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第14話
(恵花。恵花、恵花、恵花!!)
階段を駆ける足はどんどんと歩幅を大きくさせ、息を上昇させる。髪から汗が吹き出し、輪郭を伝って雫が落ちた。
(俺は、君に伝えたいことがあるんだ……!!)
体力には自信があるとはいえ、五階を過ぎたあたりで膝が痛む。腕にかけたバッグの中身は原型を留めていないだろう。
「大丈夫ですか?」
ふと、頭上から声が降ってきた。主は同じチームに所属している気弱そうなショートカットの女性・天満 琴美 だった。角から顔を出した彼女は俺の様子と続く階段を交互に見てから誰かに「待ってください!」と叫ぶ。
「エレベーター、使ってください!」
「えっ……??」
「あたしは後で良いので!お願いします」
普段、チーム内で頷くところしか見た事のない彼女が俺の背中を押しなんて誰が思うだろう?
「すみません。三階までお願いします」
ーー三階
「ありがとうございます!」
(恵花、恵花、恵花!!)
足の裏に力を込め、床を蹴る。途中何度かぶつかりそうになるが、俺の頭の中は作った料理を美味しそうに口いっぱい頬張る彼しか浮かばなかった。
あと数メートルの距離になると何やら声が聞こえてくる。それは近付く度に大きくなり、胸騒ぎもしてくる。初日に感じたそれと同じであった。
「えば……っ!?」
「っ、ふぁっ…!!は、はっ……あぁあ……!!」
奥の個室から聞こえてきたのは最近知った声と、
「お願いします、女神様……っ!!俺から依子を奪わないで、くださいっ……!!」
そいつは奥にいる恵花の腕をハンドルのように引っ張り、腰を何度も突いていた。
「牛、島……さ、ん??」
モヤモヤとイガイガしたものが溢れてしまいそうになる。飲み込んでも胸が痛い。目の前が徐々に見えなくなり、呼吸が浅くなるのを感じた。
「おま、っ、お前が依子を奪ったんだ!!姉弟だからって何をすんだ!!」
「く、ぅぅぅっ、あ、っ、あぁああ……!!僕は、かんけー、ありま…せ……っっっ!!」
「嘘をつけ!こんな、デカ尻淫乱性処理機のせいで!!依子は普通じゃいられなくなったんだ……っっ!!お前にこんな役目なんかするんじゃなかった……!!」
「ごめ、ゴメンなさ…ぁぁあ……っっっ!!ゆるひ、ゆるひ…てくださ……っっ!!ふこー……にひて、ごめんなさ……っ!!」
痛い。
彼の、恵花の悲痛な声で胸が張り裂けてしまいそうだ。こんな思いになったのは自分のこと以外で初めてだった。
「お前にこんな、役目なんかさせるんじゃなかった……!!きっと輪姦され過ぎて運が尽きたんだな??だったら、豚らしくケツでもふ……ーーぐ、ッ、はっ…ぁ…あ"!!」
「ふぅ、ふぅ……は、っ、……ふ、ぇ……?」
「何すんだおらぁあ……っ……!?ま、真城……!?」
さすが先輩。壁に吸収されてもなお、気迫のある目は消えていない。
隣をちらりと見やると、太すぎる太ももをガクガクと震わせながら、蓋をした便座に上半身を乗せて熱い息を吐いていた。
「恵花」
俺は痛が走る左手で彼の紙袋を取ってやる。
「は、はぁ……はぁ……っ。ま、真城……さん…、っ??」
大粒の涙と鼻水を出し、光が宿りきってない虚ろな目にさらに胸が締め付けられる。
「よく、頑張ったな」
頭を撫でてやる。ぐしょりと濡れた髪は散乱していた。
「牛島さん」
「……ッ、なんだ……!!」
「何をしているんですか?」
「は、はっ??見ての通りだ……ろ??トイレの女神様に願っているだけだ、が……?お前にも言っただろう。ここには噂の……」
刺激を与えてしまったんだろう。怯えた言い様から自暴自棄になっている。先輩の変わった姿。でも、きっとこれが現実なんだ。
「恵花は」
「あっ?」
「恵花は肉便器でも、性処理機でも女神でもありません。俺の大事な人です」
想いが響く。恥ずかしさやその場のノリではない、嘘ない気持ちは伝っただろうか?真っ直ぐに向けた視線を牛島さんと交わうことはなかった。
「ふっ。言うようになったじゃねぇ……か。だがな、そいつは自分の不幸の代わりに相手をケツで幸せにするしか能力がない奴なんだよ。それだけは覚えておけ」
ゆっくりと立ち上がり、フラフラと牛島さんは歩き出す。彼がトイレを出ていくまで、拳をずっと握りしめていた。
(あれで良かったんだ。だが、もう少し俺がきちんとしていれば、牛島さんは……)
「ま、真城…、さ、っ…ん!!」
「うぉっ……と。恵花……」
体重がずしりとかかり、思わず尻もちをついてしまいそうになった。
恵花はズボンをまだ膝に引っかけていたが、瞳からは綺麗な涙が零れていた。
「真城さん……っ。真城さん……ッ!!」
ぎゅうう。腰に短い腕が回ってくる。それは柔らかく暖かいもので、徐々に張り詰めた心を解してくれるようだった。お腹には冷たい雨が降っているのに。
「恵花……」
震える左手を彼に回してもいいんだろうか?ふとそんなことが頭に過ぎる。
しかし、それ以上考える前にきついハグによってかき消されてしまった。
「真城さん、すみません、僕……、迷惑掛けるつもりじゃ……」
恵花の眉を寄せ、困った笑顔が俺の瞳に映る。止まることを知らない涙で恵花は小さな拳で何度も何度も擦っていた。
「そんなことねぇーよ。恵花」
もう後ろめたさなんて忘れていた。優しく包むように広げた腕は小柄な彼をすぐに包みこんだ。
「ふ、っ……え??」
「さっきの話、聞こえなかったかもしれねーが、恵花は俺にとって大事な人なんだよ。お前だけなんだよ」
もう離したくない。腕に力を込めて恵花の肩に顔を埋めた。汗とはちみつが溶けた匂いがする。
「ま、しろさ」
「これじゃ足りへんか……?伝わらへんか?」
「違い……ます」
鼻を啜ったのはどちらだったのか。それは今もわからない。恵花の体温のあたたかさに目頭が熱くなったのはハッキリと覚えているが。
「聞こえてまし……た。ちゃんと、ちゃんと真城さんの気持ち、伝わってきました。僕も、あなたのことが大好きです……」
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