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第3話 社内

 会って謝りたい人がいる。――  十年間、その思いを胸に秘め、鹿倉隆文は今を生きている。  十年前、彼は中学三年生だった。  その夏、彼にとって忘れ難い出来事が幾つか重なって訪れた。  それは彼にとって初めての性的な扉を潜った瞬間であり、彼は傷付けられ、そして自らも大事な友人を傷付けた。  隆文が心から謝罪して許しを請いたい人物、七原雪弥はサッカー部のチームメイトだった。  中学三年の夏休み、大学一年の姉の友人だった女性に、弄ばれるようにして童貞喪失をし、傷付いた隆文は、その数日後、泊まりに来た雪弥を、半ば八つ当たり同然に無理矢理犯してしまった。  雪弥は小柄で、女の子に間違われる時があるほど可愛く、とても純粋な存在だった。  それが少し癪に障ったのが発端だった。何も知らない無垢な雪弥に性的な手解きをしようとして、度が過ぎてしまったのだ。  いつも無邪気に笑っている雪弥が、自分の手によって乱れ、扇情的になる姿に酷く興奮し、歯止めが利かなくなってしまった自分を隆文は覚えている。  全てが終わった後、泊まる約束をしていた雪弥は、一言、帰ると言って部屋を出て行き、そのまま戻って来なかった。  罪の意識を徐々に浮上させ、恐怖を感じ始めた隆文は、彼を追いかける事をせず、明日、冷静になってから謝ろうと、その日は逃げて遣り過ごす事にした。  だが翌日、雪弥は部活に姿を見せなかった。  責任を感じた隆文が、雪弥と同じ社宅に住むサッカー部員に彼の事を訊くと、彼の父親が社長夫人と不倫していた事が発覚し、辞職に追い込まれた為、社宅からも近い内に引っ越すのだ、と事情を話してくれた。  それが原因で練習に来ていないのだろうと、その部員は推測を語り、隆文は予想だにしていなかった事態に、焦燥感を抱いた。  それでも、キャプテンをしていた隆文は、部活をサボる事を許されず、夕方までフルに練習した後、雪弥の住む社宅を訪れた。  洗濯済みの雪弥のユニフォームや靴下を持って、それを渡すのを口実に彼と会うつもりだった。しかし、既に七原家は引っ越してしまっており、何処へ行ってしまったのか、分からないままに終わった。  サッカーを続けていれば会えるかもしれない、そう思って高校でもサッカーを続けたが、その願いは叶わず、それでも、いつの日か雪弥が帰って来るのではないかという儚い望みから、隆文は地元の大学を出て、地元の会社に就職した。  そのまま十年、雪弥に謝罪出来なかった隆文は、まともに恋愛も出来ないまま、大人へと成長した。  秋口に入り、幾分過ごし易くなってきた頃、社員食堂で一人食事をする隆文に、同じ会社の広報部にいる楢沢(ならさわ)が話し掛けてきた。  彼とは小、中、高と腐れ縁で、大学で一旦離れたものの、就職先で再会してしまった。会社で顔を合わせた時に二、三言、言葉を交わすだけの間柄だ。 「二日後、うちの会社主催のコンサートがあるだろ。」  楢沢が四つ折りにしたチラシをスーツのポケットから取り出し、テーブルの上に広げた。 「ああ。」  チラシを一瞥して、興味のなさそうな顔を隆文はして見せる。  チラシは今、社内のあちこちに貼られている、スウェーデンの管弦楽団と、地元出身のピアニストがコラボレーションするというコンサートのポスターのミニサイズ版だった。  会社主催という事で、各課から数人借り出されているようだったが、情報システム課に所属する隆文は、特に関わりたくないと思っているイベントだった。  既に昼食を終えていると見られる楢沢は、隆文の横の席に座り、缶コーヒーを開けた。 「まあ、訊けって!地元出身のピアニストの矢野栄志(えいし)のマネージャーに、昨日、会ったんだけど。…それがさ、誰だったと思う?」  楢沢はチラシに掲載された、ピアニストの写真を指した。 「知らねぇよ。」  思わせ振りな楢沢の態度に、隆文はイラッとさせられる。 「雪弥だったんだよ。覚えてるよな?中三の夏に急に転校してった、七原雪弥。」  その名前に、隆文の態度が激変する。 「それ、本当なのか!?」  楢沢がにやりとする。 「ああ。やっと情報が提供できるよ。」  雪弥が転校してしまった後日、雪弥と同じクラスだった楢沢に、隆文が雪弥について、しつこく質問した事があった。その事を彼は覚えていたのだろう。 「名字は変わってたけど、間違いないよ。今は矢野雪弥。矢野栄志の甥っ子に当たるらしい。」 「ピアニストの甥で…マネージャー…?」  隆文はチラシを手に取ると、写真の矢野栄志をまじまじと見る。神経質そうな面持ちの眼鏡を掛けたその顔からは、雪弥はイメージ出来なかった。 「あいつって可愛い印象だったけど、今、なんか、…男に言うのもなんだけど、凄い美人になっててさ。…ただ、態度とか素っ気なくて、ちょっとムカついたわ。」 「今、この街にいるのか…?」 「ああ。会社(うち)が手配したホテルに、今、泊まってるよ。」  隆文は半ば強引に、雪弥の宿泊先を訊き出すと、仕事を定時で上がって訪ねることにした。

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