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普通でいたい
何が気に障った訳でもない。
ただ、じくじくと存在を誇示する虫歯の痛みのような、得体の知れない苛立ちが脳を侵食している。
昂然と「今さえ楽しければそれでいい」と言い放ち、その場で足踏みし続ける日々を正当化してきたツケが回ってきているのか。
この苛立ちは、先の見えない未来への不安や焦燥が引き起こしたものなのだろうか。
だとしたら、案外自分は自分が思う以上に普通の中学生なのかもしれない。
周囲が進路のことで気忙しくなり始めた頃のある朝、ふと思ったのはそんなことだった。
朝っぱらから何を考えているんだと余計に腹が立ちそうになったところで、倉原明は自嘲に頬を歪ませた。
くだらねぇな。
自分自身を含めた何もかもが。
時間が解決してくれると思っていた正体不明の苛立ちは、放課後帰路についた今でも腹の底でくすぶり続けている。
他校に通う幼馴染のケンジにでも喧嘩を吹っ掛けて憂さを晴らすか。
そう思った矢先、スクールバッグの中のスマートフォンが唐突に鳴り響いた。
その音に肩を跳ね上げるほど驚いてしまったのは、スマートフォンの存在自体を忘れていたからだ。
未だ充電が切れていなかったことにも驚いたほどである。
家と学校で素行の悪さを問題視され、どこをほっつき歩いているかわからないからと両親に監視目的で持たされた。
アキラにとってスマートフォンはその程度のもので、興味を持つどころか寧ろ厄介なものでしかない。
電話に出たのは単なる気まぐれだった。
普段なら、ほとんど何も入っていないスクールバッグを開けることすらない。
そこへ無理矢理母親に突っ込まれたスマートフォンは、鳴っていようが鳴っていまいがそれまで手に取ることもなかった。
『あ、繋がった』
耳に当てた受話口から唖然とした声が零れ出た。
アキラ自身にも電話に出た理由がないのだ。相手も掛けるには掛けたがまさか本当に繋がるとは思っていなかったのだろう。
しかし、スマートフォンの番号を知っているのは両親と弟のミノリ、そして幼馴染のケンジだけのはずである。
が、受話口向こうの年若い男の声は、ミノリのものでもケンジのものでもない。
「誰だよお前」
アキラはぞんざいに言い捨てて眉を潜めた。
『え!?あっ、俺は隣のクラスの──』
焦ったように告げられた名前に、アキラはさらに眉根を寄せる。
「知らねぇな」
『え!?い、いやっ、知んなくてもいいよっ。今俺等かなりヤバくてっ。助けてよ、倉原君っ』
「は?訳わかんねぇ。つかなんで俺のスマホの番号知ってんだよ、お前」
『それは……えっと……ミノリ君から……』
「ミノリか。あの馬鹿あとでシメるか……」
『ちょ……っ、ごめんっ。電話した俺が悪ィんだっ。ミノリ君は悪くないっ。だからそこまでしなくてもっ』
アキラが低く呟くと、少年の焦りはより酷くなった。
『頼むよ倉原君っ。マジでヤバイんだってっ。もう10人くらい潰されてっ、今俺隠れて電話しててっ。俺等五中の奴等と手ェ組んだんだけど全然ダメでっ。半端ねぇんだよ、七中の奴っ。このままじゃ俺等全滅だよっ』
五中、七中というのは第一中学校から第十中学校まである地元の中学の通称である。
「七中?七中の奴等と喧嘩してんのか、お前等」
腹の底に巣くった苛立ちを押しのけるように、喜びにも似た興奮が胸に兆す。
「それ先に言えよ。場所どこだ?」
抑え切れない笑みで口角を吊り上げ、受話口向こうの少年が告げる道順を聞きながら、アキラは走り出した。
少年の言葉に従って辿り着いた高架下は、まだ日も暮れていないというのに薄暗く、人気もない。
そこに複数人の怒号と鈍い打撃音が響き渡っていた。
アキラは石柱の影に隠れていると言う少年を捜すより早く、眼前に広がる光景に己が目を疑った。
十数人の少年達が倒れ伏す中、怒声を上げる4、5人の少年に取り囲まれているのはどう見ても1人なのだ。
その1人の少年が、見る間に1人、また1人とアスファルトの地面に少年達を沈めていく。
皆同じ黒の詰め襟姿だったが、アキラはその少年が七中の生徒だと確信した。
まだ倒れていない少年が2人いるというのに、不意に例の少年が悠然とアキラを振り返った。
「ようやく出てきたか。まともそうな奴」
傷ひとつない、端整な顔だった。
変声期の終わったその声を聞かなければ、性別の判別も困難に思える美しい造形である。
「なんだとコラ!」
「俺等がまともじゃねぇってか!」
少年は同時に殴り掛かってきた2人の拳を軽く体を屈めて避け、体を戻す勢いで手前の1人の顎に下から掌底で当て身を入れ、返す体で残り1人の鳩尾に肘を叩き込んだ。
「雑魚に用はないんだよ」
倒れた2人に冷ややかな声を落とし、少年は再びアキラを視界に入れた。
そして、足元の少年達を踏み越えながらアキラに歩み寄り、アキラの眼前で足を止めて口を開いた。
「女の子?」
表情もないが、その声も機械のように抑揚がない。
「人のこと言えたツラかよ。お嬢ちゃん」
アキラは感情の見えない少年の目を睨み据えて吐き捨てた。
「残念だな。女だったら付き合ってやってもよかったのに。まあ、それくらい綺麗なら男でもいいか。付き合ってやるよ」
平然と言ってくる少年に目を据えたまま鼻先で笑う。
「付き合ってやるってか。何様だテメェ」
「俺、綺麗な子が好きなんだ。それで俺を楽しませてくれたら申し分ない」
