2 / 6
第2話
「ーーーですから、相手方のニーズにそって、自社の強みのアピールを的確にする必要があります。具体的には…」
広い会議室には100人前後の社員が座り、スクリーン前に立っている伏見を見つめていた。
視聴しているのは主に西日本に拠点を置く営業マンであり、年齢層は30代を中心に幅広い。御影のチームのサブリーダーに就いてからは、実績が派手なせいもあり、地方の営業課からの依頼で30人前後の前で講習を行うことはあったが、さすがにこの規模は初めてだ。
マイクを片手に、まるで講師にでもなったようで最初こそ少しそわそわしたが、そんな気分は数分も経てば霧散した。元々、滅多なことでは緊張しないタイプなのだ。だから人前で講義すること自体は問題なかったが……
『今回の大阪出張、本当に僕が行くんですか?』
ビアガーデンで飲んだ翌週、伏見はもう一度御影に同じ質問をしていた。
何を今さらと言いたげな御影の視線が刺さる。
『当たり前だ。いつもそうしているだろ。それに関西はお前の出身部署だ。何の問題がある?』
『いや、でも今回は人数も多いですし…』
人数というのは、もちろん講習の規模のことだ。ただ研修を受けるだけなら、伏見にとっても何も問題ない。だが受けるのではなく、講義をする方なら話は別だ。同期や知り合いが多く来る出張ではとにかく目立ちたくなかった。
『なんだ。今回はやけに反抗的だな。何かあるのか?俺を納得させられるだけの理由があるなら聞いてやる』
食い下がった伏見だったが、御影に探るような視線を向けられて、顔を引きつらせた。
正当な理由などあるわけがない。あるのは目立ちたくないという正当とは程遠いしょうもない理由だけなのだから。
『ないなら、大人しくこのアジェンダに目を通しとけ。資料を作り終えるまでは他の仕事の負担は減らしてやるから』
そうして渡されたアジェンダの午後最終の部を見て、伏見は口を思いっきりへの字に曲げ、そして盛大にため息をついた。
“実績No.1チームから学ぶ、成功事例 伏見椋”
なんだ、このCMの口説き文句のような見出しは。これでは出張へ行く前から確実に目立ってしまうだろう。しかし、アジェンダを睨むように見続けても、印字された文字が変わるはずもなく、伏見は今度こそ本当に諦めて、しぶしぶパソコンを立ち上げた。
「競合優位性について、わが社はーーー」
講習を手順通りに進めながら、会議室全体を見渡すと、関西支社で同じチームだった仁科美香と目が合った。
気づいた美香は会議中にもかかわらずウインクしながら手をヒラヒラと振ってきた。
そして、その隣に視線を移せば、営業課で同期の業平貴史が額に青筋を立てながら、そんな美香とこちらを交互に見ているのが見えて、伏見はため息をついた。
(面倒臭いのを見つけてしまったな…)
もしかしたら、この講習にも来ていないかもしれないという淡い期待はたった今掻き消えて、伏見は心の中で頭をかきむしった。
*
「椋~!久しぶり!」
講習終了後、すぐさま大声で名前を呼ばれて、伏見はギクッと身体を固くした。話しかけられる前に退散しようとしたがどうやら無駄だったらしい。
「仁科さん…こういう場では苗字で呼んでくれませんかね?」
「無理。だって、嫌がらせだもの」
きっぱりと言った美香を見て、伏見は思わず苦笑した。
「ほんっと、別れてからいい性格になったよな。付き合ってた時の猫かぶり様が懐かしい」
「あら、これくらい可愛いでしょう?私は椋と違って本気だったんだから、猫くらいかぶるわ」
「まるで俺が本気じゃなかったみたいに言うんだな」
「本当のことでしょ。椋の好きはいつも軽いのよ」
そう言えば先日も上司から同じことを言われたなと、伏見は思い返した。確かに“ラブの好き”は人よりも軽いかもしれないが、上司や仕事に対しての“ライクの好き”はそんなことはなく、寧ろ重いのかもしれないと頭の隅で思考する。上司のことは誰よりも尊敬しているのだ。
