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第4話

 その日以降、伏見は御影を避け続けていた。  御影の外出時を狙って会社に戻り、御影が戻る頃にアポを入れ外回りをする。  これだけあからさまにすれば、おそらく御影にも気づかれているだろうが、繁忙期だということも相まって、特に咎められることもなく、そんなこんなで間もなく数週間が経とうとしていた。  しかし、それだけ避け続けたにもかかわらず、伏見の心臓が元に戻ることはなく、むしろ悪化の一途を辿っていた。  胸の痛み、動悸、息切れ。まるで重篤患者のような症状だったが、伏見はその原因から無理矢理目を背け続けた。 そんなある日ーーー 「…え?」  言われたことを理解することができなくて伏見は思わず口をポカンと開けていた。頭が痛い。緩慢になった思考をどうにか働かせる。  部長は今、なんと言った? ーーー御影の課長への昇進が決まった  そして… ーーーそれに伴い残念だがチームリーダーは継続することができなくなった *  呼び出された小会議室に入るなり、窓際に立っていた御影がこちらを向いた。 「伝えるのが遅くなって、悪かった」  避けていたのが嘘のことのように、今は目が合っても、心臓は一定のリズムを静かに刻んでいた。至って冷静。それどころか身体の芯が氷のように冷たくなっているような感覚に伏見は陥っていた。 「言ってほしかったです」  低い声が淡々と口から出る。 「…ああ、すまない」  申し訳なさそうに、目をそらしながら言った御影を見て、伏見は物悲しそうに笑った。さっき、部長が言ったことはもう覆らないのだと、頭の隅で理解した。優秀な御影が出世していくことは当たり前のことであり、何も驚くことではない。なのにずっと二人でタッグを組んで働いていけるのだと、どこかで楽観視していた。そんな訳がないのに。  窓際まで足を進めれば、いつものように上司を見下ろすアングルになった。 「御影さん。犬って突然捨てられたらどうなるか知ってますか?」 「は?」  意味がわからなかったのだろう、眉を寄せた御影が顔を上げた。 「俺、御影さんの番犬って言われたりしてるじゃないですか。だから、どうなっちゃうのかなって。ほら、うさぎは寂しいと死んじゃうとか言うから」  おそらく今自分は、ひどく情けない顔をしているのだろう。飼い主の気を引きたくて、耳も尻尾も垂れさせて、今にもクゥンと鳴きそうだ。  しかし、そんな部下に御影は優しくはなかった。バシッと胸をたたかれて、僅かによろめく。 「伏見、いい加減にしろ。甘えるな」 「……久しぶりに怒られちゃいましたね。すみません。頭冷やします」  人たらしと言われる自分の最大のあざとさを終結させても無理なのであれば、諦めるしかない。  簡単に絆されたりしない優秀な上司だからこそ、慕ってここまでやってきたのだ。その信頼を崩すことはしたくなくて、伏見はもう一度謝ると、大人しく会議室をあとにした。 *  当たり前の話だが、ひとつのグループや組織のトップと次席とでは、求められることの大きさがまるで違う。判断力や決断力が高いレベルで求められ、部下の失敗は責任という形で自身に降りかかってくる。そんな中、本社所属である営業一課の主力チームという重圧にもかかわらず、常に一位を取り続けていた御影の凄さを伏見は改めて感じていた。  だが、いくら御影が素晴らしいリーダーだったとしても、御影がいなくなったからといって、このチームを失速させるわけにはいかない。決意のもとチームリーダーの仕事を始めれば、実際甘える暇や弱音を吐く暇はあるはずもなかった。  だからその日、営業課のオフィスで御影と二人っきりになったのは、本当に偶然だった。就業時間をとっくに過ぎた時間。今まではこの時間まで仕事をするのは御影と伏見くらいだったが、急な人事異動などで最近は周りも慌ただしく、この時間でも誰かしら残っていることが多くなっていた。  ただ、前回二人で会ったのが、会議室で「甘えるな」と一蹴された時だったので、伏見は気まずくて、身を潜めるように背中を丸くして仕事をしていた。    互いにキーボードを叩く音だけを響かせ続けること数十分、先に声をかけてきたのは、御影からだった。 