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第5話

SIDE:栗原啓 『センチネルだって、言われたの…』  真っ白で消毒臭い部屋の中で、別世界が急激に目の前に広がった。  それは想像以上に俺の世界を酷く歪め、深い谷底へと落としていった。  ◇  ガイドとして活動を始めたのは、彼女のセンチネル化が発端だった。 『啓くんに触って貰うと楽になるの』  そう言った彼女の言葉から、俺は初めて自分がガイドだったと知ったのだ。病院側にはあまり相性が良くないと診断を受けていたが、既に恋人関係にあった俺たちはその関係を優先させた。 “相性が悪い”  その言葉の重さを、あの時の俺はそれ程深く考えていなかった。  確かに彼女の回復は遅かったが、手を握り、キスを交わし、深く繋がることで彼女は確かに癒されていたのだ。愛する人を自身の手で癒せることに逆上せていたのかもしれない。  だが、その甘い認識が悲劇を生んだ。  彼女のセンチネルの症状が、酷く悪化したのだ。 『俺の治療が原因って事ですか…?』  以前と同じ様に、彼女は真っ白な部屋で眠っていた。だが、その顔色は以前よりも明らかに悪く、誰が見ても一刻を争うことが伺い知れた。  彼女の担当医である冷たい男はショックを受けて立ち竦む俺に向かって、“相性の悪い相手との治療が症状悪化の原因である”と簡単に言ってのけた。  幾らまだ未解決な問題が多いとは言え、なんたる仕打ちだろうか。  愛する人を癒すために行ってきた行為が、まさか、その愛する人をもっと苦しめる羽目になるだなんて…。  そして彼は無機質な声で更に追い討ちとなる言葉を告げる。 “新しいガイドが直ぐに来る” “彼女はもう、ファーストでは癒せない” “キミに出来ることはもう残されていない”…と。  俺の目の前は、一瞬にして真っ黒に塗りつぶされた。 『啓くん、ごめんね』  毎回治療に向かう彼女が俺に謝る、その瞬間が苦痛で仕方なかった。  どうしようもないことだと分かってる。だが、治療とは言え恋人が別の男とキスを交わすことに抵抗を覚えるなと言う方が無理な話なのだ。だからと言って治療を止めろだなんて言える訳がない。 “大丈夫、気にしなくて良いよ”  ただその一言しか選ぶ言葉が無い。  退路を塞がれながらニッコリと笑って、何でもない風を装うがその度に心が軋んだ音を立てる。 【治療の相性が良いセンチネルとガイドは、人間的に相性が良い為惹かれあう事が多い】  ネットで見つけてしまったこの一言が、俺の心をどんどん蝕んでいく。  自分のドス黒い感情を抑えるのに必死だった。少しでも気を抜けば、彼女を汚い言葉で罵ってしまいそうだった。 『好意を寄せ始めているのではないか』 『治療を待ち望んでいるのではないか』 『もう俺など必要無いのではないか』  そんな酷い言葉が飛び出しそうだった。  自分のことで必死な俺は、すっかり忘れてしまっていた。  誰が一番辛いのか、ってことを。  俺か? ガイドか?  いいや違う。  そんなことは冷静に考えれば分かる事だった。  結婚を控えた人間が、愛してもいない相手から施しを…それも異性に、身体的に触れ合う施しを受けなくてはならない。それがどれ程彼女に苦痛を与えていたのか。  そんな簡単な事を忘れるだなんて有り得ないことだ。  そんな大事なことを忘れるだなんて、有り得ないことだ。  だがその時の俺は、きっと正気ではなかった。  知らない男に無断で恋人を触られている嫌悪感。  不可抗力とは言え、それを受け入れに赴く恋人への嫌悪感。  そんなものに呑み込まれた俺は、“大丈夫”と告げるたびに彼女が悲しそうな顔を見せていることにも、治療へ向かう際に「ごめんね」と告げなくなった彼女の変化にも気付かなかった。  笑ってさえいれば隠せると、この黒いモノを無かったことに出来ると思っていた。  けれど今思えば、彼女はきっと俺の心の中に気付いていた。いや、聞こえてしまっていたのではないかと思う。そう…第六感の力で。  だが、俺はそれに気付かない。  そうして愚かな俺は、取り返しのつかない道を彼女に進ませる。  治療を開始して大凡三ヶ月後。  二度と戻ることの出来ぬ場所へと、彼女を向かわせてしまうことになったのだ。  全てを告げた俺の目の前で、青年が顔を悲しげに歪めた。  それを見て俺はホッとする。  どこか全てに見切りをつけてしまったようなこの青年にも、悲しみを感じる心がまだ残っているのだと、そう思った。  初めて会った時は“苦しげに喘いでいる青年”としか認識がなく、二度目に会った時は彼の持つ雰囲気が酷く卑屈そうに見えた。  同性が好きらしいと言うことに嫌悪を持つことは無かったが、興味を持つことも無かった。  俺はただ“緊急だ”と言われたから受け入れただけであり、落ち着いた頃には別のガイドに変わって貰うつもりでいた。データでは確かに相性が良いようだが、その数値に近い人間は他にも居るだろう。もう俺は、ガイドとして本格的な活動をする気は無かった。  なのに、何故だろう。 『ねぇ、栗原さんは第六感とか信じる?』  何度目かに会った彼がそう言った途端、恐ろしい程の危機感を覚えた。“彼から目を離しては行けない”と本能がそう訴えてきたのだ。  その感覚は彼女に抱いていたモノよりもずっと、顕著に俺の奥深くを揺さぶった。過去に見たセンチネルとガイドの不思議な繋がり、そして相性の話をふと思い出す。 【治療の相性が良いセンチネルとガイドは、人間的に相性が良い為惹かれあう事が多い】  あの時あれ程俺の心を蝕んだその言葉が、驚くことに俺と彼との繋がりにしっくりと馴染もうとしてきている。 (あぁ、相性とはこういう事を言うのか…)  それは妙に納得の出来る感覚だった。途端、あれ以来冷え切ってしまっていたはずの己の感情が熱を持つ。 『死んだ方が楽だったりして』  そうしてその言葉に、一気に俺の中の何かが弾け飛んだ。 『君が来ないなら行くまでだ』  誰かに押し付けるつもりだったこの立場を、ギュッと手放さないよう握り締める。  彼が俺に対して反発するのは当たり前だった。優しさの欠片もない治療をしてきた自覚がある。だから、今更俺が何を言っても彼は信じないかもしれない。馬鹿じゃないかと笑うかもしれない。  それでも、どうしようもなく思ってしまったのだ。 【助けてやりたい】  笑われたって良い。信じてくれなくても良い。  諦めたいのに諦めきれない何かを持ってる、卑屈そうなキミを、どうしても俺は… 「狂わせたりしない。キミだけは、絶対に」  玄関で倒れていた時より格段に血色の良くなった頬に手を当てれば、驚いたのか彼は目を見開いた。  そんな彼の瞳の中には、幾分か綻んだ俺の顔が映っていた。

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