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第6話

 頬杖をついている赤い目に気を取られる。朱記帳練習半紙350枚はまだ半分も終わっていなかったが集中力が途切れたらしい。安住は水槽を泳ぐ金魚から赤い眸子(ぼうし)に応えた。 「生命尊(みこと)が夜に呼んでた」  青明(はるあきら)は朱色のインクが付いた筆を簡易机に転がし、後ろに両腕をついた。 「…お前、その意味分かってる?」 「うん」  わずかに青明の頬が染まり、赤い目は横に流れ、部屋中に敷き詰められた新聞紙の上を泳いだ。その上に何枚も小版の半紙が並べられていた。紙面にはミミズののたくったような不安定な筆の軌跡と威鳴祭祀社を示す朱色の紋章が記されている。朱記帳だった。威鳴祭祀社で配布している紙媒体の御守で、季節によって紙の四隅を彩る装飾などが違っていた。 「随分と軽く言ってくれるんだな」 「行かないの」 「生命尊様は…多分俺を揶揄って遊んでるだけだろ。本気にして本当に伺ったら迷惑だ」  苦々しく青明は口角を上げた。安住はまた筆を握る彼から金魚に戻る。尾が揺れ、膨らんだ腹を覆う鱗が照ると後ろで書写の練習に励む青年の髪を彷彿させた。 「明日猫ちゃんを揶揄って遊ぶ」 「不思議ちゃんだな、安住は」  手は止めずに興味無さそうに青明は答えた。 「どうやるの」 「猫相手なら知らないな」 「今やる」  安住がひとり座る分だけ新聞紙は空けられていたが、器用に爪先立ちで青年ののいるわずかに畳が残る地帯へ移った。 「今やるって、それ本人に言うなよ」  彼は筆を置き、困惑気味にすぐ隣までやってきた安住に身を引いた。 「汚れるから触んなよ。落とすの大変なんだ。明日の当番俺だから」  洗濯物も自治会の人々に任せていたが、週に3日は青明が入った。 「うん」  安住は頷き、改まった態度で青明に対した。彼はなんだよ、と言いながら訝しげに眉間に皺を寄せた。紺色の作務衣から伸びるしなやかな腕は先程の忠告に反して墨汁や朱液で汚れている。 「なんだよ」 「顔が汚れてる」  滑らかな肌に手を伸ばす。猫がはためく紐に戯れるようでもあり、子供が少し高いところにある木の実を取るような仕草でもあった。 「ちょ、いいって。寝る前に洗うから…!」 「多分忘れて寝る」  そういうことが頻りにある。伸ばした腕を掴まれたため、反対の手も伸ばす。しかし阻止される。結い上げられていた長い金髪を束ねるゴムがぶつりと切れ、肩に絹の経糸(たていと)が踊る。安住は獲物を狙うように爛々とした眼差しで光沢を放つ毛を凝視した。その直後、襖が爆ぜたかと思うほど勢いよく開かれた。取っ組み合いをやめないまま部屋の主は来訪者を見上げた。手を離されたため、今度は安住から腕を掴み、隙を作った彼の頬に飛ぶ朱液を舐め上げる。 「ひ…」  掴み掴まれ両手の自由が利かない青年は不意に顔を這った感触に青褪める。 「…夜に逢おうと言ったのだが、私はフられしまったのかな」  夜空に溶けていきそうな黒髪が部屋の蛍光灯で輪を作る。 「あの…、その、いいえ。忘れておりました…」 「本当か、安住?」 「ううん」  首を振った。おい、と小さく圧迫される。 「では何故来ない?何故嘘を吐いた?私は君にとって口煩いだけの男かな」 「そんなつもりでは…」  青明の赤い瞳が伏せられる。安住はまだ残る朱液に舌を伸ばした。ただ弟子を見下ろして影を落としていた端麗な顔に皺が刻まれる。それから咳払いをした。 「そのままの格好でいいから、片付けが終わり次第すぐに来なさい」 「……はい」  安住は生命尊の後を追った。夜風が前を歩く黒髪を靡かせる。 「彼は何と言っていた」 「生命尊様は…多分俺を揶揄って遊んでるだけだろ。本気にして本当に伺ったら迷惑だ」  生命尊は立ち止まった。黒髪越しの広い背中に安住は額をぶつける。 「伝わらないものだな」 「伝わらない?」  生命尊はまた歩き出し、安住も揺れる黒い毛先を追った。

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