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第9話 quiet room
結局二人はドラッグストアに寄ることもなくホテルに向かっていた。
ふわふわとした気持ちに泥水を掛けられたようないやな気分を噛みしめながら、天羽はぐるぐると考えていた。
訳の分からないことを言われただけ。変な知り合いがいるもんだ、と思われるくらいですむはずだ。
熊谷に慶太と自分の関係が分かるはずがない。
そう自分に言い聞かせたけれど、不安は拭えなかった。さっきの出来事で酔いはとうに覚めていた。
熊谷は何も聞いてこない。ずっと黙ったままだ。沈黙が重たい。
気まずい空気のまま横並びに大阪の街を歩いて行く。関東とは違う、リズムのあるイントネーションが喧騒を偶然の音楽に変えている。ふらふらと楽し気に歩く人波を通り抜けてゆく。ぶつからないようにさり気なく自分を誘導してくれるのに、熊谷は始終苦虫を噛みつぶしたような表情だった。
ようやく宿泊先のビジネスホテルが見えてきて、天羽はほっとした。
去り際、慶太は熊谷に何を言ったのだろうか。職場の人間に余計なことをふきこまれたくはない。なにより、熊谷に変な誤解をされるのは嫌だった。
自動ドアが開くと、遅い時間なのにロビーにはちらほらと客がいた。フロントは表面を芝と花で覆われた飾り壁の裏側にあった。利用客が外から見えないようにしているのかもしれない。ビジネスホテルの中では比較的金のかかった作りだと、天羽は変なところで感心していた。
床もやたらとつるつるしている。酔っていたら転びそうだと慎重に歩く天羽の脇を抜けて、熊谷は迷いなく大股で歩いて行く。慌てて追いかけると、フロントで翌朝の朝食券を受け取っていた。
ホテルに荷物を預けて展示会に行った天羽は、チェックインしようとフロントに近寄ろうとしたけれど、熊谷がちらりと振り返り手の中にある二部屋分のキーを見せた。朝食券と合わせて受け取ってくれたのだろう。それでも、一言も口をきく気配はなかった。
ブーンという不快なモーター音を感じるエレベーターを降り、隣り合わせに取られた部屋に向かった。
久しぶりに一日中立ってすごしたので身体がくたくただ。その上最後の最後にまた慶太に会ったことで、精神的にもどっと疲れを感じていた。早くシャワーを浴びて寝よう。明日の新幹線は自由席だから、熊谷とはバラバラで帰ることになるだろう。そう思いながらぼんやり歩いていると、すぐ前を歩く熊谷が扉の前で立ち止まった。
薄暗い廊下でカードキーの向きを確認している。天羽が俯きながら脱力すると、身体が傾いて額が熊谷の肩に触れた。慌てて身体を立て直そうとすると優しい声がした。
「いいですよ凭れても。天羽さん、お疲れでしょ?」
「......はい」
ほっとしてそのまま肩に頭を凭れさせた。広い背中だ。三日連続の立ち仕事だったのに、疲れた気配もない。後ろから腕を回して、身体ごと体重を預けたい。体温を感じたい。
そんな風に誰かに寄りかかりたいと思うのは、疲れているからだろうか。
解錠音と同時に、天羽は身体を起こした。前から小さく息を吐く音が聞こえた。熊谷は半歩進んで扉を開いたけれど、中に入る気配はない。
「熊谷さん、三日間お疲れ様でした......あの、僕のキーをくれませんか」
そう言ったのに、熊谷は壁際に身体を寄せて入口を開けただけだ。中にある鞄を見た天羽は、ようやくそこが自分の部屋であることに気が付いた。
促されるまま中に入ると、熊谷は逡巡するようにそのまま立っていた。廊下の照明を背にした表情は見えない。不思議な圧だけがある。外とは違い、人の気配のないこのフロアは凄く静かだ。何か言わなければ。口を開こうとした所で、ゆっくりと腕が伸びてきた。触られるかと思い、身体が緊張する。警戒と、根拠のない期待が入り混じり、心臓を走らせる。
