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第17話

 目覚めた青明(はるあきら)茉箸(まばし)との記憶はなかった。節々の痛みを訴え、買い出しに行っていないことに青褪め、お前を探してたんだと普段と変わらない調子でいたが、黙っている安住に少しずつ弱気な態度を示した。 「新しい関係を築こうって言われた」  頭を抱えて彼は俯く。 「新しい関係ってなんだよ。師弟関係以外に、何があるってんだよ…」  歪んだ声には不安に押し潰されそうな感を帯びている。 「ごめんな、安住。逃げ道みたいに使って」 「逃げ道」  青明は苦々しさを隠せないまま笑みを作った。 「1人になりたかった。でも1人になりたくなかったから、買い出しに行くってお前を誘ったんだ」 「逃げ道になる」 「やめとけ。俺を甘やかすな」  苦笑し、表情が消える。 「なぁ…いや、いい。なんでもない」  金髪が左右に振られる。顔は強張っていた。布団に横たわり、安住に背を向けた。 「安住」 「うん」 「傍から離れないでくれ。あの人と、2人きりになりたくない」  青明は腕で顔を覆った。安住は布団の空いたところに横たわる。鼻が微かに鳴っている青年を包む。 「安住、ごめんな」 「ううん」  嗚咽が混じって語尾が溶けていく。安住は首を振った。 「俺が何ひとつ体得出来ないから、気を遣わせてんだ」  金髪に鼻先を埋める。青明の匂いがした。威鳴祭祀社の匂いで、生命尊にはない匂い。野良猫から薫る生臭さと日差しの匂いとも違う。雨の日の湿った匂いとも違う。花ほど甘くはなく、木々ほど静謐な匂いでもない。洗剤と肌に馴染んでいく匂い。押入れの樟脳の匂いがまだ新しいが布団と枕の移り香だった。 「新しい関係怖い」  金髪が前後に動いた。枕に擦れた音がした。 「師匠と弟子の関係でもなきゃ、俺はあの人の隣に居られるような人間じゃねぇんだよ」  しゃくりが混じる。顔に張り付く長い毛を肌に爪が引っ掛からないように後ろへ集めた。 「あんな、夜伽みたいな関係になりたいわけじゃない…」  質の良い髪に指を通す。主人もよくやっていた。 「カラダの関係も、俺の役目なのか…」  青明は自身の両肩を抱いた。 「ううん」  泣き濡れた瞳が振り返る。後ろ手に安住は髪を撫でられる。雑な手付きで、髪を掻かれているようでもあった。彼の足に纏わりつく野良猫と行動が重なる。喉に違和感があるが、やはり猫の持つ遠雷に似た轟きは起こらなかった。 「寝る。1人にしてくれ」 「うん」  布団から起き上がり、安住は部屋の脇に置かれた金魚鉢を連れて廊下の前に座る。金魚は弱い波に揺れた。引き攣った声が微かに背後から聞こえた。胸元が、茶髪の参拝者が来た時の境内に繁茂した草木のような騒めきと重なった。主人が来るまで治まらない。そのうち嗚咽が寝息へ変わる。膝の上に乗せた金魚鉢の中で小さな生き物が華美な布を思わせる尾がひらひらと水中を揺蕩う。金魚鉢を抱きながら主人の元へ向かった。社務所と宿直所が繋がる廊下のさらに奥で、常に(すだれ)が下がっている。咳き込む声が聞こえたが安住は構わず半分まで巻き上げられた簾を潜った。生命尊(みこと)は安住を見上げるだけで、何も言わず湿った咳を繰り返す。赤く汚れた手拭いが傍に置かれていた。漆塗りの机の上に金魚鉢を置く。 「よしなさい。倒れたらどうする」  生命尊は苦しげに言った。 「金魚ちゃんの命もらう」  赤茶に汚れ、罅割れた唇が弧を描く。 「数分の稼ぎにもならないよ」  金魚は小さな鉢の中を往復しながら回っている。 「戻りなさい。あの子はお前をただの練習台とは見ていない。こんな場所に閉じ込められて、遊ぶことも怠けることも出来ず可哀想に。拠り所でいなさいよ、お前くらいは」 「生命尊がなる」 「お前が大嫌いだよ」  生命尊は口の端を吊り上げる。眉間に寄った皺と切れ長の瞳は笑ってはいない。 「それを持って帰りなさい」  乾いた血で汚れた指が金魚鉢を差す。 「生命尊独りきりになる」 「帰りなさい!」  生命尊は怒鳴った。喘鳴が聞こえ、激しく咳き込む。喀血の音がした。 「生命尊」 「人間ぶるのはよしてくれ」  金魚鉢を指す手が震え、力無く落ちていく。 「うん」  金魚はくるりと近付いてきた安住に尾鰭を見せた。

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