁度、一階にいた部屋とリビングの一部の真上に位置しているようだ。
ドアの前に立つと、身体が芯から冷えていく感覚を覚える。体だけではなく、心まで冷たくなっていくような。
ここからは、しっかり己の心を強く持たなければいけない。他人の思いの中に、直に踏み込まなければいけないのだから。
俺は腹と両脚とに力を入れながら、大きく深呼吸をした。肩には玖珂が付けてくれた燐狐が、藍佐波水祝という心を護るようにじっと動かずに乗っている。
俺は、その小さな不思議な生き物に一声かけた。
「もしもの時は、助けてくださいね」
すぐに尻尾でポンポンと肩を叩かれ、頼もしい相棒の相棒を撫でた。
そして目の前のドアのノブを持つと、ゆっくりと回し、開いた。
◇
ドアを開くと、現実ではちょっとあり得ない事になっていた。
フローリングが敷かれた広々とした空間だった。中央にステージを模したような段差があり、そこに大きくて立派な黒のグランドピアノが、どっしりと鎮座している。すぐ傍には薄いレースカーテンが引かれていて、うっすらと大窓が見えた。本来は明るい日射しが入るのだろうが、少し薄暗い。
手前には、ピアノの色と同じ黒い二人がけのソファが置いてある。それだけのシンプルな部屋なのだが、天井から青々としたしだれ柳が神々しく流れ落ちるように生い茂り、グランドピアノを覆い隠すように薄ぼんやりと光っていた。何者からも傷付けないように、自分が代わりに傷を負う覚悟で大事に守りたいという、温かくも真摯な想いが伝わってくる。
「あの絵画のしだれ柳が飛び出して来た感じだな。本当に本物が生えてるようにしか見えないんだが。しかしどれだけ大きく成長させてるんだ……」
土精霊の力が作用して、人の想いが創り成長させた物だとしても、ここまで視覚的にはっきりと如実に再現させる事が出来るのはそうそう無い、見事な作品だと呼びたくなる程だ。画家ならでわの才能がなせる技だろうか。それとも巫桂斗の想いの強さだろうか。
俺は、ゆらゆらと葉がピアノを優しく撫でるしだれ柳を見て、そんな風に慈しむ事が出来る彼を少しだけ羨ましく感じた。
「しだれ柳は見た感じ大きいだけで、何とかなりそうだな。それよりもヤバそうなのは、こっちか……」
下を見ると、部屋中が一面、透明な水で一杯になっていた。深さは段差の所まで来ていて、おそらく膝下位まであるだろう。
「全く芸術家ってだけでも厄介だと思っていたが、これほどとはな」
水溜まりからは、哀しみと諦め、慈しみたい感情が溢れ出し、足から伝い上がって来る。痺れる程の痛みを伴って、心に忍び寄り、入り込もうとするのだ。
しかしそれ以上に身体に重くまとわりついてくるのが、暗い恋情の想念だ。自分だけを見ていて欲しい。誰にも渡したくない。彼の幸せは自分の幸せ。自分の全てを賭けて、幸せにしてあげたい。でも離れたくない。もっと自分を見て。何処にも行かないで。苦しい。不安で堪らない。もっと愛されたい、彼だけに。愛して、もっと、もっとっ……。殺したい位に愛したい。
「うっ……」
防御しても執拗に後から後から追いかけられ、押し潰されそうな感覚に引っ張られ、意識を持って行かれそうになった。
慌て深呼吸を繰り返し、自分という人格を再確認する。少しでも乗っ取られたら、それはもう自分ではない、何者かだ。
これは想いの念が精霊によって増幅され、魔物化した物。彼の意思じゃない。相手に同情するな。
そう畏れで萎縮しそうな己に暗示をかけて、膝を付き、再び水面に向き合った。
そして心の中に呼びかけた。内なる自分の奥底で眠る怪物に。
「水皇。お願いだ、起きてくれ。この水の想いを喰らって欲しい」
こんな時ばかりしか呼んであげられなくて、すまない。そう念じながら、立ち上がり水の中へとゆっくりと足を入れた。
「くっ……!」
途端に、冷たい水が靴の中に入り込み、刺すような痛みで声が洩れる。構わずに膝下まで浸かった水を掻き分けて、ゆっくりと歩き出そうとした。目指すはピアノのあるステージの上。無事にたどり着ければ……。しかし二、三歩、足を進めただけで、足先からの痺れが膝に伝わり、ガクガクと震え出した。
「そんな、ヤバいっ……」
慌て戻ろうと向きを変えようとしてふらつき、前に倒れ込んでしまった。
「えっ、うわっ……!」
バシャリッ、と派手な水飛沫を上げて、手をついた。
「くそっ。腕が、上がらないっ」
手をついた瞬間、手の感覚も奪われ、腕も震え始めた。四つん這いの格好で、腹にも水が浸かり、まるで氷水に浸かったような感覚が襲い掛かる。
目の前には自分の焦った表情を写す水面があり、もう少しで顔が浸かりそうだ。水精霊の力で強まった想いが、水の鎖となって絡み付き、俺の精神と体力を根こそぎ奪っていく。
肩に乗っている筈の燐狐も、もういるのかどうかすら感じられない。
「水皇、玖珂……」
水皇、来てくれないのか。あまり構ってなかったから、呼んでも気づいてくれなかったのかもしれない。
玖珂ならこの状況を一人で簡単に解決出来ただろうか。意地を張らずに、彼に頼むべきだっただろうか。
攻撃力の無い自分には、所詮一人では何も出来ないなんて……。家族一人救えない奴に、生きる価値は無いのかもな。
とっくに捨て去った筈の過去が頭に蘇る。急に無気力になり始めた自分に心の中で首を傾げながらも、水面に吸い込まれていく自分を止める術は残っていなかった。
冷たい水に顔が浸かり、僅かに空いた口唇の隙間から水が流れ込み始めた頃、微かに水中がうねり始めて、波が身体に当たるのを感じたと同時に、階段をけたたましく駆け上がる音が聞こえた気がした。
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