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第3話
部長に事情を説明して一次会で抜けさせてもらい、新幹線を飛び乗ったのが終電一歩手前の21時前。会社についたのは23時30分を過ぎたころだった。
こんな時間だし、自宅に直接帰れば良かったのだが、なんとなく癖で会社に寄ってしまった。既に一部が消灯しているビルを、“なんだかんだ買い込んで荷物になってしまったお土産も置いておけるしいいか“と無理矢理納得して、進む。
しかし、営業一課のオフィスに光が灯っているのが見えたところで、伏見は自分の足が早くなるのを感じた。
そう、会社に寄ったのはもう一つ理由がある。チームリーダーである御影はこの時期よく会社に残ることが多い。今日みたいにトラブルがあった日は特に。だから、もしかしたらと思って、会社に立ち寄ったのだ。
「御影さん?」
部屋に入るなり問いかけてみたが、返事はない。
自分のデスクまで進んで行くと、その奥にある御影のデスクで誰かが突っ伏しているのが見えた。覗き込むように顔を傾ければ、自分とは違うサラサラした黒髪が見えて、それを確認すれば自然と頬が綻んだ。
「御影さん、寝てるんすか?」
再度問いかけてみたがやはり返事はなく、代わりにスースーという寝息が僅かに聞こえてきた。
「伏見が戻ってきましたよー」
言いながら顔を近づけてみれば、普段は決して見られない無防備な寝顔が見えた。白い肌に長い睫毛…。本当に人形のように綺麗で、伏見は無意識のうちに手を伸ばしていた。
まず触れたのは髪。
「うわ、絹みてぇ」
思った以上に柔らかいそれに驚いて、感想が口を伝ってこぼれ落ちる。一緒に歩くと、身長差からちょうど頭が見えて、その度に少し触ってみたいと思っていた。もちろんそんなこと頼んだことも実行したこともなかったが…。
だけどもこんなに心地良いのなら、今度から怒られることは覚悟で頼んでみてもいいかもしれない「頭撫でても良いですか?」と。しかし、同時に「はぁ?お前、ついに頭おかしくなったのか」と睨まれるビジョンが再生されて、伏見はブンブンと顔を横に振った。
すると、その振動が伝わったのか、御影の長い睫毛がピクリと揺れ、僅かに目が開いた。
「あ、すみません。起こしちゃ…」
驚いた伏見が離れようとしたが、寝ぼけているであろう御影に腕を捕まれ、伏見はビクッと身体を揺らした。もしかしたら、髪を触っていたことに気づかれたのだろうかと、動揺が走り目を泳がせる。ここは早めに言い訳した方がいいかもしれない。
「すみません、御影さんの髪にホコリがついてたので、それで…」
「ふしみ…」
「は、はい!」
いつもよりも数段高い声で名前を呼ばれて、伏見の声もつられて裏返った。女性が寝起きの声の低さで悩んでいるという話をどこかで聞いたことがあるが、その逆だなとかどうでもいいことを考える。
すると…
手がむにゅっとした何かに触れて、伏見は身体を一気に硬直させた。
手に押し付けられるように触れた唇。だが、当の本人はキスしている自覚はないだろう。枕に顔を押しつけた。おそらくそんな程度感覚。
その証拠に、今度は頬を伏見の手のひらに寄せて、スリスリと触れてきた。
つり目気味の大きな目が焦点の合わないままぼんやりと伏見をとらえる。そして、そのままとろんとさせた表情で微笑み、呟いた。
「ふふ…おかえり」
「ーーー!」
そして、コトンと頭を机に置くと、混乱した伏見を置き去りに、御影はスヤスヤと再び眠りについた。
*
何が起こったか、わからなかった。
夜中、寝静まった街を駆けながら、伏見はさっき見た光景を何度も思い出していた。「おかえり」と言いながら微笑んだ上司はいつもとは全く違う表情をしていた。寝ていたからなのか、ほんのり桃色に染まった頬。水分を多く含んだ瞳。綺麗な弧を描く小さな唇。いつも仏頂面がデフォルトである御影にはあり得ない現象だった。
あまりに無防備で子供のような純粋無垢な姿に、庇護欲となぜか強烈な劣情を抱き、伏見はたまらず逃げ出した。
そのままあの場に留まれば、とんでもないことをやらかしそうで、怖くなったのだ。
「は…、は…、…なんだ、これ…」
