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第15話

◇ オフィスで依頼完了の報告書を書き終え、支部長にメールで送った。今日はこれで業務終了だ。 さっきから横で煩く早く帰ろうコールをして、周りから煙たがられている相棒犬を引き連れ、稲荷寿司の材料を買うためにスーパーマーケットに寄ってから、玖珂のマンションに帰った。 彼の住まいは、志武谷にある高級マンションだ。最上階のワンフロアを使った、一人で住むには不向きな部屋に、大学生時代から彼は住んでいた。俺も何度か訪れた事がある。 部屋にお邪魔して、さっさと米を炊き始めた俺に、嬉しそうにまとわりついてくる玖珂を邪険にしながらも、作業の手を休めずに稲荷寿司を黙々と作り上げていった。 「これで完成だ」 寿司桶一杯にぎゅうぎゅうに敷き詰めた稲荷寿司が完成した頃には、夜もとっぷりと更けた時間になっていた。 俺がダイニングテーブルに置こうとすると、玖珂がここじゃないと言って、稲荷寿司と日本酒を持って歩き出した。 リビングを抜け、幾つかの部屋を通り過ぎてそのまま奥へ向かうと、大きな二枚の開き戸の前に着いた。 「ここが俺と金狐が考えて、水祝に見て欲しくて作った部屋だよ」 開けてみて、と言われて、戸惑いながらも頑丈な木で出来た開き戸を開けた。 「これは……」 扉の向こうは、水が張られた広いプールがあった。オレンジ色の狐火がいくつも水上に浮かび、俺達を出迎えているようだった。 右手の窓には金狐の尻尾の模様が緻密に描かれ、水面の煌めきと共に灯りでそれが浮き上がり、神秘的な雰囲気を醸し出している。 奥には供物台がプールをせり出して設置されていた。玖珂に促され、供物台に向かった。そこには既に箸と小皿、盃が置いてあった。 彼はそこに寿司桶と日本酒を置き、供物台の反対側へ移り座った。靴下を脱ぎ、ズボンの裾を巻き上げプールの水に足を浸けた。 俺もそれに習って靴下は脱いだが、足は水に浸けずに床の上に伸ばした。 「足浸ければいいのに。気持ちいいよ」 ふかふかの座布団に腰を下ろした俺に、玖珂は日本酒を()ぎながらそう誘って来たが、後でなと短く答えた。盃は三つ用意されていて、その内の一つは金狐用のようでかなり大きい。 渡された透明のグラスを受け取り、カチリと二つの器を合わせて乾杯をした。一口口に含み、飲み込んだ。爽やかなのど越しの後で、臓腑がカッと熱くなる。空きっ腹に酒は一段と早く酔いが回るな、と思いながらもう一度杯を煽った。 「頂きます!よっしゃ、食うぞー!」 玖珂はもう既に一杯目の日本酒を空け、稲荷寿司を旨そうにがっつくように食べ始めた。俺は苦笑しながら、彼の杯に日本酒を注いでやった。 俺は改めて周りを見渡した。 「それよりも、何て物を作ったんだ」 「どう、綺麗でしょ?」 「確かに綺麗だが、マンションに作る大きさのプールじゃないぞ」 「だって精霊も入れる位の大きさにしたかったし」 「精霊も?」 驚く俺に、玖珂は日本酒を喉に流し込むと、ゆらゆらと硝子のグラスを揺らした。狐火の灯りがチカリと反射する。 「いつかさ、水祝の水精霊がこのプールに入って、一緒に遊べる位に仲良くなれたらって思ってさ」 「……」 「俺も金狐も、水精霊を操れなくて苦しんでる水祝を見て、何かしたいなって思ってる。やっぱり、生まれた時に自分の所に降りて来てくれた精霊だから。周りからどんな風に言われようが、自分だけは味方になってあげたいよね」 暖かい瞳で俺を見つめる彼に、心が潤っていく感じがした。暴走した精霊の力を無力化させ、滅する事が出来る程の力を持つという事は、己もまたそれ以上の脅威を保持しているという事だ。 いくら国家公務員の肩書きを与えられようとも、常に正義は畏怖と隣り合わせだ。 俺は、高校からの腐れ縁も良いものだと思った。腹が立つ事の方が多いけど、自分を大切に思ってくれる想いはかけがえの無い物だ。そう思うと自然と感謝の言葉が出た。 「ありがとう」 「水祝が俺に微笑み付きで、ありがとうって言った……。くっそ可愛い。ヤバい、胸が苦しい。俺酔ってんのかな……」 「感謝してるのに、その言い草は何だ」 おちょくってるのか?と反応すると、慌てて日本酒を注いで、違うよと言いながら弁解してきた。 「いやいや感動してるんだってっ。それに、あわよくば俺の家に住んでくれたらなって打算もあるけど」 「それは何となく気づいてた」 「はは。やっぱり?」 「悪いけど、アパートがあるんだから、お前の家には住まないぞ」 「どうしてもダメ?」 「ダメです」 「ちぇっ。失敗かー。プールで釣ろう大作戦は」 唇を尖らせて残念がる玖珂に、苦笑した。本当にこの男は、出会った時から企画外の事をしでかす。 それも、彼と共に在る精霊の所為でもあるのだろうか。 酒をちびちび飲みながら、俺は悩ましく溜め息を吐いた。 「そうだよな。この年になっても、精霊の真名も分からないなんて、異常だよな」 「どしたの、急に?」 「いや、玖珂と金狐がいつも楽しそうで、対等な関係がちょっと羨ましくなった、のかな……?」 不思議そうに聞かれ、酔った頭で今日の彼らの仲良さそうなやり取りを思い出す。水上でゆらゆらと穏やかに揺蕩っている狐火をじっと見つめた。 玖珂は、完全に火精霊を制御している。決して(おご)る事なく、あるがままの自然体で。では自分は?何が足りないというのだろうか。 水皇や金狐は、国に登録する為の公的な名前だ。真名は精霊を飼っている当人にだけにしか分からないのだ。普通は子供の時に知るものなのに。 しんみりしている俺を見て、何を思ったか玖珂はすくっと立ったかと思うと、そのままプールの中に飛び込んだ。 「よし!今から、水祝の水精霊さんの真名を聞こう!」 「あ?何を言って、って、うわっ、ちょっ、やめっ……」 唖然としていると、俺も腕を引かれ強引にプールに引き摺り込まれた。服を着たままで。 「この酔っ払いがっ!」 「えへへ」 「笑って誤魔化すなっ!これじゃ帰れないじゃないかっ」 お互いびしょ濡れになり、俺を抱き締めたまま無邪気な笑顔で悪戯が成功してにんまり笑う、二十五才を睨みつけた。 「でも、疲れが取れるでしょ?」 「何を言って、あっ、これは……」 言われて水が温かい事に気がついた。水温はそんなに高くはないのに、身体がほんのり温まっていく。 重く感じていた身体が、みるみる軽くなるのを感じた。疲労も取れていく。心身が満たされ、ほぅっと溜め息が洩れ出る。そのまま彼に身体を委ねそうになる。 「気持ちいい?」 「うん……」 「金狐の力が馴染んでる水だから、疲れも取れるよ」 優しい声で悪魔の囁きを耳に注ぎ込まれる。 「だからさ、今夜は泊まってよ」 「お前、初めからそのつもりで……」 愕然とする俺に、彼はしてやったりと唇を引き上げ、目を細めた。 「送り狼ならぬ、送り狐ってね。水祝が俺の手の中に落ちて来てくれるのを、いつでも狙ってるから」

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