「よお」 「…お疲れ様です」  カラカラと座ったまま椅子のキャスターを転がして隣までやってきた御影に目を合わせずに挨拶をした。  御影の方から何か話があるのかと思ったが、そうでもないのか、御影はただ横から作業をする伏見を見つめてくるだけだ。 「……どうですか、課長職は」  挨拶の後の僅かな沈黙に耐えかねて、先に口を開いたのは伏見の方だった。手を止めて質問をしてみる。 「どうも、何も。まだよく解ってない」 「そうですか」 「…伏見がいなくなった俺は扱いに困るらしい。コントローラーがなくなったって騒がれている」 「コントローラーって…皆さん誤解してますね」  御影は確かに昔から我が儘に見られがちだが、それは普通の人が囚われてしまっている常識から逸脱した答えを選ぶことがあるからだ。それは、常人から見れば時に意味不明に映ることもあるのだが、その選択がより大きい利益を生むところを伏見は何度も見て来た。自分はその選択を周囲に理解してもらえるためにサポートをしていただけだ。 「俺は当たってると思うけどな」  自嘲的な響き。珍しく弱っている気がして、伏見は御影の方をゆっくりと見た。相変わらず整った小さな顔は健在だ。だが… 「顔色が悪いのは、酒の…日本酒のせいですか?」 「……ああ、昨日は結構飲まされた」  御影の目が一瞬、驚いたように丸くなった。なぜ、酒の種類までわかったんだと、そんなところだろうか。 御影の昨日の商談相手は確か日本酒が好きな取締役がいたはずだ。伏見も御影と共について行ったことがある。それに、一見御影はオールマイティーに飲めるイメージを持たれているが、実際は日本酒は弱いというのを伏見は知っている。二年間べったり一緒にいたのだ。気づかないわけがない。 「いくらでも躱す方法はあったでしょう。らしくないですよ」  少し語気を荒げて言えば、御影は降参するように肩をすくめた。 「それができてたのは、お前がいつも隣で上手く誘導してくれていたからだよ。……そういうお前はどうなんだ。チームリーダー」  質問を返されて、話を変えられた。酒のことをもう一度注意しようとしてた口を閉じる。 「そうですねぇ…。チームリーダーとしては僕もまだ手探りで…。そう言えば、御影さんが抜けたことで、今がチャンスだと全国の猛者たちが天下をとろうと躍起になってるらしいことは聞きました。御影さんが抜けた関東の営業一課は怖くないらしいです」 「お互い散々だな」 「ですね」  向かい合って、クスクスと笑う。久しぶりに笑った顔を見た。あの日の剣幕が嘘のように、心に居座っていた頑固な氷が溶けていくような気がした。カランカランと音を立てて、氷の山が崩れていく。 「この間はすみませんでした」  気がつけば、自然と謝罪を口にしていた。しっかりと向き合って、頭を下げる。  すると、御影が心を吐露するようにポツリポツリと話始めた。 「俺も、すまなかった。…言おうとしたんだ、本当は。でも、後回しにしてしまった…。お前の反応を見る勇気がなかったんだ。顔が曇るのは見たく無かったし。…笑顔になられても、それはそれで、寂しいのは俺だけかとか思ってしまいそうで」 「御影さん…」  気がつけば伏見は口の端を上げていた。嬉しくて、思わず惚けてしまう。自分のことをそんなに考えてくれたのかと、胸が熱くなった。こんな風に自分の気持ちを話してくれたのは初めてかもしれない。 「結局、もっと酷い顔をさせてしまったけどな」  氷解するとは、こういうことを言うんだろうか。冷たく硬い氷が溶けて、春が来た。御影の申し訳なさそうに微笑む表情が心に染みて、じんわりと熱が広がった。 「…ねぇ、御影さん」 「なんだ」  椅子のキャスターを滑らして今度は自分から近づいた。膝が当たってしまうギリギリ手前で止める。かなり間近で御影と目があったが、距離をとられることはなかった。 「俺のチームが一位の売上継続して、プレゼンコンテストでも一位取ったら、御影さんにも利益ありますよね」 「そりゃな。でも、編成され直されたばかりでそれは…。プレゼンコンテストは去年も一位は取れなかっただろ」  御影の言うことは最もだが、可能性は十分にあると伏見は踏んでいた。