言うなり少年は握り込んだ右手を前にし、半身になって構えた。
それを見て「コイツ、サウスポーか」と頭の片隅で思いながら、
「答えんなってねぇな」
アキラは手に持ったままだったスマートフォンと肩に下げていたスクールバッグを放り捨て、少年とは逆に左手を前にして構えた。
そのまましばらく睨み合い、先に仕掛けたのはアキラだった。
一歩踏み込み、腕の力ではなく肩甲骨から動かした拳を少年の顔面目掛けて繰り出す。
が、右手で軽く弾かれた。
瞬時に態勢を整えた時、少年の右足が動いた。
蹴りが来る。
そう感じた瞬間にはすでに迫って来ていた少年の足、その膝から下が突如視界から消えた。
本能的に頭部を庇うよう動いた左腕に鋭い痛みが走った。
「驚いた。止められるとは思わなかった」
少年は微かだが目を見開いて足を下ろした。
足技を得意としている弟としょっちゅう喧嘩をしているアキラは、大抵の蹴りのパターンは把握しているつもりでいた。
しかし少年の蹴りはミノリのものと違うどころか、今までに見てきたどの蹴りとも種類が異なっていた。
蹴りを出すとなると大体は威力を上げるために体を捻るものだが、少年の蹴りにはそのモーションがなかったのだ。
視界で捕らえていた足を見失うほど、瞬間的にスピードを増す蹴りを見たのも初めてだった。
何より、利き手利き足を前にした構え。
柔道の構えと同じではあるが、当然ながら柔道にハイキックはない。
「お前、なんかやってんだろ」
アキラは好奇心に駆られて尋ねていた。
すると少年は相変わらずの無表情で、
「ああ。俺の家独自の喧嘩術をね」
抑揚なく答えた。
その態度、その話し振りがどことなくケンジに似ていることに気付き、アキラは思わず含み笑った。
「なんだそりゃあ。どんな家だよ」
そんなアキラの態度を意にも介さず、少年が静かに口を開く。
「正確には俺流だな。元々は人を殺すための武術だったらしいけど、今は演武用の型しか残ってない。だから実戦で使えるのかどうか試してみたくて」
「おいおい、とんでもねぇ家のお嬢様じゃねぇかよ。そんなんバレたら破門になんだろ。おとなしく演武だけやってろよ」
「つまらないじゃないか、そんなの。そもそも、俺を倒せば箔がつくと思ってる連中や、腕試しが目的らしい挑戦者があとを絶たないんだ。コイツ等もそうだよ」
少年は冷めた眼差しで地に倒れ伏す少年達を見回して、再びアキラに視線を戻した。
「俺とやりたがってる連中の相手をして何が悪い。それに、君に蹴りを止められてわかったけど、まだまだ改良が必要らしい。もっと相手が欲しいくらいだ」
「おっかねぇ女だな。『突っかかっていい相手じゃねぇ』って周りの連中に言っとくわ」
「俺の邪魔はしないでほしいな、お嬢さん」
言いながら、少年は微かに笑った。
少年が初めて見せた表情らしい表情に、アキラは虚を衝かれた。
思わず目を見張り、返答のタイミングを逃した。
しかし、やはり少年はアキラの反応を気にする素振りも見せず、言葉を繋げる。
「俺は今より強くなる。だからもしどこかでまた会えたら、今度は本当に俺のオンナにでもなってもらおうかな」
「勘弁しろよ。イカレた武術家となんかやり合いたくもねぇ」
肩を竦めて溜め息混じりに返すと、今度は少年が目を見張り、そして再び表情を消した。
「君、案外普通なんだな。つまらないよ」
「つまらなくて結構だ。普通上等。お前に会えたお陰で《普通》がくだらねぇもんじゃねぇってわかったよ。感謝するぜ、イカレ野郎」
「訳がわからない。でもまあ、《イカレ野郎》っていうのは悪くないかな」
「悪くねぇのかよ。お前、本当にイカレてんだな」
「普通の君からしたらそうなるんだろうね」
それ以降この少年とは再会することもなく、アキラは高校2年になった。
アイツは宣言通り強くなっているんだろうか、せめて名前くらいは聞いておくべきだったかと、今でもたまにふと思う。
「グラ、俺の説明わかりづらい……?」
見るからに恐る恐るといった様子で、向かいの席の尾藤が遠慮がちに尋ねてきた。
少し変わった奴ではあるが、それまで周囲にいた連中と比べると至って普通の尾藤と、こうしてファミレスでテスト勉強をしている。
「普通だな」
自分を含めた何もかもが。
《普通》とは、なんとも平和で、精神を弛緩させるものだ。
「マサヤン先生に対してなんだその態度は。飽きたんならおうちへお帰り。ハウスハウスッ」
隣に座る武藤が、シッシッと手を払ってきた。
武藤は必死に《普通》を装っているが、彼がいつ爆発するかわからない不発弾のような男であることをアキラは知っている。
「お前がいると気が緩まなくて済む」
だから武藤とは離れがたい。
武藤以上に《普通》から縁遠いケンジとは、さらに。
アキラが彼に執着しているのは、ある意味自然なことなのである。
平和の中にも、適度な緊張感は必要だ。
しかし、まさか彼が……いや、彼までもが、自分を性的に支配たがっているとは思いも寄らなかったが。
それもまた面白いと思ってしまっているのは、相手が彼だからにほかならない。
「やだ何……?何いきなり笑ってるの……?慣れない勉強なんかしてるせいで、ついに脳みそやられちゃったの……?」
「うるせぇよ武藤」
俺は《普通》だ。
アキラは心の裡で呟いて笑みを零した。
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