11 / 15

第11話

 松田の家での生活は思いのほか快適だった。  松田は何も訊いてはこない。けれど、いつでも話を訊くつもりでいるらしく小さな冷蔵庫には毎日二本ずつビールの缶が増えていた。酒でも飲まないと話しづらいのだろ思われているのだろう。そういう細かな心遣いが、彼女と別れたばかりの睦月には沁みた。  結婚も考えていたのだ。彼女となら温かい家庭というものを築けると。弟たちのように元気な子供もいて、普通だけれど笑顔の絶えない家族を。  だけど今は、そう考えていたことが信じられないくらい何にもない。  少ない荷物からスーツを取り出して着て、適当に入れたネクタイ数本を毎日変えて、松田と一緒に出勤する。松田は段ボールの中から新しい下着や靴下を出して身につけ、高そうなスーツを着こなす。ネクタイはどこかのブランドのものだ。  松田の家で寝泊まりしていることを誰かに話すこともなく、松田も誰かに言ったりしない。仕事にプライベートを持ち込むこともない。もっと他人のプライベートにずけずけと入ってくる性格かと勘違いしていた。彼は華やかな見た目とは違い、他人に対しての距離感が絶妙なのだ。最初は苦手だと思っていたのに、気が付くと真綿に包まれて心を許してしまっている。  彼女とのことも尾を引くことなく過ごせているのは、松田が傍にいてくれるからだ。  もう引き返せない気がしている。この心地の良い場所から離れることを。  そして、出来ることなら自分も彼の安息の場所になりたいと思ってしまっていることを。 「松田さんはどうして加賀美さんを好きなんですか」  小さな冷蔵庫からビールを二本取り出して、風呂上がりの松田に手渡す。 「唐突すぎるよ、清沢くん」  苦笑いしてビールを受け取ると缶を開けて一口飲むと、溜め息をついた。 「きっかけは、もうなんだったか覚えてないよ。ただ、好きだって気持ちだけがずっと残ってて、オレはきっとこの先も他に誰か好きな人が出来ても一番は加賀美さんなんだって思ってる」 「他に好きな人が出来ても、ですか」  それは次に付き合うかもしれない相手に失礼ではないのか。どれだけ愛しても一番になれないなんて。 「もう加賀美さんに対する気持ちがね、オレの一部になっちゃってんの。だから、もし次に誰かを好きになっても加賀美さんを好きだった気持ちはずっと残ってると思う」  松田の思いの深さに堪らずビールを一気に飲んだ。苦い味が口いっぱいに広がる。それは心が感じた苦さ。 「そういうの、理解してもらおうとは思ってないけど……それがオレだから、次に好きになる人にはありのままのオレで恋愛したいなぁ」 「ありのままの……」  彼女とはどうだっただろう。ありのままで向き合えていただろうか。  都合の悪いことは見ないふりをしたまま、真面目に生きていればきっと良い方向に進むと信じて過ごしていた。結果、彼女は自分との未来をとっくに諦めてしまっていた。 「俺はきっと怠けていたんです。彼女は何でも理解してくれていると思い込んであぐらをかいていた。彼女はわかっていたんです、俺がもう彼女を好きではないことに」 「女の人は鋭いからね、そういうとこ」 「ホントに……気付かされました。彼女は俺の惰性を許さずあえて突き放してくれた。だから俺は……」  大切にしなければいけない。次に愛する誰かを、誰よりも。  そしてその相手はもう、すぐそこにいると。 「恋愛って難しいよね、ちっとも自分の思い通りにはいかない。だからこそ余計、相手を愛おしく思える。優しくなれる」  泣きそうになった。  あなたはどうしてそんなに辛い恋を選んで優しくなれるのだ。荒れすさんで妬んで憎んで、恨めしく思ったっておかしくないのに。 「ああ……そうか……」  どうしてこんなに松田に心を持って行かれるのか、その理由がわかった気がする。  立ち上がって松田の前に座ると、ビールを一気に飲み干して缶を置いた。松田が何事かと不思議そうな顔で首を傾げる。

ともだちにシェアしよう!