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第6話 アパート

 隆文は雪弥の手首を掴んだまま、足早に歩き、ホテルを出た。  雪弥は服装の乱れも直せないまま、隆文に引かれるままに彼の後に続いた。  隆文はホテルを出ると、迷いもなくタクシーを一台拾い、それに乗り込むように雪弥を促す。 「ちょっと、待って…!」  流石に声を上げた雪弥だったが、それでも強引に、後部座席に押し込められてしまった。  隆文が運転手に向かって、素早く行き先を告げ、タクシーが走り出す。 「…どこに連れて行く気?」  行き先を聞き取れなかった雪弥が、隣で息を整えている最中の隆文に訊いた。 「俺が住んでるアパート。」  地元に住んでいるにも関わらず、隆文が一人暮らしをしている事実に驚いたと同時に、雪弥は同行する事に拒絶を覚えた。 「行きたくない。」  雪弥がはっきりと口にすると、隆文は悲しそうな顔をした。そして、雪弥の耳元で囁く。 「心配することは何も起きない。…俺は不能だから。」  その言葉は雪弥に衝撃を与え、そこから車内に沈黙が訪れた。  十五分後、タクシーは大型スーパーマーケットの直ぐ近くに建つ、十一階建てのアパートの前で停車した。  途中、数人の住人と擦れ違いながら、隆文の先導でエレベーターに乗り、四階まで上がる。  その間も、隆文が囁いた「不能だから」という言葉が、雪弥の脳内でリピートされていた。  廊下突き当りの扉の前で、隆文が鍵を開けると、雪弥は急に緊張に襲われた。  半畳程のスペースの玄関に佇んでいると、先に上がって電気を点けてきた隆文が戻って来て、雪弥を軽く手招く。一呼吸吐いた雪弥は、覚悟を決めたようにして足を踏み入れた。  部屋は白を基調とした1LDKで、余分な物が置かれていない。  二人掛けソファとローテーブル、テレビボード上に43インチのテレビがあるだけだ。  以前、訪れた隆文の実家の部屋も、物が少ない感じだったのを雪弥は思い出した。  ダイニングテーブルは無く、対面キッチン据付けのカウンターテーブル前に、一脚のスツールが置いてあることから、そこが食事スペースなのだろうと窺える。  付き合っている女性がいる気配は、一切感じられない。 「…なんで、一人暮らし?」  雪弥の問に、隆文は気恥ずかしそうに答える。 「俺の姉がさ、一昨年の夏に離婚して、二人の子供と一緒に帰って来たんだよ。…それを切っ掛けに、家を出たんだ。」  隆文は雪弥をソファに座るように示唆すると、自分は距離を置くように、スツールに腰掛けた。それから右の拳を摩る。 「…人を、初めて殴ったよ。」 「助けてくれなくて、よかったのに…。」 「そうはいかない。…友人が虐待されてるのを見過ごすなんて、出来るわけないだろう。」 「かつての友人だろ?」  いちいち突き放すような物言いの雪弥に、隆文は傷付いた顔をする。 「誰だってさ…。」 「虐待の証拠なんかないんだ。…叔父は本当に僕と愛し合ってると思っている。」 「雪弥はそんな関係、望んでないんだろ?」 「…だとしたら?」 「だとしたら、あの人の傍にいるべきじゃない!…雪弥の両親はどうしてるんだ?」 「二人共、別の家庭を築いて、幸せに暮らしてるよ。そこに、僕の入る隙は無い…。」  無感情のまま答えた雪弥に、隆文は悲哀の眼差しを向ける。雪弥を救いたくて、胸が一杯になった。  隆文は思わず立ち上がる。 「俺の親戚がさ、九州にいるんだけど。古民家カフェみたいなの、やっててさ…。そこで、住み込みで働くのいいな…って、俺はずっと思ってて…。良かったら、一緒に行かないか?」 「は?何、急に…。」  思わぬ提案に、雪弥は戸惑いを隠せなくなる。 「俺が地元にずっと居たのは、いつか雪弥と会えるかも知れないって思ってたからで…。今の生活に執着はないんだ。雪弥に行く宛てがないんだったら…。」 「…そうだとしても、君と一緒には居られない。」  紅潮する顔で語る隆文を、雪弥は冷たく突っぱねた。その事により、隆文は自身の雪弥における立場を思い出した。  沈黙が訪れた隙をみて、雪弥は気になっていた事を切り出す。 「君、不能って言ってたけど、どういうこと?」 「…ああ、正確には勃起不全ってワケじゃないんだ。一人では出来るからさ…。」  先程とは打って変わった、沈んだトーンで隆文は返した。 「つまり…。」 「そう。対人がダメってこと。…今まで何人かと付き合ったけど、…そうなった時に、相手が少しでも痛がったり、嫌な素振りを見せられたら、出来なくなってしまうんだ。」  雪弥はその心理の背景を察する。 「…それって、僕との事が原因?」 「いや…。俺が神経質なだけだよ。」 「嘘だ。…少しでも無理強いしたら、僕にした事を思い出すからでしょ?」  否定した隆文に食い下がると、彼は無言で俯いてしまった。  雪弥は深い溜息の後、ゆっくりと呼吸を整えてから立ち上がった。そして隆文の正面に近付くと、改めて隆文の目を真っ直ぐに見つめる。  濃い睫毛に縁どられた美しい瞳に、隆文は思わず息を呑んだ。 「君を許すよ。…多分、あの時、僕の体が君を誘ったんだ。」  二人の間に幼い性交が、フラッシュバックする。 「わかる?…わからなくてもいいけど、僕は誰でも誘える体をしているんだよ。」  隆文の瞳から、一筋の涙が伝い落ちた。そして雪弥の言葉を否定するように、首を横に振った。 「俺の目には…雪弥は綺麗で、穢しちゃいけないものに見えてるよ。」  雪弥は鼻で笑ってみせると、不意に背を向けた。 「…帰るよ。君に迷惑は掛けないから。」 「行くなよ、雪弥!…あの人の傍に戻っちゃいけない!」  慌てて隆文が止めに入ると、雪弥は少しだけ振り返る。 「助けてくれなくていいって言ったよね?…ずっと前から、叔父から離れる準備はしてたんだ。君の手を借りる必要はない。」 「だけど…。」  雪弥と叔父には、れっきとした主従関係があり、雪弥は彼に抗えないように見えた。  このまま帰すと、また今までの関係を続けるとしか思えなかった。  隆文は雪弥に手を伸ばす。しかし、それは雪弥の強い眼差しによって阻止された。 「大丈夫だよ。…僕は叔父の壊し方を知ってる。」  そう言うと、雪弥は玄関から出ていってしまった。

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