だが、どちらにしろ美香のいう“ラブの好き”が軽いことには異論がなかったので、黙って先を促した。
「でも東京では社内の女を漁るのは止めたらしいじゃない。どういう風の吹き回し?」
「社内で付き合うと後々面倒だからな。深い意味はねぇよ」
本当に深い意味はない。面倒事はごめんだし、自分のせいで上司に余計な迷惑もかけたくなかった。
「なーんだ。ついに本命ができたのかと思ったのに」
「ねぇよ」
「つまんなーい」
“本命”その言葉があまりにも自分とは無縁な気がして、伏見は苦笑した。恋人はすぐできるのだが、長続きしない。そのうちに付き合うという形すらもとらなくなってしまった。だから現在、伏見には恋人はおらず、いわゆるセックスフレンドが何人かいるだけだ。気楽がうりの軽い関係。年々、真面目な恋愛から遠ざかって行っている気がした。
歌詞や物語に出てくる熱い感情を胸に抱いたこともない。きっともう自分にはそういう人は現れないのかもしれないとすら思う。
「あ、今日時間ある?久しぶりに同期で集まろうってなってるけど」
美香から予定を聞かれたが、伏見は申し訳なさそうに首を横に振った。
「悪い。この後、部長たちとの飲み会に行かないとなんだ」
「それって、社長とかも来るやつじゃないの!?」
甲高い声を出され、思わず「しー!」と自身の口に人差し指をあてた。この手のことで騒がれるのは面倒事を呼ぶから好きではない。
「俺は一番下っぱだから、店員さん呼んだりとかのパシり要員だけどな。じゃあ、そういうことだから」
落ち着かせるように、なんでもないことのように返す。ここでうだうだ話していたら、困ったやつに絡まれる。そう思って、さっさと立ち去ろうとしたが、一足遅くその張本人に声をかけられた。
「いいご身分だな、本当に」
美香と共に視界に入った、営業課同期である業平の声が横から聞こえて、伏見は仕方なくそちらを見た。
「よう業平、久しぶり」
出た声は低くかった。当たり前だろう。こいつは関西支社にいたときから何かとつっかかってくる奴だった。成就しない美香への片想いも理由の一つなのだろうが、もうとっくに別れているのだし、そろそろ勘弁してほしい。
「相変わらずチャラチャラしやがって。名物チームリーダーの金魚のフンをやってるだけで評価してもらえるんだから、楽な仕事だよなぁ」
予想どおり過ぎる言葉を並べられて、伏見はやれやれと肩をすくめた。よくもまぁ、毎度毎度…。関西支社を離れて二年。少しは変わっているかとも考えたが、残念ながら成長はしていなかったらしい。このまま流しても良かったが、一応は返事をしておくかと、伏見は無感情のまま口を開いた。
「ああ、そうだな。俺はラッキーだよ。数字のことで上からとやかく言われることもない。それにしても金魚のフンってのは初めて聞いたな。番犬みたいだとはよく言われるんだけど」
「は、余裕ぶっこきやがって。うぜぇ」
歯をギリギリと鳴らしながら、睨まれる。業平の様子から今日は相当余裕がないらしいことが伺えた。やはり、同期のする講習を受けなければならないというのは、プライドの高い連中にとってはイライラするものだったらしい。
「そうだな。お前よりかは余裕だろうな。こっちは俺がいてた時よりも、本社と差がついてて大変だって聞いたぜ」
「てめぇ!」
挑発し過ぎただろうか。業平は今にも殴ってきそうなほど息を荒げていた。
「もう止めてよ!椋がウザいのはわかるけど、他の支社の人たちもいるんだから」
ウザいのはわかるのか、と突っ込みたくなったが、振り返った美香が真剣な表情をしているのに気がついて、口を閉じた。
「椋も、今から飲み会あるんでしょう?早く行った方がいいよ」
「ああ」
美香はサバサバした性格で歯に衣着せぬ物言いだが、根本のところで争いはあまり好まない性格なのだ。付き合ってる時もそれが居心地が良くて、何よりも楽だったことを思い出した。
