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第19話 カフェ
雪がちらほらと舞う、二月初旬のある日、雪弥の前にサプライズが現れた。
閉店後のカフェで、雪弥が一人残って後片付けをしていると、突然、何の予告も無しに隆文が訪れたのだった。
平日の帰り間際で、全く予期していなかった事もあり、一瞬、隆文に似た誰かと思ってしまった雪弥だった。「もう閉店です」と言い掛ける雪弥に、彼は30センチ角の、白い箱を差し出してくる。
透明な蓋の中を覗き込むと、赤やピンクの薔薇が、箱一杯にアレンジされて詰められていた。それは、プリザーブドフラワーというものらしい。
箱と彼を交互に見て、雪弥は漸く、目の前の彼が、本物の隆文なのだと認識する。
「…何?どうしたの?」
雪弥は狼狽えながら箱を受け取った。
「雪弥は二月生まれだっただろ?…何日だったかは覚えてないけど。…誕生日、もう過ぎた?」
寒さが原因だけではなさそうな、赤らんだ顔で隆文に尋ねられると、雪弥は冷静さを取り戻した。
「…過ぎてないけど。花のプレゼントなんて…。僕は女の子じゃないよ。」
「ああ、悪い。なんか、思い浮かばなくて…。ここ来る前に、衝動的に買ってしまったんだ。」
「そんなの、良かったのに。でも、…有難う。…コーヒー淹れるから、座って。」
雪弥が促すと、隆文は荷物を下ろし、ダウンジャケットを脱いで、カウンターの席に座った。
「目、悪かったっけ…?」
隆文が雪弥の黒縁眼鏡を指摘した。
「少しだけ。…掛けなくても平気なくらいなんだけど、この前、地方紙の取材があってさ。あ、このカフェのね。それで、僕の写真も撮られる事になって…。何となく、素顔を出したくない…とか思ってね…。それから、ここにいる間だけ、掛けるようになったんだ。」
ポットにお湯を入れ、沸かし始める。
雪弥がコーヒー豆を計量し、ミルで挽き始めると、隆文がやると言って、それを引き受けた。
「…僕が居るって、誰に聞いた?公隆さん?」
口止めしておいたのにな、と雪弥は不平を並べたくなる。
「いや、実里ちゃん。電話で話す事があって、そしたら雪弥の事、急に話し出してさ…。」
意外な犯人の正体に、雪弥は盲点だったと気付かされる。小学一年生の彼女にまでは、気が回らなかった。
「でも、それ以前にさ、雪弥が来たら引き止めておいてって、佐藤家のみんなには頼んでたんだ…。」
「どうして…?」
「ここで、ゆっくり会いたかったから。」
雪弥は会話のラリーをやめ、茶こしがセットされたガラスの容器を隆文に差し出した。粗挽きにしたコーヒーの微粉を取り除く為だ。隆文はそれを受け取ると、引いたばかりのコーヒーの粉をそれに移して、軽く振るった。
お湯が沸いたので、ドリップポットに移して温度を調節する。
作業中だからか、雪弥とは目が合わない。それをいい事に、隆文は彼の顔を見つめた。長い睫毛が眼鏡のレンズに当たっているように見える。
隆文が問う。
「どう?ここでの生活は、もう慣れた?」
「うん、なんとかね。…我儘でカードと電子マネー、使えるようにして貰ったんだ。」
「へぇ、こんな田舎のカフェなのにな。」
スウェーデンでキャッシュレスの生活に慣れ親しんでいた事を雪弥が話すと、公隆が速やかに行動を起こしてくれたのだと、簡潔に説明する。
「でも、現金での支払いが、まだ主流なんだけどね。」
ポットに差した温度計が87℃を示したのを確認すると、雪弥はドリッパーにセットしたコーヒーの粉に、円を描くようにお湯を注いでいく。
二人分のコーヒーを淹れると、雪弥はカウンターを出て、隆文の隣に座った。
「仕事、忙しそうだね。…栄志さんを殴った事、問題にならなかったんだ?」
雪弥は隆文と再会した日に、起こった事を持ち出した。
「ああ、うん。訴えられなかった。…コンサートも無事終わって、何事もなかったように、あの人は日本を去ったみたいだよ。」
