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第11話

 風呂の順番がやって来て青明(はるあきら)は立ち上がるが、腰を押さえてバランスを崩す。真横にいた安住が支えたが、突然かかった体重に抗えなかった。背中を打ち付け、敷布団と化す。首を上げると眼前に金髪が広がっていた。 「悪いっ、痛かったか?」  患部を摩りながら青明は起き上がる。ひらひらと金色の経糸がはためいた。 「ううん」  髪を鷲掴んで引っ張ると、彼は再び胸元に落ちてくる。 「な、んだよ」 「変なおじちゃんに気を付ける」  野良猫が他の野良猫の横腹でたまにやっていた足踏みのような手付きで掌にたわむ毛束を揉む。 「分かったから、放せって」  毛を握る手をまだ冷めている指で解かれていく。 「風呂に入るんだ、これから」 「うん」  ばたばたと忙しなく青明は部屋を出て行った。安住は真っ暗な調理場に向かって大きなテーブルを前に座ると祭礼酒をマグカップに注いで飲み干した。風呂上がりの主人が調理場にやって来て電気を点ける。少しの間両者とも視線をかち合わせ静止していた。 「あの怪物が来たのか」  先に口を開いたのは生命尊(みこと)だった。 「うん」 「徐々に力を付けてきている」 「うん」 「…暫く青明から目を離すな」 「うん」  またマグカップに注いだ祭礼酒を呷る。 「久々に彼と外に出られて楽しかった。すまなかったな」 「ううん」  ぱちりと電気が消され、主人は項垂れながら調理場から去っていく。濡れた長い髪をタオルで包んで結い上げた生命尊の白い頸が一瞬だけ晒された。  飲み物を取りに行ったはずの青明は緊張した様子で硯と半紙の置かれた簡易机のもとに腰を下ろす。部屋中に新聞が広げられ、その上に何十枚もすでに墨の乗った朱記帳が並んでいた。 「一緒に寝ようって、やっぱりそういう意味だよな」 「うん」  金魚鉢の中の魚を眺めていたが、話しかけられると後ろへ首を曲げた。 「…どうしたらいいんだろうな」 「一緒に寝る」 「いや、そうなんだけどよ。そうじゃなくて…」  無駄な動作が多く、彼はなかなか書写の練習に集中出来ないようだった。 「一緒に寝ない」 「ばっか、お前。そういう問題じゃなくて…嬉しいけど、色々考えちゃうことってあるんだよ」 「ない」 「俺にはあんの」  彼はまた頬杖をついて天井を見上げていた。 「こんなことで悩んでる場合じゃねぇのに」 「ゆっくり君のペースでいいって生命尊いつも言ってる」  ぶわりと湯上りで首や耳を晒す青明の肌が色付く。 「おま……それ、その…セックスの時の、そういうのは、いちいち覚えてなくていいんだよ…」 「睦神楽(むつみかぐら)の修行をしなきゃって生命尊が言ってた」  睦神楽は威鳴祭祀社のみでおこなっている要予約の、参拝した夫婦が生命尊や青明の儀礼を受けながら性交する儀礼だった。不妊や身的不能の快癒の信仰を集めている。 「…もう、何も言うな」  顔を覆っていたが、火が噴き出るほど赤くなっている。 「うん」  時計の針の音と、半紙を捲る音が室内を支配する。途中から時計の音だけが残った。もうすぐで彼の師の就寝時間だというのに片付けを始めない弟子を振り返る。  半紙に数滴の墨をこぼして、彼は舟を漕いでいた。彼の元に回り、慎重に筆を硯へ戻した。 『安住に布団は必要ないよ』 『ですが…見ていて自分が腹壊しそうだったので…』  安住は押入れからタオルケットを引き摺り出す。寝てる野良猫や、カエルを捕まえる時のようにゆっくりと肩に掛けていく。数分ほど、筆を失った腕を枕にしはじめた金髪を見下ろしていたが、金魚鉢の前の新聞紙のない畳のスペースに戻った。襖が開く音にも彼は気付かず目覚めなかった。来室者は真っ先に安住と目を合わせたが、すぐさまその後ろの簡易机へ意識を移す。普段は厳しく引き結ばれた唇が参拝者へ向けるもの以上に柔らかく、そして緩くなる。  一緒に寝ようって生命尊が言ったって言ってた。  言ったな。約束は守らせてもらうさ。私の命令も守ってもらおうか。  安住は頷いた。主人は敷居を跨ぐ。時計がコチコチと音を刻んでいる。

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