今のうちに、離れよう。そう思って立ち去ろうとすれば、後ろからまた業平の声がした。
「おい、伏見。お前がべったりな上司様が何て言われてるか知ってるか?」
無視して出ていこうとしたが、慕っている上司のことを出されて自然と足が止まってしまった。
「顔で契約とってる尻軽営業マン。本当顔が綺麗なやつはそれだけで得だよな。もしかしたら顔だけじゃなく身体も使ってたり…」
言われた瞬間、全身に力が入り、血が沸騰した感覚に陥った。
「…れ」
発した言葉は、低く掠れて自分でも聞き取れないほどだった。
「は?」
「黙れ」
もう一度繰り返せば、業平がビクッと肩を揺らした。きっと、今自分はひどい形相をしているのだろう。こちらを見る業平の脅えた表情がそれを物語っていた。
「お前、今すぐここを辞めたいのか?」
人事でもないのに、そんな事を言えるのは、方法がなくはないと思っているからだ。何でもありになれば、勝つのはこちらだろう。横の繋がりも縦の繋がりも、カードを多く持っているのは自分の方なのだから。
「お、俺はあくまでも噂を言っただけで…」
すっかり怯んでおどおどした声。
「業平」
それにとどめを刺すように、低く名前を呼んだ。
「俺のことはなんと言ってもいいさ。さっきみたいに適当に相手してやる。…だけど、御影さんのことを言ったら許さない」
業平がもう何も言い返して来ないことを確認すると、伏見はようやく部屋を出た。額に汗が滲んでるのを拭いながら、らしくないことをしてしまったなと、少し反省する。相手を威嚇するなんてことは、十代で卒業したつもりだったのに、二十代後半にもなってこんな幼稚な喧嘩を買ってしまうとは思わなかった。
スマホのバイブが鳴って、画面を見れば美香からメッセージが届いていた。
『怖すぎ。顔戻してから飲み会行きなさいよ』
それを見て、張り詰めていた空気が少し溶けた気がした。なんだかんだ昔から優しいやつなのだ。『悪かった』とだけ送信すれば数秒で返事が返ってきた。
『でも、驚いた。椋も誰かの為に怒れるんだね』
そんなに怖かっただろうかと、思い返す。でも確かに自分でも驚いた。昔からこの図体のせいで余計な喧嘩をかったこともあったが、こんな風に怒りで身体が熱くなったのは初めてだ。業平がつっかかってくることは今に始まったことでもないのに…。
(御影さんのこと言われた途端、抑えられなくなった…)
これじゃあ本当に番犬だ。普段大人しくても、主人の敵だと認識した途端、誰が相手でも噛みつく狂暴な犬へと変貌してしまう。
いっそ、リードでも着けてもらっていた方が安心かもしれないと、無意識のうちに首を擦る。恋人に縛られるのが面倒ですぐに別れるような男が、首輪がほしいと思うなんて不可解な感情だ。
とりあえず心を追い付かせようと喫煙所へ入ると、タイミングを見計らったようにスマホが振動した。画面を見れば飼い主である上司から電話がかかってきており、目を丸くする。少し驚きつつも2コール目で出て、挨拶すれば、「お疲れ」と少し冷たさのあるいつもと同じ声が受話口から響いた。
「悪いな出張中に」
昨日も一緒にいたはずなのに、何だか久しぶりに声を聞いた気がする。本当に自分が犬だったなら、今は尻尾を振っているのだろうなと伏見は苦笑した。
「伏見?」
「いえ、すみません。大丈夫です。それでどうしたんですか?」
「ああ、それが…」
御影が話初めて一分も経たないところで、伏見は内容を理解した。元々出張中や休日には滅多に連絡をしてこない人なのだ。それなのにしてきたということは、緊急性の高いトラブルが発生したのではと思っていたが、やはりその通りだった。
端的に言えばクレームが発生したのだ。相手は元々伏見が担当を務めていた会社の社長。伏見が担当していたときは問題なかったのだが、先月から担当が変わり、そこでトラブルが発生したという。