「そう、良かった。」
雪弥は小さく呟いた後、気にしてない風を装った。
「雪弥が本当にカフェで働いてくれるなんて、びっくりしてるよ。」
「…君の誘導なのに?」
コーヒーを啜りながら、隆文は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「俺も、こっちで暮らそうかな…。」
そう言ってから隆文は、雪弥の反応を気にした。
雪弥は何気に眼鏡を外してテーブルに置く。
「僕はね、もう少ししたら、ここを出ようって思ってるよ。」
相反するような言葉を雪弥に返され、隆文は驚く。そして心配そうな顔で彼の横顔を見つめた。
「…何かあった?」
雪弥は首を横に振り、否定する。
「何も。…みんな優しいし、いい環境だよ。でもさ、小さなコミュニティだから、ゲイの僕には少し生き辛いんだ。噂って、あっという間に拡がるだろ?」
我ながら、さらりとしたカミングアウトだと雪弥は思う。
「…ゲイ?」
思わずそう訊き返した隆文の反応は、雪弥の想定内のものだった。
ノーマルだと、相手が同性愛者だとは余り考えない。
「そうだよ。そんなに驚く事?…性的嗜好なんてね、ちょっとした切っ掛けで決まるし、変えられたりするんだよ。性に目覚める時に体験した事や、見たり、聞いたりした事が、なんらかの影響を及ぼしたりする。…そんなもんでしょう?」
雪弥の顔が隆文の方を向いたので、二人の視線がぶつかった。
「…気持ち悪い?」
「いや…。」
隆文は否定すると共に、正面を向いて目を伏せた。
「安心しなよ。僕は君を襲ったりとかしないから。…不能な人に用はないしね。」
雪弥もコーヒーカップに視線を移した。
「…そんな心配、しないよ。」
隆文の沈んだ声のトーンに、少し意地悪だったかな、と雪弥は反省する。そして、話を切り換えた。
「…今、鹿倉は好きな人とか…いるの?」
隆文に付き合っている女性はいなさそうだと予想しながら、雪弥は尋ねた。
「いない。…告白される事があっても、直ぐ別れるの目に見えてるから、断るようにしてるんだ。」
「へえ…。」
多少、自慢が混じっていたように思えた雪弥は、気の無い返事をした。ただ、隆文が断らなければならない背景を知っているので、それには少し同情する。
「鹿倉はさ、…僕を抱いて、男に興味を持った事はなかったの?」
雪弥は隆文の選択肢を探ってみた。
「なかったな…。」
率直な答えが、間を置かずに返ってきた。
やっぱりね、と、雪弥は自嘲に似た微笑を浮かべる。しかし隆文の答えには続きがあった。
「雪弥だけが、特別だったんだって思う。」
隆文のその言葉に、雪弥は不覚にもドキリとさせられてしまった。
「そんな言い方、…期待してしまうだろ。」
極々小さな声で、雪弥は本音を洩らした。
「何?ご免、今、聞こえなかった。」
「何でもないよ。」
惚けた序でに、雪弥は再び話を切り換える。
「今日、どこに泊まるの?」
その問に、隆文は少し困ったような顔をした。
「…公隆さんには、雪弥の部屋に泊まればって言われた。積もる話もあるだろうからって…。でも雪弥が嫌だろうから、別の部屋、準備して貰うおうと思ってる。…嫌だよな?」
念を押すように訊かれると、嫌だとは言えない雪弥だった。
「嫌じゃないよ。…来れば?元は君が主に使ってた部屋なんだし。…君が嫌じゃなければだけど。」
ゲイだと含みを持たせて隆文を見ると、彼は真っ直ぐに見つめ返して来た。
「嫌じゃない。」
コーヒーを飲み終えると、隆文が率先して後片付けを手伝い、最終確認をして店を出た。
戸締りをした処で、隆文が佐藤家に寄って来るといったので、二人は佐藤家の玄関前で一旦、分かれた。
――なんか、見られたら困るものとかあったっけ?
特にない筈だが、雪弥は急いで自室へ向かった。
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