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第8話
一日中、手が空けば彼女に連絡を入れた。電話もメールもして、心配していることを伝えた。
このところ仕事続きでろくに話もしていなかったことが悔やまれた。今夜も帰って来なかったら警察に相談に行くべきかもしれないと考えながら帰宅すると居間の電気が点いていて、彼女がクッションを抱き締めながらソファーの上で小さく座っていた。
「さやか、なんで連絡しなかった?」
ネクタイを緩め、隣に座ると彼女はつけていたテレビを消して睦月を見た。
可愛らしく彩られた手の爪がクッションに沈むほど強く握られていた。
「なんで? それはあたしのセリフだよ」
「どういう意味だ?」
決して美人ではない。かといってとても可愛いとも言えない。至って普通の女性だ。それでも言葉足らずな睦月のことを理解して傍にいてくれる優しい女性。自分には勿体ないくらいだ。
「睦月、営業に異動してからずっと忙しかったよね」
「ああ……確かに忙しくて最近、会話も出来なかった。悪いと思ってる」
「ホントに? ホントに悪いと思ってる? あたしが帰って来てないこと気が付いてた?」
「気が付いてたから連絡しただろ? 心配してたんだ」
彼女は不機嫌な顔でじっと睦月を睨んだ。なんでそんなに不機嫌なのかわからず、睦月は少しいらつきを覚えた。
理解のある彼女だと思っていた。けれど、今目の前にいる彼女は忙しい中、彼女のことも心配していた自分のことを理解してはくれない。
「どこに行ってたんだ? 仕事が忙しかったのか?」
「あたし、仕事辞めたの。友達に誘われて一緒にお店やることにしたのよ。その準備でずっと忙しくて、友達の家に泊まったりしてた」
「辞めたって……いつ?」
全く気が付かなかった。彼女が忙しいのはよくあることで、帰宅が遅いのもそのせいだと信じて疑っていなかった。
「半月前。その前から色々準備もしてたし、前の仕事の引き継ぎとかあって忙しかったのはあたしもだけど、睦月は全然気が付かなかったよね。鈍感なのはよくわかってたけど、こんなに気が付かないとは思わなかった」
「言ってくれれば……」
「言えなかったよ。睦月はあたしを見てなかったもん、ずっと」
「そんなこと……」
見ていなかったなんて、そんなつもりはなかった。ただ、いつも一緒にいて長く同じ時間を過ごしていたから言わなくても通じ合えていると思っていた。
「……ねぇ、あたしたち、最後にセックスしたのいつか覚えてる?」
「……え……?」
さやかの目が痛いくらいに突き刺さる。
最後に肌を重ねた日を思い出そうとして、いつだったか思い出せなかった。付き合いが長くなれば身体だけではなく心も繋がって満たされていく。睦月はさやかに対してそう感じていたし、さやかもそうだと信じていた。だから、忙しいときに自分の性欲を無理やりぶつけるようなことはしなかった。労っていたつもりだった。
けれど、いつの間にこんなに彼女に対して欲を感じなくなったのか。疲れているからとか、明日も朝が早いからとか、それは言い訳にしかならない。
愛し合っているのなら、自然とそういう雰囲気にもなるし疲れていても肌を重ね合うことで癒やされる。実際、少し前まではそうだった。
いつからそうではなくなった? 彼女の肌に何も感じなくなった? 忙しくても機会はいくらでもあった。無理に抱こうとしたって彼女なら優しく受け入れて許してくれるはず。それだけの関係を築いて来たのだから。
「あたしのこと、好き……?」
何故か、そのとき脳裏に映ったのは松田の顔だった。あの寂しそうで哀しい目の、孤独な彼の姿だった。
さやかのことは好きだ。結婚だって考えている。子供も出来て、ささやかながら幸せな家庭を持つのだろうと漠然とだが想像していた。
なのに彼女を抱きたいという欲が自分にはないことに、さやかの言葉で気付かされた。一番、そのことで傷付けてはいけない相手に。ショックを受けているのは彼女だ。自分がショックを受けるなんて彼女に失礼だ。だけどこれが本心なのだ。
好きな気持ちはいつの間にか「いて当然」になり、恋の形は変わってしまっていた。
そんなにたくさん「好き」だと言ってこなかった。それでも彼女は笑って「好き」だと返してくれた。こんなことならもっと伝えておけばよかった。どれだけ大切に思っていたかを。どれだけ好きだったかを。
「……ごめん……さやか、ごめん、俺……」
謝ったって許してはもらえない。わかっているけれど謝るしか出来なかった。
「あたしも、ごめん。睦月があたしをそう見てないように、あたしも見れなくなってたんだ。新しい仕事が楽しい。今は睦月に構ってられない。だから、これ以上、意味のない関係は続けていられない。お互いの時間が勿体ないから」
それは彼女の精一杯の強さだった。それを言わせた自分が情けなくて、これ以上彼女を惨めにさせないためにも自らが去るべきだと思った。
「荷物……今度、全部取りに来るから少し待ってもらえるか」
「新しい部屋が決まるまでいてもいいよ」
「いや、せめてけじめをつけさせてくれ」
元々はこの部屋は彼女が住んでいた部屋だ。同棲するときに睦月がここに引っ越してきた。
何日か分の着替えをスーツケースに詰め込み、部屋を出るまでそんなに時間はかからなかった。荷物をまとめている間、彼女は何も言わずにテレビを点けてバラエティ番組を難しい顔をして見ていた。
「じゃあ、また今度、取りに来るとき連絡する」
「うん、わかった」
テレビから顔を背けることなく彼女は平気な声で返事をした。
「……さやか、今まで……」
「それは、荷物を取りに来たときに言って」
「ああ……そうだな」
背中を向けて、それ以上何も言わずに外に出た。テレビからは笑い声が聞こえている。
何処に行けばいいのかわからないまま、ただ夜の道を歩いた。当てもなく歩いた。
長く付き合った彼女との別れだというのに、涙は一滴も溢れてこなかった。
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