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第2話
兄に一泡吹かせてやりたいと思った。
そう、確かにそう思って部屋を出たのだ。なのに何故、俺が固まらなきゃならない?
「何しに出てきた! 部屋に篭っていろと言っただろう!?」
普段よりも大きな罵声を浴びせる兄の声も、今の俺には遠く感じる。
俺の全身はまるで凍りついたように固まって動かず、呼吸すらままならなくなっていた。
「おいっ! 聞いてるのか!!」
兄に腕を掴まれ、思わず反射でヒュっと息を呑む。
顔に唾を飛ばす勢いで怒鳴る兄の声を、それでも遠く感じながら俺は…そんな兄の少し後ろでこちらを見ている男を見ていた。
「なん…で…」
そう呟いたのが分かったのか、その瞬間、男が楽しげに口端を上げたのが見えた。
◇
時計を見れば夕食の時間になろうとしていた。
「部屋から出るな」と兄から連絡が来たのが小一時間前で、兄のいつものパターンであればそろそろオメガを連れて帰宅する頃だった。
自慢のコックに料理を作らせ、酒を振る舞い、後は自身の部屋に連れ込みオメガをその気にさせるつもりなのだ。
そのパターンを知っている俺は、兄に一泡吹かせてやるつもりで意気揚々と部屋を出た。
最近のオメガはアルファの様にプライドが高く、特に兄が連れてくるオメガたちは自分の事を【極上のアルファを産み落とす金の鳥】だと思っている傾向が強い。
そんな彼らが、こんなにも平凡で美の欠片もない人間を創りだす血を受け継いだアルファの家系になど喜んで嫁ぐ訳が無い。
実際、俺の存在を理由に兄が振られた過去があったからこそ、兄は俺に部屋を出るなと忠告するようになったのだ。
平凡に生まれたからって、どうして蔑まれて生きなければならない?
この世の人間で一番数が多いのは『平凡の代名詞』とまで言われているベータだ。圧倒的に世の中には平凡が多いはずなのだ。なのに、何故俺は存在することを許されない?
アルファに生まれたからだと言われたらそれまでだが、俺だって好きで平凡なアルファに生まれた訳じゃない。
どうしてそれを分かってくれないのだろう?
分からないのなら、その下らない理由で壊れてしまえばいい。
幸せになんてさせてやるもんか。
小賢しいだけかもしれないけど、俺が姿を見せることで壊すことが出来るのならこれからは何度だって邪魔をしてやる。
そう思って部屋を出たはずなのに、なんで、どうして……
俺は逃げるようにして自身の部屋に飛び込んだ。いや、実際逃げたのだ。あの、アルファの様なオメガの男【風見雅人】から。
何故風見がここに居たのか、なんて…そんなものは簡単な話で、兄が連れて来たからに違いない。
俺の兄は自他共に認める野心家で、非常に貪欲だ。
今まで数々のオメガをこの家へと連れ込んできたが、男性であっても女性であっても必ず優秀で綺麗で、アルファなら一度は抱きたいと言わしめたオメガ達ばかりだった。
兄はいつも自分の価値をどう上げて行くかを考えている。
もっと自分を高みに連れて行けるオメガは居ないのかと、常に品定めしているのだ。
そんな中、代々アルファが頂点へと君臨してきた学園で、腐っても一応は織部一族のアルファである俺を退かし、その地位を勝ち取ったオメガが現れた。
彼がまるでアルファの様に優秀で気高く、その上その見た目は美しくも非常に男らしい出で立ちであることから、兄の征服欲をより一層刺激したのだろう。
織部一族の顔にべっとりと着いた泥を落とす事を名目に、兄は自分のプライドと欲求を満たす為にそのオメガに近づいたのだ。
風見雅人と言う名の、オメガに。
「アイツが腰を抱かれて歩くタマかよ!」
乱れた呼吸を整える余裕も無いままに叫び、部屋の扉に背中を預けた。
後ろでオートロックがかかる。
その音を聞いてホッとした自分に嫌気が差した。
「情けない…」
落とした視線が自身の足元を捉える。
その距離はそれ程遠くなく、自分が如何に背が低いかを突き付けられた様で更に悔しさが増した。
百八十を優に超える兄の隣に並んでも引けを取らない風見の長身。もしかしたら兄よりも大きいかもしれない。
体格だって兄とそう変わらなかった。なよなよとした女性的な部分は欠片も見つけられず、アルファの子供を産む存在として生まれたようにはとても見えなかった。
靴だって、手入れの行き届いた大きな…大きな靴を履いていた。何とかギリギリ百六十を越えた自分の体には絶対に合わないような大きな靴を。
「なんで、どうしてアイツが来るんだよ…」
出来ればもう、本物には会いたくなかった。
生徒会長の座を攫われただけじゃない。その出来すぎた存在の全てが俺を否定しているようで、とても見ていられなかった。
今頃は兄が夕食を持て成している頃だろうか。
いつも通り上手くいったら、風見は兄に抱かれるのだろうか。
そしてもしも、兄が風見に入れ込んだとしたら風見は……そこまで考えて俺は頭を振った。
扉から離れ慌てて内線をかけると、今夜の夕食を辞退する。それを拒否してしまえばもう、朝食まで俺の部屋には誰も近づかない。
もう何も考えたくない。さっさとシャワーを浴びて眠ってしまおう。きっと昼ごろまで部屋に閉じこもっていれば、風見も姿を消すだろう。
そう、思っていたのに…
――――コンコン
真夜中に鳴らされる扉。
恐る恐るそれを開ければ、そこには…
「ッ、」
俺を奈落の底へと突き落とした男、風見雅人が立っていた。
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