熊谷の手は壁際に向かい、カードキーがスロットに差し込まれる。ぱっと照明が灯り急に視界が明るくなった。熊谷はまっすぐに天羽を見ていた。絡みつく視線が身体の表面の温度を上げてゆく。
沈黙が怖い。否、沈黙に負けて余計なことを言ってしまいそうで、怖い。黙って見つめられているだけで、身体の奥にともる火を意識してしまって、怖い。
僕たちは会社の同僚で、ここは出張先のビジネスホテルだ。間違えてはいけない。
「お疲れ様でした、おやすみなさい」
思ったよりずっと自然に伝えることができた自分を褒めてあげたかった。なのにどうして熊谷はそのまま部屋の中に入ってくるのだろう。まるで現実感が湧かない目の前の光景を見ていた。
面積のほとんどがベッドで埋まっている部屋に、背の高い男が二人。ビジネスホテル特有の狭さを際だって見える。熊谷は後ろ手にドアを閉め、天羽に向かって真正面から近づいて来た。気圧されるように後ろに歩いてゆくと、数歩でベッドにたどり着く。熊谷の視線に誘導されるように、天羽はベッドに腰掛けた。眉根を寄せて、自分を見下ろしている瞳からは何の感情も読みとれない。
口を開いたらいけない。余計なことを言わないよう、我慢して待った。
どのくらいたったのだろう。長い脚を曲げて、熊谷は跪いた。天羽の膝のすぐそばだ、距離が近い。混乱はそのまま心臓に直結して激しく気持ちをかき乱す。
視線を合わせることなく、骨太な手が片足ずつ靴を脱がしてゆく。
何をしたいのだろうか? 立ちっぱなしだった自分の世話を焼いているのなら、一言声をかけてくれてもいいだろう。
しかしその手が自分の膝にのった瞬間、そんな寝ぼけた想像は霧散した。
膝を割るでもなくただ静かにおかれた手。動かないからこそ、その行き先を意識してしまう。
ふっと熊谷が顔を上げた。手と熊谷の顔を交互に見ながら意味を考える。柔らかく微笑んでいるのに、熊谷の視線は熱い。
「まさかと思うけど、酔ってるんですか、熊谷さん」
茶化して笑いごとにしたいのに、声が震えてしまう。
熊谷は何も答えてくれなかった。喋らなくていい、と目が訴えているような気がした。膝に置かれた掌からじわりと伝わる体温が、相手の肉体の存在を嫌でも意識させてくる。
スラックスの布を掴みあげるように皺が寄った。そのまま、大きな手が膝から上ににじり上がってゆく。じわじわと壁際に追い詰めるように、性的な予兆を呼び起こされそうだった。
自分を見上げている熊谷から、目が離せなかった。くっ、と喉を上下させると、更に笑みが深くなる。内腿の付け根にたどり着いた指に力が込められた。
「......何の冗談ですか、これ?」
天羽は笑顔を作ろうとした。冗談にしなければと必死で絞り出した声は上ずっていた。熊谷は自分の内腿を凝視している。布を透かして見られているような気分だ。
慶太と違い、立ち上がって手を振り払い「帰れ」と言えば熊谷は出て行くだろう。なのに、天羽は動けない。熊谷の人差し指が内腿に押し当てられ、ゆっくりと円を描いた。その感触が腰の奥深くにぐっと伝わってきた。
「ここですよね。ここに痕がついていた」
低い声でそうつぶやいた熊谷の指が膝に戻った。視線が上がってくる。さっき触れられたのは、慶太に噛まれた場所だった。頬が熱くなる。
やはり見られていたのだ。あんな場所だし、お風呂に入ったときにしか見えないはずだからと思っていたのに。いっぺんに頭に血が上る。心臓が内側から身体を叩くように大きく打っている。
「......確認、したいんです」
熊谷は天羽の返事を待たずに続けた。
「可能性あるのかな、って。......どちらも男だからって否定してきたんだけど、でもどうしても腑に落ちないことがあるんです。答えてくれませんか。この痕は、さっきの古橋さんが付けたんですか?」
はっとして、答えを待つ相手を見た。まっすぐな視線に負けそうになる。
「俺、あの人に似てますか? だから気を許してくれたんですか?」
