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綿貫碧(わたぬき あおい)8-18

 甲野の声に、 小湊は渋々と言ったようだったが、部屋から出て行った。 「俺は大丈夫。綿貫は?」 「全然余裕」  そう言って笑って見せると、心配そうにこちらを覗いてくる甲野の顔があった。こんな時まで、と綿貫は思って何故だか泣きたくなったが、それに耐えてぐっと顔を俯かせた。 「でも、俺意外だった」  甲野の言葉に、綿貫は顔を傾けた。 「何が?」 「脱走した事。前に、パピーも悪くないみたいな事言ってたよな。だから意外だった。本当は嫌だったのか」  綿貫は甲野の顔を見て苦笑する。 「やっぱりお前、直球ばかりで苦手だ」  でも、こいつが好きだとふいに思った。この男のやる事も、言う事も、自分には到底真似出来ない。だからこそ、憧れる。 「三沢さんさ、あの人すごい遊び人なんだよね。夏休み中、俺、三沢さんとこの別荘とか、ホテルで過ごしたんだけどさ、あの人、平気で女連れ込むの。酷い時なんか俺の前で始めちゃってさ、何なのこの人って思って、なんかそれ、凄く虚しいと思って、馬鹿馬鹿しくなったっていうか、三沢さんと一緒にいるの、正直辛くなってた。だから、逃げ出した」 「綿貫、三沢さんのこと、好きなのか」  綿貫はどう答えて良いのか分からずに、笑ったが、上手く笑えていないだろう。この男の前で好きだと言うのは、まるで自分の弱さをさらけ出すようで嫌だった。 「三沢さん、あの人異常だけど、だけど、綿貫のこと、多分、好きという言葉でいいかわからないけど、多分、必要としてると思う」  綿貫は、それに、乾いた笑いを浮かべた。本当にこの男は、何なんだ。いい加減、自分の事を気にしろと思った。  布団の上に置かれた、甲野の左手が見えた。その手は、小指と薬指が欠けている。綿貫はそれをじっと見つめた。  三沢から聞いた事がある。それは、幼い頃に小湊を犬から守って千切れたという。実に甲野らしいエピソードであり、そんな甲野に小湊が執着するのも当たり前だ。  いや、それがなくとも、ずっと一緒にいればこの男に惹かれるだろう。甲野と比べれば、自分は本当に何も持っていないと実感する。性格だって面白みもない。顔だって、フユのような本当の美しさの前では霞む。そんな自分に、何故三沢が執着するのか分からないと思った。しかしそんな事を三沢に聞いても仕方が無い。聞いた事で、綿貫の価値のなさに三沢が気がつくのも悔しい。今はただ、三沢と一緒の時間を共有出来ればそれでいいではないかと自分を納得させた。          

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