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第22話

 参拝者の1人目かと思った人物は見慣れた革靴を履いていた。石畳と石畳の間を小さな川が通り階段へ流れていく。 「今日は閉める。部屋に戻れ」  苦々しく主人は言った。安住は首を振る。 「好きになさい」  主人は社務所に戻っていった。青年の姿はどこにもない。雨が止み、日が暮れる。夜が訪れ、星空が広がった。結界門に青年は現れない。 「まだここにいるのか」  背後から待ちくたびれた声が聞こえた。振り返る。赤い瞳が煌めいている。安住は恐る恐る立ち上がった。髪を結い上げ、階段下の暮らしに入っていく服装は青年を普段よりしなやかに見せた。 「中、入れよ」  安住は口を開いた。彼の名は響かなかった。赤い目が細められる。淡い色の唇が緩くなる。冷たい手に腕を引かれる。 「な?」  安住は首を振った。止まっていた雨がまた乾きかけていた石畳に落ちた。青年の瞳がじっと見ている。彼が見ている限り、腕を引き戻して首を振る。腕が離れ、金色の睫毛が開閉する。 「行こう?」  彼は改めて掌を差し出す。安住は首を振った。 「なんだよ?せっかく帰ってきたのにさ」  目から雨粒が止まらない。手首を乱雑に引き掴んで、結界門の外へ投げる。彼は階段と、地上の光に消えていく星空の下の住宅地との狭間に落ちていく。ばちばちと門と外の境界が安住を拒絶する。爛れた手がさらに赤くなっていく。人の肌は思っていたより重かった。 「馬鹿じゃないの」  階段の下から茶髪の若者が現れる。 「もう本物かどうかの違いも分からないんだ」  円い目が嗤っている。茉箸は安住の胸に手を伸ばす。 「ねぇ、一言だけ言わせてあげる。人間をダメにする言葉。知ってる?」  安住は首を振った。茉箸の手が透き通り、安住の内部に入り込む。 「前の祭祀者さんから教わったんだ。言ってあげなよ、同じ運命を辿るんだから、あの子に」  安住はまた首を振る。茉箸はそれを否定するように首を振った。 「好きだよ。人間の言葉で言えばたった4文字。短いね。この4文字でダメになる。呪みたいでしょ。前の祭祀者さんにこの呪いを掛けられたんだ。酷いよね」  ねぇ。胸部の中を(まさぐ)りながら茉箸は俯く安住に話し続ける。 「この4文字だけ言えるようにしてあげる。前の祭祀者さんに似てるから特別だよ。このままお別れなんて可哀想だからね」  安住は茉箸の腕を払った。栗色の眉が片方上がった。それから躑躅のような色味の瞳が住宅地に滑る。  金色ちゃんは帰らない。 「だめだよ。前の祭祀者さんも、祭祀者さんも、その前の前の祭祀者さんもそなや前の前の祭祀者さんもみんなが継いでみんな喰われていったのに、ここでぱったり辞めるなんて」  野良猫同士の喧嘩みたいに朗らかだった茉箸の声は低くなる。 「言えるね。祭祀者さんだってもう長くないんでしょ。貯蓄してた分返しちゃったってあの人は自分の太陽ちゃんにあげちゃうんだから」  胸元が熱くなっていく。茉箸の透けた腕が抜け、人の肉感を取り戻していく。 「長いこと人間やるのは良くないよ。演じれば本物になるんだって、前の祭祀者さんも言ってた。これは何か、下界にある娯楽の神楽(かぐら)の話だったかな」  胸元に籠ったままの熱を掻く。 「許さないよ。前の祭祀者さんだって喰われたのに。許さない。あの子だけ助かって、何になるの。こんな祭祀社(ところ)、さっさと壊れたらいいのに。でも守るよ。祭祀者さんごと人間どものつまらない不安だの、しがない願いだの届けないとなんだもんね。それが前の祭祀者さんとの約束だから」  茉箸は階段を背に腕を広げた。星空を抱えているようだった。 「あの子に伝えてやりなよ。俗世で生まれてこんな窮屈なところで死ぬんだ。最期の慰めにはなるよ。前の祭祀者さんも言ってた」  茉箸は階段に後ろから身を投げる。物音もなく視界からも消えていく。ぷつりと耳の奥で何かが切れ、ジャラジャラと鈴が荒々しく鳴っていた。そのことにも気付かなかった。

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