会社から家までは、電車で二駅の距離。いつもなら、電車で移動している伏見だが、今は電車に大人しく乗る気分にはなれず、こうして走り続けていた。発散させないとどうにかなりそうなのだ。強く脈打つ心臓は、きっと走っているからなだけではない。
「心臓…、痛い、…苦しい」
助けを求めるように気持ちを吐露してみたが、心臓は痛いまま。それどころか、「ふしみ…」といつもより高い声で呼ばれた声を思い出して、また動悸が早くなり、伏見は小さく舌打ちをした。
*
朝から、例のクレーム社長のところへ直行していた伏見は、正午前に会社に着いた。最初はもう契約をやめると言っていた社長も伏見と喋る間に落ち着き、前担当である伏見に戻してくれという要求で収まった。
予想どおり、現担当とのちょっとしたやり取りで気に食わないことがあり、そこから、話が拗れたらしかった。
…めでたし、めでたし。だが、伏見はそれどころではなかった。クレーム対応もそれなりに気合いがいったが、伏見の意識は朝から違うところにあった。もちろん仕事中は真剣に取り組むのだが、ふと気を抜くと思い出してしまい、伏見は胸を叩いた。
「静まれ、静まれ…」
どんどん、と胸を叩きながら、呪文のように唱えてみたが、もちろん効果はない。そんなことをしているうちに、いつの間にか営業一課の部屋の前に着いてしまい、伏見は立ち止まった。
「……」
早退という二文字が頭に浮かんだが、そういうわけにもいかず、伏見は諦めて一歩足を進めた。すると、
「伏見!」
突然後ろから声をかけられて、大袈裟に身体が飛び上がった。少し高めの良く通る声。聞き間違えるわけがない。
「御影さん…、おはようございます」
どうにか笑顔を作り振り返れば、昨日とは違う、いつもの上司が立っていた。だが、安心したにもかかわらず、また心臓が煩く騒ぎ出して、伏見は顔を歪めた。
「おはよ。クレーム対応お疲れ。お陰で助かった」
「あ…良かったです」
「お前、どうした。クレームも解決したのに、テンション低いな」
黒目勝ちな瞳が下から覗き込むようにしてこちらを見る。
「そ、そうですか?僕はいつも通りですけど」
「もしかして、熱か?昨日、出張だったし…」
そう言いながら御影が手を伸ばしてきて、伏見は飛び上がった。
「御影さ…、何して」
「何って熱図ろうかと…」
「だ、大丈夫です!本当に大丈夫ですから!」
そんなことを今されたら、原因不明の心臓の痛みで倒れてしまうと思いながら全力で拒否すれば、御影は「なんなんだ」と言いながらも手を引っ込めてくれた。
「それはそうと、お前昨日会社来てたなら、起こせよな」
危機が去ったとホッとしたのもつかの間、また心臓に悪い話題になり、伏見はぎくりと身体を揺らした。しかし、どうやら当の本人は寝ぼけて覚えていなかったらしく、それには伏見も肩をなでおろした。
「すみません、お疲れのようだったので…」
「お前のことだから、一度会社に寄るかもしれないと思って、待ってたのに…」
「え!?」
思わず、大きな声が出た。もしかしたら、自分のことを待っていてくれていたのかもしれないと昨日も思ったが、改めて言われると、心が踊る。
「昨日電話のとき様子が可笑しかっただろう」
「あ、いや…。そ、そうですか?」
業平と言い合いをした直後だったからだろう。知らず知らず態度に出てしまっていたのかもしれない。
“顔が綺麗なやつはそれだけで得だよな”
得かどうかは別にして、本当に綺麗だと改めて思う。身長差20がセンチあるせいで、いつも御影は伏見のことを見あげる形になり、自然と上目遣いになる。このアングルで見られるのは伏見の特権だが、今は直視できなくなっていた。
「やっぱりおかしい…」
なかなか目が合わないことに、疑問を感じたのだろうか、御影が一歩距離を詰めてきた。
慌てて、二歩下がれば壁にぶつかった。
「お前、どうした?」
もう、限界だ。接近警報が脳内でガンガン鳴っている。
「いえ、とにかく、大丈夫なので!仕事頑張ります!失礼します!」
限界突破した部下は、ポカンと口を開けた上司を置いてきぼりにして、一目散に逃げ出した。
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