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第8話 ショットバー
スマートフォンのGPSアプリを起動させた栄志は、甥の雪弥の現在地を確認した。
――飲み屋街の入り口付近じゃないか。何でこんなところに…?
殴られた跡の赤くなった頬を気にしつつ、少し切れてしまった口の端を栄志は舐めた。薄っすらと血の味がする。
ホテルのフロントにタクシーを一台、手配して貰うと、栄志は甥のもとへ向かった。
十五分足らずで、目的地に辿り着く。栄志が降車すると、ダークグレーのスーツを着た、細身の若い男が近付いてきた。雪弥である。
「ご免なさい、栄志さん…。」
しおらしく謝る雪弥に、栄志は不機嫌そうな顔をしてみせた。
「あいつは?」
栄志を殴った張本人、鹿倉隆文の所在を気にする。
「話は終わったよ。…鹿倉の事、訴えようとか思ってる?」
「あんな奴の事を心配しているのか?」
「いや…。ただね、明後日のコンサートは、ちゃんと演奏して欲しいから。そっちの心配をしてるんだ。」
「俺だけのコンサートじゃないからね。…その辺は心配いらないよ。」
明日、来日するスウェーデンの管弦楽団を脳裏に過らせ、栄志はそう答えたが、スポンサー企業である隆文の会社には、彼の暴力について言及するつもりでいた。
「さあ、ホテルへ戻ろう。」
栄志が雪弥の腰に手を回そうとすると、雪弥がその手首を掴んだ。
「ちょっと、飲んで行かない?」
雪弥の提案に、栄志は気の進まない表情を浮かべた。
「明日はリハーサルもある。酒ならホテルの部屋で、ゆっくり飲めばいい。」
「行きたい店があるんだ。」
「行きたい店?」
「ネットでね、見つけたんだ。」
雪弥の全てを管理したい栄志だったが、インターネットの検索に至るまでは、手が行き届いてなかった事を気付かされた。
雪弥に手を引かれ、栄志は渋々歩き出す。
歓楽街の薄暗い路地に入り、突き当りの角を曲がると、一際明るい場所に出た。そこは風俗と思われる店が乱立しており、栄志は眉を顰めた。まだ十九時過ぎだというのに、客の入りはそれなりにあるようだ。
そこを通り過ぎた先に、控えめなライティングの複合ビルがあり、その中の地下へ続く階段へ、雪弥は誘導した。
階段を降り切った先には漆黒の扉があり、黒っぽい煉瓦タイルの壁には、細い水色のネオンサインで『Che pioggia 』とある。
「ここは…?」
「ショットバーだよ。」
雪弥の先導で、店の中に入る。
店内は薄暗く、カウンターと奥にテーブル席がひとつある、どこにでもありそうな小さな店だった。四、五人いた二十代前後の男性客が、二人を窺うように注視している。
ボトルがぎっしりと並ぶ棚をバックに、マスターと思われる男が、カウンター席に座るように示唆した。
金髪の長い髪を後ろでひとつに纏めたマスターは、年の頃は三十代前半といったところだろうか、180センチ過ぎの長身で、日焼けした肌に白のノースリーブシャツが映えている。その両方の二の腕には、筆記体の文字のタトゥーが入っているが、正面からだとよく分からない。
栄志は怪訝な瞳をマスターに向ける。濃いフルメイクの顔で、マスターはウィンクを返した。
「オカマバーなのか?」
栄志の失礼な物言いに、マスターは小首を傾げて見せる。
「ゲイバー兼、ゲイ向けデリヘルの斡旋所、ってとこかしら…?」
疑問形で返したマスターは、そんな自身に対して笑いを洩らした。
「雪弥、帰ろう。」
踵を返そうとした栄志を、雪弥は彼の腕を掴んで引き止める。
「待ってよ。…レイジさんとはネットで知り合ったんだ。それで、栄志さんにも紹介したいと思って…。」
「知り合いだと…?」
栄志の眉が顰められる。
「そうなの。でも、雪弥君とこうして顔を合わせるのは、今日が初めて。…来てくれたお礼に、一杯、奢らせて下さいよ。」
雪弥が珍しく嬉しそうな顔でスツールに座ったので、栄志も一杯だけのつもりで隣に座った。
レイジはステンレス製のミキシンググラスで、手際よくカクテルを作り、オールドファッションのグラス二つにそれを注いだ。
「…なんてカクテル?」
「ネグローニよ。カクテル言葉は”初恋”…だったかしら。」
雪弥とは対照的に、不機嫌な表情で栄志はグラスを口に運ぶ。甘さの中に苦味のあるカクテルだった。
「…君はイタリア人か?」
栄志は店の名前や、作られたカクテルから推測したことを、レイジに訊いた。
「父がね、イタリア人なの。」
納得し、グラスを再度傾ける栄志の股の間に、雪弥の手が這わせられた。
「ねぇ、栄志さん。…ここでなら、セックスしてもいいよ。」
雪弥の唐突な言葉に、栄志は思わず噎せ返った。
「何を言ってる…?」
雪弥は手を止めず、更に熱を持たせようと刺激を与えてくる。
「…だって、鹿倉の前でしようとしたじゃない。人前でしたいんでしょ?」
「あれは貸切りラウンジだったし、あいつを帰らせる為にした事だ。…それを怒ってるのか?」
「怒ってるよ。…あんな姿、鹿倉に見られたくなかったからね。でも、この人達の前でならいいよ。…なんなら、ここにいる人達、みんなとヤる?」
会話が聞こえたのか、テーブル席にいた男達が近寄って来た。
普段とは明らかに違う雪弥の言動に、栄志は悪夢でも見ている気分になった。
「無理だ。…俺はゲイじゃない。」
栄志は席を立つと、その場の人間全員に告げるように言った。雪弥も含め、みんな一様に驚いた表情になる。
「本当に?オジ様、ノンケなの?」
「…でも、男の抱き方は知ってるんでしょ?」
いつの間にか、栄志の背後に立っていた男が、抱きついて来た。
「おい、やめろ!俺に触るな!」
抵抗を見せた栄志の首筋に、男は注射器の針を、慣れた手付きで突き立てた。
透明の液体が注入されていく。
次第に栄志の体から力が抜け、彼の意識は遠のいていった。
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