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氷谷桃李3

 お兄ちゃんだからりうは俺に譲るのが当たり前、お兄ちゃんだからりうが俺に優しくするのが当たり前、お兄ちゃんだからりうが俺に対して不満に思うのはおかしいこと。  俺はりうからいろんなものを意図的に奪っていた。  思い返すと子供の独占欲だった。  氷谷りうに自分だけを見て欲しかったからりうの家を、部屋を、乗っ取った。  優しくお人好しな氷谷りうの両親が欲しかったんじゃない。氷谷りうが欲しかったから血の繋がった母を捨てた。  父親は自分の妻である俺の母を愛しているから不幸になることはないと思っていた。  折り合いが悪いといっても一方的に疎まれていると感じている俺の被害妄想かもしれない。  りうと一緒にいたいという無意識の願望が父親に愛されていないという発想に繋がったのかもしれない。    力技で自分の居場所を作り出して俺はりうを手に入れた。弟という立場でも誰より近い場所だ。それで幼い俺は満足していた。  そのくせ時間が経つと自分の感情が分からず迷ってその場所を放り出したのだから最悪だ。    問題はりうの味覚障害であり俺の自分勝手な行動でりうをかき乱していたという事実はこの時は直接的な関係はなかった。    中学の多感な時期とまとめられる年齢で起こったストーカー事件。  これは氷谷りうの中で決定的なものとして刻み込まれてしまっただろう。  泣けばいいのか笑えばいいのか、もう分からない。    味覚障害になった原因はストーカーがりうの食べ物に何かを混ぜていたというところから始まる。  得体のしれない手紙や私物がなくなったりすることは無視していたらしい。  それだって誰にも相談できなければ怖くてストレスが溜まるだろう。  りうは俺と違って内に溜め込む性質がある。  俺と違ってではない。今までずっとりうが言う前に俺が発言したり、りうが言おうとすることを妨害し続けていたのだ。  一つ年上でしかないりうが俺の兄として暮らしていて不満が溜まらないわけがない。  それでも俺はりうから愚痴や文句などを聞きたくなかった。  いつも先にりうが思うだろう苛立ちなんかを例文にして口に出す。それに「お兄ちゃんはそんなこと思わないよね」と付け足せばりうはもう何も言えない。綺麗で優しくお人好しで本人も自覚的にそうなろうとしたからこそ、りうの言葉は死んでいく。俺が殺し続けた。    食べ物に何かを混ぜられたという疑念を氷谷りうは口に出来ない。    俺たちの通う中学には弁当の日というものがあり、毎週水曜日は給食が休みで家族との交流としてお弁当が推奨された。  もちろん共働きの家庭は面倒だと思うお弁当の製作だが家庭環境が見て取れる。生徒の間での話題作りや女子は母親と一緒に弁当を作るというコミュニケーションにもなるという。いつもコンビニ弁当の生徒は教師がそれとなくチェックをするのだ。    家に帰らない俺のためにりうは弁当を水曜日に二つ持ってきて俺を探して手渡すか俺の知り合いに渡してくる。  りうと顔を合わせられないのにりうに気にされているという状況に満足する俺は最低だった。    そして、この環境こそが悲劇のきっかけになった。  最初から最後まで俺さえいなければ氷谷りうは何の不安も不満もなく幸せに暮らせたのだろうという、それが結論になる。    水曜日の弁当、そこに入れられた異物。  りうははっきりとは口にしなかったが腐ったような、気持ちが悪くて吐いたという表現から精液か何かなんじゃないのかと思う。  それが一度だったのか何回か続いたのかは知らない。  りうはそれを弁当を作った自分の母に言えなかった。  それだけだって相当のストレスだろうが、自分の母が腐ったものを食べさせていると疑うこともつらいだろう。    りうは誰かを疑ったり責めたりすることをしなかった。出来なかったのかもしれない。  自分の舌がおかしい。そういう結論で自分の心を追い詰めていった。  そして、味覚障害になった。    本当に味を感じないのか自己暗示が強すぎて味を感じないと思い込んでいるのか分からない。  俺が無理やり言わせなければりうはストーカーのことも弁当のことも自分の異常も何もかも誰にも言わずに抱え込んだのだろう。りうは俺よりも一つ年上でしかない。それなのにそこまで自分を抑えこむのはもはや普通ではない。歪み切っている。    そして、現実はいつも想像よりも残酷だ。    仲間の力を使って調べたストーカーと対峙したあの時にりうを連れていく必要はなかった。  りうの問題を解決する俺を見て欲しかっただけだ。  今までの至らなさを払拭したかった。    その結果が氷谷りうをズタズタに切り裂いた。   『……間違えた』    溜め息を吐きながらストーカーはそう言った。  最初に俺を見て嬉しそうな顔をしたところからおかしいと思っていた。  りうに対しての行為を俺が並べ立てると納得したように頷きながらそいつは「間違えた」と口にして弁解をした。  俺に対しての弁解だ。   『ぼくはそのガラクタみたいなお人形に興味はありません。桃李くんが口にするお弁当だと思ったから興奮したし、桃李くんが触れたものだと思ったからボールペンを取ったし、桃李くんの着ているものと一緒に洗われたハンカチだから貰いました。手紙だってお兄さんに渡した方が桃李くんの元にちゃんと届くと思ったから渡しただけでお兄さん宛だなんて書かなかったじゃないですか』    ストーカー犯は半年ほど前に街で絡まれているところを助けた同級生だった。  俺は顔も覚えていない。教室で近い席だと言われても隣の席の人間すら覚えてはいない。   『お兄ちゃん、自分が愛されてると思ったの? 桃李くんと似ても似つかない面白みもないクセに……ちょっと、自意識過剰なんじゃないですか?』    りうの耳を塞いでやりたかった。  ずっと怖がって不安でいたそれが自分に向けられたものではないという事実だけでも痛いだろうにこの言われよう。  何も思わないわけがないのにりうは微笑んで「そうだね」と言って去って行った。  仲間にストーカーの対応を任せて俺はりうを追った。  放っておいたら死ぬんじゃないのかと心配になったのだ。    結論だけ言うのなら氷谷りうは自殺も自傷も特にしていない。  ただ、どこか壊れたような歪みがどうしてもその微笑みの中に見えた。

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