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第21話

 宿直所の壁や柱に支えられながら歩いた。ふらふらと膝も爪先も制御しきれなかった。汚れた祭祀服と手拭を洗濯場に放り、祭礼酒をコップ一杯飲み干すと、出て行った青年の広くはない自室に戻った。新聞紙の上に並べられた半紙を1枚1枚回収していく。少しずつ上手くなっている筆跡に1粒2粒水滴が落ち、安住は金魚鉢を振り返った。赤い小魚は豪奢な尾鰭をはためかせ、背を向ける。天井を見上げた。雨漏りはない。止めていた手を再び動かし部屋を片付ける。布団を敷いて電気を消す。朝に近づいている空は室内を暗闇にはしなかった。寝床が白く浮かんでいる。膝にぽとりと雫が落ちて、安住はまた金魚鉢と天井を確認した。金魚は水の中を悠々と漂い、天井は相変わらずだった。片付けていない折畳式の簡易机には新聞紙の束と癖のある字が山積みになって残っている。鼻に馴染んで新しくもない青年の匂いを探すくせ、身に染み込んで見つからない。またぽたりぽたり、どこからともなく雨漏りが膝に落ちる。障子の外を眺めていたも人影は現れない。視界が滲んだ。追いかけようか。あの子は俗世に生きるんだ。探しに行こうか。連れ戻したらどうなるの。結界門も潜れないのに。  真っ赤に爛れた両手を見る。人の肌では耐えられない強い力がかかっていた。生命尊はまだ眠ったままで、いずれ目覚めるだろう。答えは聞かずとも分かっていた。このまま後継者を失ったまま生命尊は力尽き、威鳴祭祀社は廃され、除けてきた厄は名を変え形を変えて当人それぞれの元に還っていく。だが祭祀者はそれでいいと言った。喉の奥が引き攣った。鼻の奥と目の裏が沁みる。ふらついた足で境内に出る。誰もいなかった。用務員の出入りすらなかった。木々や灯籠を頼って、意思に従わない身体で結界門へ進む。急な階段の奥に広がる閑静な住宅地は遠くにビル群が淡く生えていたが水平線まで見えた。あの中のどこかに居るのかもしれない。まったく違う方角か。買い出しに行った時にちらと垣間見た世界。あの青年の慣れた対応。見知らない食べ物、見知らない生活、見知らない服装、聞き慣れない単語。結果門に手を伸ばす。爛れた指先が弾かれる。大したものではなかった。しかし安住は石畳に崩れ落ちる。膝をぶつけた。口が攣る。喉の内側が引っ繰り返りそうだった。胸の奥に何か留まり、渦巻いている。視界が見たこともない海と化して、彷徨っている蟻の上に小さな水が落ちた。止まらなくなる。顔面が中心に寄っていくようだった。金色ちゃん。他の名前が出てこない。熱く蒸れた口腔を開いた。掠れた音が出て行く。声を出す力は主人に与えてしまっていた。金色ちゃん。彼の居るかも知れない世界は広かった。石畳に滲みが増えていく。顔を覆って(うずくま)る。帰ってきて。帰ってこないで。ここに居て。居なくならないで。眼球を裏側から押されているみたいで、喉は外側から締めあげられているような感覚で、どこもかしこもおかしくなった。唇が彼を呼ぶ。声は出なかった。生温かい雨が降り、人々の朝が来る。雨音に紛れた微かな足音と主人の気配を覚る力ももうなかった。雨粒が繊維の膜を打ち、少し聴覚に変化が現れる。一度だけ雨が止む。 「参拝者が困る。中に入っていなさい」  長い黒髪を後ろに束ね、祭礼服ではなく階段下の暮らしの中に溶け込んでいく服装で主人は雨晒しになっている安住の脇に立っていた。  どこ行くの  歩き出す主人の脚に縋った。 ―はるあきラ、帰ってこないで。はるあきラ、居なくなる…はるあきラ、居なくならないで…  主人は掴まれた脚を引いた。払い除けようとするが安住は力強く主人に張り付く。 「離せ」  主人は真っ直ぐに住宅地を見据えていた。安住は首を振った。 「様子を見に行くだけさ。このまま逝って、うかうか悪霊にもなれぬ」  楽しくやっているならそれでいい。裾を離した指から水が落ちていく。主人は結界門の下を潜り、階段を下りていく。後を追おうとした。だが弾かれる。あの青年が隣にいた時は広い世界に入っていけた。

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