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第10話

「そんなこと言わないでさ」 「一昨日(おとつい)参拝して」  安住は朗らかな青年へ、裏出入り口を指差した。 「あの若い子はどこにいるのかな」  安住は答えなかった。木々が騒めく。青年は微笑を絶やさない。主人のものよりも柔らかく、嫌味がないまろやかな笑みだった。 「教えてよ」 「教えない」  青年を視界から外す。近所の電線に停まっていたらしき鳥たちが一斉に羽ばたき、カラスは喚くように鳴いて空に響き渡る。 「なんだか騒々しいね」 「おじちゃんが来たから」 「おじちゃんかな」 「おじいちゃんかな」  青年はどうだろうね、と言った。 「あの若い子は、美味しいかい?」 「分かんない」  安住の隣にやって来て、共に屈強げな魚たちを眺めた。 「鯉ちゃん食べないで。生命尊(みこと)が子供の時からいた」 「食べないさ」  青年と顔を見合わせる。緩く波打つ栗色の髪は風の影響を受けやすく、弱い風に靡いていた。 「お兄さんは茉箸(まばし)。祭祀者さんに伝えておいて。仲良くしようよ」 「伝えない。仲良くしない」  茉箸と名乗った青年は安住に拒まれても微笑んでいる。 「お化けちゃん帰って」  安住はふらふらと社務所に戻った。茉箸は後から付いてくる。御守や護符の並んだ購買部からマジックペンを持ち出した。 「お化けちゃん帰って。一昨日来て」  マジックペンのキャップを外す。朗らかに笑っている青年の顔面にペン先が触れた。 「待って、待ってよ」 「待たない」  茉箸は安住を外そうとするが、しがみついて爽やかな顔立ちに祭文を書いていく。紙を炙ったと時のようにインクは彼の肌を焼いていく。 「痛い、痛い。帰る、帰るよ」  安住が頭部にしがみついたまま、茉箸は社務所を出て結界門をくぐる。ばちばちと音がした。安住の身体に鋭い刺激が走った。 「可哀想に。ここから出られないんだね」  茉箸から落ち、身体を打ち付ける。金髪の青年とは出られたはずだ。起き上がれないまま、茉箸を見上げる。大きな目が細まり、安住に鋭い爪の伸びた手が迫った。 「また来るよ」  一昨日きて。金色ちゃんを食べないデ…  テレビの音が小さく聞こえた。襖の隙間から光が漏れている。腹に掛かった薄い毛布が起き上がると翻った。 『君にはどう映っているんだ』  主人の声が聞こえる。帰ってきたらしい。 『静かで…素朴で、不思議なやつです。何考えてるか分からないけど、優しくて……生命尊様にはどのように?』  テレビとはまったく関係のない話をしているようだ。 『私には…私がたった1人だけ勝てないと思った相手に見える』 『えっ、と…どのようなお方か、お聞きしても…?』  主人は、はははと軽やかに笑った。 『そう(かしこま)るな。私の双子の兄だよ』 『双子の兄がいらしたんですか』 『もう故人だがね。そう湿っぽい話じゃないから気にしなくていい』  安住は襖を開けた。生命尊に肩を抱き寄せられている青明と目が合った。彼は自身が寄りかかっていた師の胸を突っ撥ねた。本人が一番、そのことに驚きを示す。 「も、申し訳ございません!」  師が手にしていた猪口から酒がこぼれ衣類を濡らす。 「構わない」  弟子は焦燥し、師は冷静に安住にタオルを持ってくるよう命じた。タオルを運んだが、すでに部屋から生命尊はいなかった。縮こまった青明が部屋の隅で蹲っている。 「悪いな、寝起きなのに巻き込んじゃって」  曲げて掻き抱く膝へ顔を埋め、彼は謝った。 「ううん」 「ダメだな、俺。せっかくお前が気を遣ってくれたのにさ」  青明の隣に腰を下ろし、同じ目線のおおよそ同じ位置から同じ光景を見る。 「変なおじちゃん来たら気を付けて」 「変なじいさんならいっぱいいすぎて分からないな」 「変なおじちゃん、金色ちゃんのこと狙ってる」  青明は訝しげに安住を横目で見た。安住も桜桃を凝然と捉える。 「あの鯉か。たまに譲ってくれって話が来るんだよな」  安住はすぐ隣の青年を指差す。 「………金色ちゃんって俺?」  ってか人を指差すな、と指先を少し冷えた手が包んだ。

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