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第八章 高潔な兄公子テオドール

 その数日後。アステア公国から、ふたりの公子が到着した。  来賓を迎える謁見室。  高いアーチ型の天井には精巧な組木造りの模様と、高名な画家の描いた宗教画が飾られている。  窓はモザイクガラスで花や蝶を模しており、明るい太陽の日差しがまばゆく降り注ぐ。  細やかな刺繍が施された赤いじゅうたんが伸びる先に、過剰な装飾の玉座がある。  その玉座にふんぞり返るアルヴァンとヘラの前で、兄弟公子は片膝を床につき恭しく頭を下げていた。  玉座の後ろでなりゆきを見ていたリーンハルトは、彼らに視線を向ける。  兄と思わしきほうは、きっちりと櫛を入れた黒髪を後ろに流していた。  アステア公国の紋章が入った緋色のマントに、髪の色と同じ黒い軍服を着用している。  金糸の縁取りと同じく金の肩章、フラジュールが彼を雄々しく見せていた。  その後ろで膝をつく栗色の髪をした小柄な少年は、マントを着用せず黒の軍服姿で同じ姿勢を取っている。 「そなたたちがアステア公国の兄弟公子か。名を名乗られよ」  アルヴァンがワインを傾けながら尊大な口調でそう申し渡すと、黒髪の青年がおもむろに口を開いた。 「アステア公国第一公子テオドールと申します。こちらは弟のアルフォンスです」  俯いているが明瞭でよく通る声だ。快活そうで爽やか、保護国の国王の前だというのに憶するところもない。 「面を上げよ」  アルヴァンが横柄な口調で命じると、テオドールとアルフォンスがゆっくりと顔を上げた。  思わずリーンハルトは息を呑んだ。なんと凛々しい青年だろうか。  漆黒の髪と目は意志の強さを語っていた。くっきりとした形のいい眉に、切れ長の二重。  高い鼻梁に、涼しげな口元。  十五歳と言ったか。テオドールは、少年から青年へと移行する途中の初々しさと男らしさを見事に兼ね備えていた。  体つきも大人になる一歩手前という危うさだ。逞しいが、まだまだ幼い印象もある。  そのテオドールの影に隠れてしまうが、アルフォンスも可愛らしい顔立ちの少年だ。  好奇心旺盛そうなくりくりとした大きな目が、じっとアルヴァンとヘラを見据えている。  誰からも好かれそうな甘い顔立ちに、リーンハルトも思わず好意を持ってしまう。  兄弟公子の神々しさに、リーンハルトは口を開けてぽかんとしてしまった。  どうやら、脇で控えていた兄たちも同じ反応のようだ。  興奮したアルヴァンが、玉座から軽く腰を浮かせた。  ヘラが手のひらで制したので立ち上がることはなかったが、その動揺は少なからず兄たちに影響を与えた。  ヘラと兄たちの目に、どす黒い嫉妬の炎が宿る。  謁見室が異様な空気に包まれた。  アステア公国から、兄弟公子の従者として同行した数人の男たちが、不安げな顔を見せた。  だが当のテオドールとアルフォンスは、動じることなく正面からアルヴァンを見据えている。  テオドールが手を差し出すと、従者たちが大きな黄金製の箱を持って前に出た。 「我が父アステア公主より、親愛なるアルヴァン国王へのお届けものでございます」  ふたりがかりで箱の蓋を持ち上げる。  中には溢れんばかりの宝石に、珍しい宝飾の剣などが収められてあった。 「ほう……見事だな。確かアステア公国は珍しい鉱石が発掘されるとか」  テオドールは箱の中から鞘に入った一本の剣を取り上げると、両手で添えて恭しく捧げる。 「はい。鉄より硬いウルツァイトという鉱石です。それを専門の刀鍛冶師が長い期間削って作った剣が、我が公国の名産でございます。