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第4話
グルグルと回る混沌とした世界の中に、眩しい光が見えた気がした。
その途端、柔らかい温もりが唇に触れる。
それはジワジワと…でも確実に俺の中の何かを正常に戻していく。
全身に纏わりついてたドロついた物はいつの間にかその拘束力を失くし、重たくて仕方なかった瞼が自然と持ち上がった。
「気が付いた? 具合はどう?」
視界に突然入って来た“美しいモノ”に目が眩む。何故俺の部屋に? とか、未だ不完全ではあるものの、あれ程辛かった体の不調が薄れている事とか…兎に角色んな謎が一気に俺を襲いパニックになる。
だがそんな事を気にもしない“美しいモノ”は、パニくる俺を無視して軽々と俺の体を持ち上げた。
「栗、原さ…なん、で?」
「電話してきたでしょう」
「え…? でも…」
「もう良いから黙って」
何も持っていないみたいに楽々と歩くそのスピードに驚きながらも大人しくしていると、俺は風呂場へと連れて行かれた。
いつの間に準備したのか、普段殆んど使わないバスタブに湯が張られている。
「悪いけど服のまま入れるよ」
栗原さんは返事を待つことなく、俺の体を張られた湯の中にゆっくりと沈めた。
「ぁ…」
「熱くない?」
「だい…じょうぶ、です」
普通よりも随分と温めに設定してあるのだろうそのお湯は、しかし冷え切った俺の体には丁度いい。俺の体の事を考えられたその熱過ぎず、冷た過ぎずの温度がやけに優しく感じた。思わずまた、目から涙が落ちる。
「…こっち向いて」
俯き下がった俺の顎を栗原さんの指が掬い上げる。そしてそのまま、俺は彼に唇を重ねられた。
いつもの様な、抵抗する俺を押さえつける触れ合いではなく、幼い子供を諭すような触れ合いを何度か繰り返した。そしてやがて、ゆっくりと割り開かれた隙間から栗原さんの舌が入り込む。
「んっ……ぁ…ん、は、ん…んっ」
とろり、とろりと注ぎ込まれるその液体を嚥下する度に、またあの感覚が全身を覆う。腐食しかけていた体が、奥深くから浄化されていくあの感覚だ。
しかしそれよりも、いつもと違う舌の絡められ方に背中がゾクゾクと痺れ、俺は思わず栗原さんの手に自身の手を重ね縋り付いた。
「はっ、あっ…ん! んっ…んふっ、ふっ」
手は振りはらわれることなく重なったまま、栗原さんのもう片方の手で頬と首筋を固定され更に侵入が深まった。
(なに、コレ…)
僅かに残っていた頭痛や吐き気はあっという間に去って、ただ気持ち良さだけが残る。
頭の中は酸欠みたいにクラクラして、快楽に近いそれがまた俺の意識を持って行きかけた。でも、
「ンはっ!」
その重なりは突然解除されてしまった。直ぐに切り替えられない俺は、とろみの付いた瞳で栗原さんを見上げる。栗原さんも、俺をジッと見下ろしていた。
だがその表情は何を示しているのか分からない、いつも通りの無表情だ。
「はっ…はっ…、?」
栗原さんは息を整えようとする俺の目の下と頬を一度だけするりと撫でると、固定していた両手を顔から外し俺の脇の下へ移動させた。
「もう良いね。これ以上は湯がぬるいから風邪をひく」
ザバッと湯から持ち上げられた体は再び簡単に浴室から連れ出された。
そしてびしょ濡れの服を栗原さんに脱がされそうになって漸く、俺は普段通りの叫び声を上げた。
「じぶっ! 自分で脱げるからぁあっ!!!」
「勝手に借りたよ」
着替えて脱衣所から戻ると、栗原さんが湯を沸かしてお茶を淹れてくれていた。
唯一ある小さな折りたたみテーブルの上に、ほかほかと湯気のたった湯呑みが一つ乗せられる。
「……あの」
「ん?」
時計を見れば、その針は午前三時を指していた。
俺がバイト先を出たのが大体一時くらいだったとして、彼の携帯に着信を入れたのもそのくらいの時間だ。
栗原さんが近くに住んでいるのなら、俺の着信に気付き様子を見に来たと言われても納得が行くが、夜中も夜中、その上彼の家は県外にある。片道1時間以上は余裕でかかるはずだった。
「あの、何で来てくれたんですか? 家、遠いのに」
しかも、いつも俺の態度は酷いのに。
バツ悪くて俯き加減に問うと、それを見ていた栗原さんが小さく息を吐いた。
「キミが俺に連絡をすること自体が非常事態だろ?」
「うっ、」
「それに、ちょっと気になってたから」
「え?」
栗原さんの視線が真っ直ぐ俺を貫いた。
「第六感、目覚めてるんだろ?」
「あんな聞き方すれば、バレバレですよね」
「まぁね」
ふっ、と笑う栗原さんの前で、俺は服の裾をギュッと握る。
「少し前から、人の心の声がが聞こえます」
「…………」
「嘘だろって思うかもしれないけど、聞こえるんです。近くに居れば居る程、しっかりと。まるで普通に話しかけられてるみたいに」
そうして聞こえる知り合いの声はどれも、大抵が俺を罵る言葉だった。
「つい最近治してもらったばかりなのに、俺…今日具合が悪くて。慣れるだけだって思ってた事が、今日は耐えらんなくて…」
裾を握る手に更に力を入れた。
誰にだって本音と建前がある事くらい分かってる。だから辛くても少しずつでも慣れていくつもりだった。
ずっと俺の支えだった店長が居てくれれば、何とかやっていけると思っていたのだ。でも、どうしようもなくなってしまった。
大好きだった、信頼していたその店長が、まさか俺を心では罵っていたなんて…絶対に知りたくないことだった。
俺がぐす、っと鼻をすすると、栗原さんが「それ」とポツリ言葉を零す。
「それ、第六感に目覚めた人間の特徴なんだよ」
「…?」
「目覚めた第六感に振り回されて、情緒が不安定になる。不安定になった感情はやがて暴走して、普段以上に精神を病むんだ」
だから数日前の治療の効力がもう、切れてしまっている。
「近々そうなるんじゃないかと思っていたから、キミからの連絡には一応用心していた」
「……それは、経験からですか? 今までの、ガイドとしての」
栗原さんを見ると、そこで初めて彼は瞳の奥を揺らめかせた。見たことの無いその表情に俺は息を呑む。
これは聞いてはいけない部分なんだと、俺の本能が察知した。けれど…
「恋人がセンチネルだったんだ」
俺が質問を取り消そうとしたその直前に、栗原さんはその重くなった口を開く。
「結婚の約束をしてた。彼女が大学を卒業したら式を挙げる予定だった。でも、卒業する半年前になって……彼女はセンチネルに覚醒した」
栗原さんの瞳の奥が仄暗い闇に囚われていく。
物語の行く末に明るい未来など無い事が聞かずとも分かってしまい、俺はそれを聞きたく無いと思った。なのに、俺の第六感は“聞け”と訴える。
それに…
相変わらず栗原さんの心の声は聞こえやしないのに、何故か俺は、彼に『ここから助け出してくれ』と、そう言われた気がしたのだ…。
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