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第4話 ホテルのロビー
ホテルに着くと、隆文はコンサートの打ち合わせと称して、ロビーに雪弥を呼び出す事にした。その際、本名だと来てくれない可能性を見越して、適当な偽名を使った。
ロビーチェアとセンターテーブルが幾つか並ぶ中、その内のひとつに落ち着くと、隆文は草臥れた印象のスーツを整え、ネクタイを締め直した。
暫くして、ダークグレーのスーツにグレーのシャツを合わせた、細身の男性が隆文の前に現れた。
「広報の佐藤さんって、あなたですか?」
見上げた先のその容姿に、隆文は息を呑んだ。
彼の中性的な面差しは、精巧に出来た人形のように整っており、少し長めの黒髪が、その白い肌に影を落としている。中学生の頃のサッカー少年だった雪弥の印象とは掛け離れていたが、目が合った瞬間、隆文は彼が中三の夏に、自分の前からいなくなった雪弥で間違いないと確信した。
それは雪弥も同じだったようで、表情が凍り付いた彼は、急激に張り詰めた空気を纏った。
「…君は確か、鹿倉って名字じゃなかったかな?母親が再婚でもした?」
覚えてくれていた事を喜んだのは束の間で、隆文は消えない過去を思い知らされた。
「佐藤は偽名だ。…すまない。」
ぎこちない微笑を浮かべ、隆文は頭を垂れた。
「…なるほどね。本名だと、僕に会って貰えないって、思ったんだ?」
対して笑みの欠片もない雪弥は、射るような冷たい視線で見下ろしてきた。
「ああ。…それくらい酷い事をしたって自覚がある。」
「楢沢に鹿倉も同じ会社に居るって聞いて、嫌な予感はしてたんだ。まさか、こんなに早く来るなんてね。」
雪弥の態度に、隆文は十年間、彼に恨まれ続けていたことを実感した。
椅子から立ち上がった隆文は、頭を下げる。
「ご免、雪弥!俺はずっとお前に謝りたかったんだ!…お前に…あんな事するなんて、俺はどうかしてたんだ。許されないのは分かってる。でも…!」
必死に弁明し始めた隆文の言葉を遮るように、雪弥は素早く口を挟んだ。
「場所を変えよう。」
雪弥が踵を返したので、隆文は慌てて彼の後を追った。彼の背後を歩きながら、ふと隆文は、お互いに身長が伸びている事に気が付く。中学時代よりも身長差は縮まっていたが、辛うじて隆文の方が数センチだけ高かった。
足早に雪弥はフロントへ赴くと、個室ラウンジを手配して貰ったようだった。
ホテルの従業員に案内されて、二階にある個室ラウンジの中へ入る。アースカラーのインテリアで纏められたそこは、普段は会食や商談の為に使われる場所で、八人までがゆっくり寛げる空間となっている。
「座れば?」
二人きりになると、雪弥が隆文に椅子を勧めた。その雪弥自身は座る気配はなく、扉近くの壁に背を預け、腕組みをしている。
「雪弥は…?」
「僕はいい。」
「そんなに警戒しなくていいよ。何もしないから…。」
「当たり前だ。」
冷たく言い放つと、雪弥は移動し、窓際にある一人掛けソファに座った。怯えているように見られたくなかったのだろう。
隆文も移動し、テーブルを挟んで、雪弥の正面の一人掛けソファに座った。
「打ち合わせは口実なんだろ?それなら、言いたい事を言って、さっさと帰ってくれないかな?」
雪弥の態度に、隆文は結局のところ、自分自身の良心を慰める為に、謝罪に来たのだと気付かされた。
「ご免…。楢沢に雪弥の事を聞いたら、会わずにはいられなくなったんだ。…叔父さんって、有名なピアニストだったんだな。…知らなかったよ。」
居たたまれない思いのまま口を開くと、沈んだトーンの声になった。
「活動拠点は海外が主だったし、興味がないなら、知らなくて当然だよ。」
雪弥の答えに、隆文は軽く微笑んだ後、直ぐに真顔に戻した。
「悪かったな。…俺と二人きりになんか、なりたくなかっただろ?」
