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第9話

 社殿の中でも安住の選んだ本尊安置所は暗く、照明器具はなかった。人が2人程度ならば入れる大きさはあったがそうする造にはなっていなかった。青明(はるあきら)は神聖な領域に土足で踏み入ることに躊躇いを見せながら安住の腕の中で息を潜めている。シャランシャランと鈴束が鳴っている。まだ境内を漂う淀んだ空気は消えていない。 「な、に…」  狭い場所に押し込んで密着した青明の唇が動き、安住は人差し指をそこに立てて黙らせる。外で叫びのような嘆きのような感を持って風が(いなな)いている。 「まだ生命尊(みこと)が参拝者と一緒だから出たらだめ」  鈴束が激しく鳴っている。しかし青明には届いていないようだった。 「ドコ…ドコ…ワカイカラダ…」  参拝者は本尊安置所のすぐ前をのそりのそりと横切っていく。青明の手には安住の書いた祭文が握られ、眉根が寄った。 「最近生命尊のところに来る」  そう説明すると青明の眉間はさらに皺を刻む。 「ドコ…ドコ…」  壁に背を預けた目の前の青年が崩れかける。安住は腰を抱いて支えた。 「腰守る。もう少しだけ。すぐ帰る」  シャランシャランと鈴束が鳴った。胸や腹に当たる体温や、背や腕に縋る手は安住をぼうっとさせる。百葉箱と大差のない規模の小屋に過ぎない本尊安置所の中に吐息が木霊した。 「…ワカイカラダ…」  声が遠ざかる。安住はまだ青年を押し留めたまま頭に付いた蜘蛛の巣や埃を取り払っていた。艶かな金髪は暗い中では煌めかなかったが、繊細な音を鳴らして安住の指から滑り落ちていく。空気感が澄んだものに戻っていくと、彼を小屋から出した。日の光が再び金糸を1本1本鮮明に炙っていく。砂利の足音とともに生命尊が姿をみせた。 「青明」  生命尊は弟子に近付き、強く抱き締める。 「生命尊様?」 「無事か」 「はい…」  抱擁を解くと、生命尊は青明の手にある紙を奪い取る。 「これはもう要らない。私のほうで祓っておこう」 「はい」  立ち去っていく師の後姿へ青明は深々と頭を下げる。腰痛に彼は患部を押さえかけたが、姿勢を正した。 「生命尊」  主人を呼び止める。彼は振り返ることはなかったが足を止めた。 「腰痛い。両手塞がると危ないって生命尊言ってた。生命尊が買い出し付き合う」 「安住!」  青明は驚きに頭を上げた。瞬間的な痛みは誤魔化せず、彼は呻いて腰を押さえる。 「本当か、青明」 「安住の勘違いです」 「…良かろう。今日の買い出しは私も共に行く」  生命尊は振り返り、柔和な笑みを浮かべた。 「ありがとございます!」  弟子の肌はほんのりと淡い赤みが差す。 「それまで安静にしていることだ」  小鳥の囀りが境内に響く。近くの道路を車が通った。 「返事が聞こえないな」 「…はい」 「よろしい」  生命尊は社務所に戻っていく。姿が見えなくなるまで弟子は頭を下げていた。安住は宙を揺蕩い背で踊る金糸をぼけっと観察していた。 「安住…お前なぁ。まぁ、いいや。気を遣わせたな」 「ううん」  首を振ってまたするすると境内に戻ってきた野良猫を触りに行き、腰を摩りながら宿直所に向かう青明とすれ違った。野良猫は近付いてくる安住に怯み、また物陰に隠れてしまった。境内に1人取り残される。池を泳ぐ鯉を眺めて、暫くすると着替えた青明と普段とは違う装いの主人が宿直所から出てくる。安住の主人は半歩後ろを歩いていた弟子の手を取り並んで買い物へ出掛けていった。水が鳴る。鯉は尾で水面を叩き、緩やかだった泳ぎから加速する。涼しい風が吹き、池の周りの木々がそよいだ。 「誰かいないの?」  安住は振り返る。緩いウェーブのかかった茶髪の青年が立っている。朗らかに笑う様は主人とその弟子にはない温和さを持っていた。 「うん」 「誰も?」 「うん」  桃の花を思わせる瞳と円い目が細まった。 「ここで待っていてもいいかい」 「だめ」  安住は強く首を振った。

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