「それは......違います。最初は似てると思ったけど、全然違います」
似ている、そう思ったことがあるは事実だ。でも似てなんかいない。どう説明すれば分かってもらえるのか。熊谷は、違う。違うからこそ踏み込んではいけない。いけない、と思っていたのに、どうしてこんなにたやすく壁を破って自分の前に来てしまうのだろう。
「もう、その話はしないでください。古橋は古橋、熊谷さんとは違います」
黒々とした熊谷の瞳が、どう猛な光を帯びた。どうしてそんなに怒っているのか分からない。
「そうですね、俺はようやく肩に凭れてもらえるようになっただけの......同僚ですし」
「熊谷さんは何か勘ち......」
言い返そうと開いた口は、言葉をつづけることができなかった。しゃがんだまま身体を浮かせた熊谷に、唇を塞がれていた。何が起こったのか理解する間もなく、立ち上がる熊谷が天羽を下から抱え上げるように持ち上げて、ベッドに仰向けにのせた。そのままルームライトの光を遮って覆い被さってきた。
「似てませんよね、あんな......内腿に噛み痕を残させるくらい心を許した男なんかに、似てるわけありません!」
「なっ、」
髪に指を通して頭を押さえつけられた。何度も角度を変えて唇が重ねられる。頭を動かせないように囲い込んだくせに、優しいキスだった。そっと上唇を吸われて思わず口元を緩めると、熊谷の舌がするりと口の中に入ってきた。歯列をなぞり、ためらう舌を絡め取り、咥内を味わってゆく。頭の芯まで痺れるような誘惑に、押し返そうとする手に力が入らなかった。どのみち天羽に熊谷を押し返す力などない。
熊谷の手がスラックスにたくし込まれていたシャツを引きずり出してゆく。窮屈な上衣をたくし上げられて肌が露わになると、身体の奥で粘度の高い欲望がふつふつと沸き立つ。脇腹から胸元に向かって撫でてゆく大きな掌がそれを煽っている。そこから先にされることを想像しただけで興奮が高まる。それでも、天羽はなけなしの理性を働かせて抵抗した。
「や、まっ......て、くま......がや、さんっ」
懸命に体をよじり、腕で熊谷の顔を押し離す。あまりの必死さに熊谷も動きを止めて天羽を見下ろした。
白い光の下で、熊谷が自分の身体をじっと見ている。荒かった息が少しずつ整ってゆくにつれ、熊谷は目を閉じてちいさく「すいません」とつぶやいた。
それを聞いた途端、頭に冷や水を浴びせられたような気分になった。
ああ、何をさせているんだ。熊谷は、同僚で、自分よりずっと若くて、しかも前途有望な人だ。
こんなことをしているのは、男と試してみたかったのか、ちょっと興味があっただけなのか、酔った勢いなのか。理由は分からないけれど、さみしさに流されて受け入れていい相手ではない。
片腕で顔を隠し、もう一方の手でシャツを引き下ろした。
本当はもう何でもいいから、このまま抱かれたい。自分にまっすぐに甘えてくるこの男が、泣きたくなるくらい好きだ。心も身体もそう叫んでいた。でも同僚で年下でノンケ。こちらの気持ちをさらけ出しても、熊谷は恋愛のつもりすらないかもしれない。
だからって一回限りの気まぐれに付き合って、素知らぬふりができるような心の余裕はない。
打算的だと分かっていても、こんなに自分に不利な恋愛に飛び込んでゆけるほど無邪気ではいられない。
天羽の中に解きようのない相反する気持ちが渦巻いていた。それでも、わずかなプライドで気持ちを押し殺し、涙で滲む視界の中の熊谷に言った。
「お察しの通り僕はゲイだけど、熊谷さんはゲイでも何でもないんだろ? 男とやってみたいからって興味本位で手を出されるのは不愉快なんだよ。馬鹿にしないで欲しい。ヤリたいんなら金払って風俗でも何でも行けよ!」
自分の中の葛藤を振りきるために、思いがけず大きな声を張り上げていた。
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