「それで、社長が伏見を連れて来い。前担当である伏見としか話さないと言っていてな」
「そうなんですね。すみません、社長気難しい方なんでしっかり引き継ぎしたつもりだったんですが…甘かったですね」
「お前の責任じゃない。俺の采配ミスだ」
「社長はいつ時間取れるって言ってるんですか?」
「それが、明日の朝一と言われてな…」
そう言われて、マジかよと心の中で呟く。御影がわざわざ電話してきているということは、日程交渉はしたものの、聞き入れてもらえなかったということだろう。なかなかにご立腹のようだ。
「まったく、あの人は無茶苦茶言いますね。ま、でも仕方ないっすね。今日僕日帰りで帰ります。こっちの飲み会も早く終わると思うので一次会で帰らせてもらって…」
「あ、いやそういうつもりで電話したんじゃないんだ」
「え、そうなんですか?」
帰る算段をし始めたのを止められて、伏見は首を傾げた。
「こちらのメンバーで対処する」
「できるんですか?僕を連れてこいって言ってるんでしょう?あの社長女好きなんで、女の子は駄目ですよ」
明日、失敗すれば余計に大変になるであろう、温度感の高い話なだけに、伏見は不安になったが、御影もそれは当然理解しているようで「わかっている」と返された。
「俺と現担当で行こうと思ってる」
「え…?御影さんが?アポありましたよね?」
確かに、今の社長の状態だと伏見以外で抑えられるのは、御影だけだろう。だがある心配が過り、伏見は眉間に皺を寄せた。
「それは調整すればどうにか…」
「駄目です。やっぱり僕が行きます」
「俺じゃ力不足ってことか?」
「違いますよ。その逆です。御影さんはきっと気に入られると思います。恐らく次からも担当は御影さんにしろって言われるでしょう。でも問題はその後です。あの社長基本夜の接待のときはキャバクラ行くんですよ。御影さん苦手でしょ、そういう場所」
本当に女好きで美人には目がない人なのだ。伏見が気に入られたのもそこら辺の話についていくことができたからだろう。それに、最近では美男子にも興味があるらしいとの噂を耳にしてからは、絶対に御影とは会わせないと決めていたのだ。
“顔だけじゃなくて身体も…”という業平の言葉を思い出す。御影が身体を使って契約を取るなどあり得ない話だが、相手からそれを持ちかけられる可能性は十二分にあることなのだ。御影はうまくかわせるだろうが、体格から見て相手の方が力も強いだろう、万が一ということもある。それを想像しただけで、伏見は堪らなくなった。
「確かにキャバクラは嫌いだ…」
「でしょう?酒も俺の方が強いですし」
「でも、お前ばかりに負担が…」
「大丈夫ですって、俺キャバクラ大好きですし」
あと一押しだと、伏見がわざとそう言えば、
「このチャラ男が」
と、悪態をつかれてしまった。
業平にも言われた言葉。だけど、さっきとは違い伏見は顔に笑みを浮かべていた。
「そういう御影さんは、どうなんですか。女関係とか。…恋人とかいるんですか」
いつもなら、しない質問をしてみる。クレーム対応をさせるという負い目から、普段ならNGなことも今ならもしかしたら答えてくれるかもしれない。御影は案外そういうことを気にする上司なのだ。
「で、どうなんです?」
たたみかけるように、もう一度聞いてみる。なぜこんなにも気になってしまったのか自分でもわからなかった。
「特定のやつはいない」
「特定のやつは?…じゃあ、セフレはいるってことですか?」
「もういいだろ。それ以上は…切るぞ」
「あ、ちょっと、御影さん!?」
いきなり踏み込み過ぎてしまっただろうか。引き留めるように慌てて大声を出してみたものの、受話口から聞こえてきたのは、ツーツーというなんともつれない電子音で、伏見は諦めたように肩を落とした。
ともだちにシェアしよう!