雪弥の最後の記憶に残る印象よりも、大人の男に成長していた隆文は、精悍な顔付きを歪ませて、雪弥に贖罪を望む瞳を向けてくる。
その瞳に、被害者である雪弥の方が、何故か後ろめたい気持ちにさせられた。
「なりたくなかったよ。だけど公共の場で、過去のあの話をされるなんて、堪えられないからね。」
「ああ、そうだよな。…悪かった。」
そのまま口をつぐみそうになる隆文に、雪弥は皮肉を込めて問う。
「あのさ、なんで鹿倉の方が傷付いた顔してんの?」
「それは…。」
隆文は苦し気な表情で、口を開いた。
「それは、どんなに謝罪しても、過去は変えられないって分かっているから。…それでも、ご免、雪弥。俺はずっと謝りたくて…。お前にとって、あんなのが初めての体験だったなんて、最悪だったよな?トラウマを植え付けてしまったんじゃないかって、ずっと心配してたんだ。俺は雪弥に…。」
堰を切ったように流れ出た隆文の弁明に、雪弥は思わず鼻で笑うと、それから短く笑い声を発してしまった。
そんな雪弥の態度に、言葉を途切れさせた隆文は、目と耳を疑っているような顔をした。
雪弥は追い打ちをかけるように、隆文の思いを打ち砕く言葉を発する。
「…僕の初めてが君だって?ずっと、今までそう思ってたんだ?」
「…初めてじゃ…なかった?」
ショックを隠せない隆文に、雪弥は自嘲とも取れる、ひねた笑みを浮かべる。
「そうだよ。…まあ、女の子と違って処女膜もないしね。勘違いしてもしょうがないけど、…普通、あんなに簡単にアナルセックスって出来るもんじゃないから。幾ら子供の粗チンだったからって、初めて同士で挿入は、そんなに簡単じゃない筈だよ。…男は俺以外に経験してないんだ?」
雪弥は笑わずにはいられなかった。既に穢されていた体に、隆文が気付いていなかったのだという思いが、彼をそんな態度へと導いた。
「…雪弥だけだよ。…だけど、信じられない。雪弥がそんな…。一体、誰に…?」
自虐的な思いに囚われた雪弥は、隠していた秘密を、全て曝 け出す事を決めた。
「叔父だよ。十二歳の時に…初めて犯された。それ以来ずっと、僕は叔父に抱かれてきたんだ。…両親が離婚してからは、叔父は強制的に僕を引き取り、僕の全てを管理するようになった。」
隆文はチラシで見た雪弥の叔父の顔を過らせながら、顔色を悪くしていった。
「そんな…。それって犯罪じゃないか!合意じゃないんだろ?」
隆文の問いに、雪弥は子供の頃から持つ感情を、改めて捩じ伏せた。
「…今の僕は合意の下に抱かれてるよ。愛されているのは分かっているから。」
「嘘だ…。」
隆文に否定され、雪弥は視線を下に逸らした。
「…君には関係ないでしょう。」
雪弥は冷たく言い放った後、話を隆文との問題に戻し、彼を早く帰らせようと条件を持ち出す事にする。
「鹿倉は僕に、許して貰いたいんだよね?」
隆文は答えない。許されない事だと、強く思っているからなのだろう。
「…君が二度と、僕の前に姿を現さないって約束してくれるなら、君を許してあげるよ。」
その提案に、隆文の瞳が哀しげに揺れた。
「雪弥は…許さなくていいんだ!」
思い詰めた表情で隆文は立ち上がると、雪弥の傍へ行き、彼の肩に手を伸ばした。
「僕に触るな!」
隆文の手が触れる前に、雪弥は反射的にその手を払った。そして、隆文から逃げるように、彼もソファーから立ち上がると、その勢いのまま、扉へ向かおうとする。
「待って、雪弥!」
迫り来る隆文に脅威を感じた雪弥は、彼の頬を平手で打った。
「それでいい。…もっと殴ってくれていい!お前には、その権利がある。」
強い眼差しに、雪弥は体を震わせた。それは恐怖から来たものではなかった。
「…暴力には、暴力で返せって事?」
雪弥が逃げるのをやめると、隆文との距離が縮まった。
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