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第19話

 茉箸(まばし)の顎から水滴が落ちていく。青明(はるあきら)と同じだった。安住は手を伸ばしたが、はたき落とされる。 「知ってるんだよ、偽物なんでしょ。鏡なんだもんね」 「うん」  円い目にきつく睨まれる。 「前の祭祀者さんなら一昨日(おととい)来てよなんて言わない。抱き締めてくれるもん。よく来たねって。食べちゃうのに。もう人間どもがいう太陽みたいに照らしてあげられないのに」 「おじちゃん悲しいの」 「悲しくないよ、人間じゃないからね」  安住はネオン管のように光る円い目をじっと見つめる。 「でも金色ちゃんと同じ」  目から落ちてくる水滴にまた指を伸ばす。 「"金色ちゃん"は太陽じゃいられないよ。祭祀者さんを食べちゃったら、潮呪(しおまじな)い解けちゃうからね」 「潮呪い」 「見てたんでしょ。"金色ちゃん"の背中にいっぱいあったよ。精の匂いすごかったもん。祭祀者さんが掛けたんだ。食べられちゃわないように」  夜風が冷たかった。慟哭のように響いて深夜の住宅地に解き放たれていく。 「金色ちゃんの精で背中に書くやつ」 「あれが解けたらすぐに立派な祭祀者になって、"金色ちゃん"食べ頃になっちゃう」 「食べないで」  茉箸の服を摘まんだ。円い目が弱く歪む。 「金色ちゃん食べないで」 「月でいられるかい」 「うん」 「じゃあ、"金色ちゃん"は食べないであげる。祭祀者さんは、食べちゃうけど。でもそうしたら、消えちゃうね」  今度は茉箸に見つめられる。しかし見つめられているという気はしなかった。 「うん」  茉箸は安住の顔に触れた。 「前の祭祀者さんも言ってた。祭祀者さんのことは食べるなって。ねぇ、言ってよ、そしたら食べないであげる。祭祀者さんのこと。そしたら消えないよ」 「金色ちゃん食べないで」  頬に添えられた手が消える。さらさらと砂埃が舞うように茉箸は散っていった。ばきっと音がして結界門を仰いだ。「威鳴祭祀社」と彫られた木板に亀裂が入り、安住の真横に落ちてきた。  青明は起きていた。布団を片付け、部屋中に新聞紙が敷き詰められていた。筆の持ち方はまだ不慣れだったが筆先の力加減は上達していた。 「どうだ?」  渾身の一作だと青明は白く並びのいい歯を見せた。 「うん」 「相変わらず反応薄いのな」  金魚鉢の前の空けられたスペースに腰を下ろす。 「…生命尊様のところ、行ってたのか」 「ううん」 「そ、そうか!変なこと、訊いたな」  赤い目が半紙に戻っていく。野良猫にすたすた逃げられた時の感覚と重なった。 「金色ちゃん」 「金色ちゃんじゃなくて青明。長いしハルアキでいいよ、元々本名そっちだし」  はは、っと鼻の下を掻いて青明は笑った。 「はるあき」  両端を引っ張ったような弧線が口元に浮かび、桜桃が机上を泳いだ。 「なんか照れる。普通に呼べよ」 「普通」 「やっぱ金色ちゃんで」 「はるあき守る。はるあき太陽みたい」  腹の奥底から次から次へと言葉が出てきてしまう。安住の口は上手く動かず、知った言葉と感覚が合致させられなくなる。 「はるあき、あったかい。野良猫ちゃんも金魚ちゃんもはるあきの周りに集まるから。きらきらしてる。手を伸ばしたら触われる。はるあき居なくなる…」  安住は呻った。叱られてもなお反抗的な態度を取ろうとする子供のようだった。 「俺は居なくならないよ。どうしたんだ?変だよ、お前」  胸元に風が吹き抜けていくようだった。青明は笑うだけだった。朱液と墨で顔が汚れている。 「かわいいやつだな。来いよ」  青明は手招きする。胡座をかいて、その前に安住を座らせた。 「はるあき守る…」 「破門されるって?生命尊様がおっしゃってたのか。これでも少しずつ上手くなってんだけどな」  笑い声は乾ききり、赤い眼はどこでもないどこかに飛んでいた。 「でも、何も出来ない祭祀者は要らないからな。厳しいけどそれがこの社会だし。今から新しい弟子取れば俺なんてすいすい抜かれちゃうかも」  な?と話を振られる。 「でもそうなったらお前ともお別れだな。せっかく仲良くなれたのに。お前は忘れちゃうかな、俺のこと」  安住は近くにある青明の膝を掴む。自嘲も卑下もなく青明はそれが当然のこととしているような風があった。 「生命尊は青明破門しない!」 「ありがとな。それが一番いいけど、現実問題、難しい」  何も出来ないんだぜ、と青明は呟いた。

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