去年のコンテストは伏見が主導となり、三位入賞を果たしている。今年はそれ以上の結果…優勝を元々狙うつもりだった。  御影が高い目標をかかげ、それは無理ではないかと伏見が言うのがいつもの定番。だが今回は立場が逆転したようで、なんだか嬉しくなって伏見は口角を上げた。 「売上と社内プレゼン大会。もし、どちらも一位取れたら、ご褒美が欲しいです」  ご褒美を何にするかも、考えないまま伏見は口にしていた。仲直りできたことへの安堵と喜びから勝手に飛び出た言葉だったが、まぁいいかとそのままにすることにした。 「ご褒美…?」  御影が首を傾げ、考える仕草をした。長いまつげが揺れ、小さな唇が僅かに開く。  それに誘われるように伏見が御影の椅子の肘掛けに手をつき腰をあげ、覆い被さるように上から御影を見下ろした。  何事だろうと言うように少しつり目の大きな瞳がパチパチと瞬きしながらこちらを見つめてきた。 「ふしみ…?」  ゆっくりと名前を呼ばれれば、出張から帰ってきた日のことを思い出して、伏見の心臓が大きな音を立てた。あの時と違って、御影にはしっかり意識があると言うのに、自分は何をしようとしているのか。  無意識のうちに手を伸ばし指で輪郭をなぞる。本当に同じ男なのだろうかと思うほど滑らかな肌に触れてしまえば、もう、我慢などできるはずもなかった。 「…っ」  触れるだけのキスを落とせば、至近距離で目が合った。ゆらゆらと揺れる潤んだ瞳が、あまりにも綺麗で、息を飲む。どの宝石よりも美しいそれから、目を離せない。  そして、その瞬間理解した。この気持ちは恋だと。  いや、本当はとっくに解っていた。ただ認めたくなかっただけだ。  目線を少し落とせば、驚き過ぎて開いたままになっている唇が見えて、思わずもう一度塞げば、ようやく状況を理解したのか、御影が抵抗するように大きく身体を捻った。それを、押さえ込むようにして、啄むようにキスをすれば、くぐもった声が御影から漏れて、伏見をますます興奮させる。  柔らかい唇をもっと味わいたくて、舌を差し込んだ。御影の抵抗を無視して、舌を絡めれば二人きりのオフィスに水音が響き渡る。 「は…御影さん、可愛いすぎ…」 「…ん、…ッ、は…ふし、み」  いつも仏頂面がデフォルメの上司は案外快感に弱いのか、背中に指をはわせれば、それだけでビクビクと身体を揺らし、声を漏らす。桃色の頬、濡れた瞳、熱い吐息。それらが順繰りに、または同時に伏見の劣情を煽り続ける。  しかし、永遠に続けられるかと思われた行為は、伏見が御影のシャツの中に手を入れた瞬間、 「…!…ふし、…ん、やめ…!!」 ガリ! 「痛ッ!」  御影が伏見の唇を思い切り噛んだことにより、終わりを迎えた。 は…、は…、と互いの呼吸を整える音がやたら近くに聞こえる。 「すげ…初めて唇噛まれた…」  唇を舌でなぞれば、鉄の味が広がり、痛いはずなのに、伏見は無意識に笑みを浮かべていた。 「お前…何して…!」  対する、御影は濡れた唇を拭くこともせず、怯えるように身体を縮こませていた。  普段とは違うその弱々しい扇情的な姿にごくりと喉を鳴らしたが、流石にこれ以上すれば本気で嫌われかねないと、どうにか理性が働いた。 「すみません。おさえられなくて。ご褒美は…、これの続きをするってのはダメですか?」 「ダメに決まってるだろう!」  頬を赤く染めたまま怒鳴られても、正直怖くはなかったが、ダメだと断言されて、伏見は肩をガックリと落とした。 「そっかぁ…ダメか…」 「おい、伏見。俺をからかっているなら…」 「だったら一位とったら勝手に実行します!それならめちゃくちゃ頑張れます!」 「はぁ!?」  そうだ。それがいい。御影は仕事第一でそして律儀な男なのだ。今回はいきなりだったから抵抗されてしまったが、理由をつければ絆されてくれるかもしれない。 「御影さんは、その時は諦めて、罰ゲームだとでも思って下さい」 「なに言って…」 「じゃあ!」 「おい!伏見!!」  元気よく部屋を飛び出せば、御影の焦った声が追いかけてきたが、伏見にはもう聞こえていなかった。

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