どうぞお受け取りください」  アルヴァンはそれを取り上げると、鞘を引き抜き自らの髪をひと房持ち上げ当ててみた。  添えただけで髪がはらりと落ちる。 「おお。なんと見事な。礼を言おう」  テオドールが深く頭を下げる。 「ありがとうございます。若輩の身ではありますが、弟ともどもよろしくお願い申し上げます」 「うむ」  アルヴァンが嬉しそうにしているのを、ヘラも兄たちも食い入るように見ていた。  目線だけで何か合図を送ると、訳知り顔で頷いている。  ヘラが孔雀の羽がついた扇を真っ赤な爪で器用に開くと、そっと口元にあてた。 「こんなに素晴らしい贈り物の礼をしないといけませんわね。あなたたちのために面白い遊具を用意したのよ。早速楽しんでもらおうかしら」  それを聞いたテオドールが首を傾げる。 「遊具でございますか? せっかくですが、私も弟も子供ではありませんので……」  ヘラがすぐさまテオドールの言葉を遮る。 「あら? わたくしたちがそこまで愚かだとお思い? あなたたちが楽しめるものに決まっているじゃないの」  攻撃的な口調に、テオドールは言い過ぎたと思ったのか頭を下げた。 「申し訳ございません。口が過ぎました」  いつものヘラなら怒鳴りちらした挙げ句、警備兵に命じて拘束し何回も平手で叩いているだろう。  だが今日は、いやらしくニヤリと笑うだけ。リーンハルトは逆にそれが恐かった。 「いいわよ。でも女性に対する謝罪はきちんとしないとねえ?」  ヘラが傲慢な表情で手の甲を差し出す。テオドールは「失礼します」と言い立ち上がると、彼女の前に膝をつき、騎士のようにその手をとり恭しく唇をあてた。  蠱惑的な目でヘラを見上げる。 「お許しいただけますか? 麗しき王妃さま」 「もちろんよ。でも麗しいという言葉は、あなたに返しましょう。テオドール公子」 「テオドールとお呼びください」  彼は囁くようにそう言うと、再びヘラの手に唇を寄せた。  リーンハルトはテオドールがヘラにへりくだっている姿を見たくなくて、顔を横に背けた。  テオドールは処世術に長けているのだろう。そつのない行動で、アルヴァンに続きヘラの心までわしづかみにした。 「もう我慢できないわ。王よ。早速例の部屋に行きましょう」  ヘラが頬を紅潮させ、ウズウズした調子でアルヴァンに話しかける。 「そうだな。私も耐えられそうにない。この美形兄弟公子を思う存分可愛がってやらんと、どうにもこうにも気持ちが落ち着かぬ」  アルヴァンとヘラが立ち上がると、玉座の裏へと行こうとした。  その先は幾重にも重ねられたカーテンがあるだけで、あとは壁しかないはず。  そう思えたとき、リーンハルトの存在に気がついたヘラが、冷たい口調でこう命じた。 「リーンハルト! おまえは部屋に戻りなさい」 「え……私だけ……?」  リーンハルトの心の水面がざわりと波打つ。  アルヴァンとヘラの「可愛がる」は、絶対にいい意味ではない。       問いただそうにもテオドールたちを不安にさせるだろうし、何をどう訊いていいのかも判断つかない。 「さっさと出て行け。これからはアルファだけの時間となる。おまえでは力不足だ」  躊躇していると兄たちにもそう言われ、リーンハルトはしぶしぶ謁見室から出て行く。 「失礼します……」  扉から出る瞬間、横目でテオドールを見る。すると彼もリーンハルトを見ていた。  視線が交錯した瞬間、彼が鮮やかに微笑む。  心が吸い込まれそうなほどの笑顔に、リーンハルトはすっかり意識を奪われた。  思わず立ち止まってしまったところを、再びヘラに怒鳴られる。 「早く出て行きなさい! グズなんだから! ……声を荒げてごめんなさいね。テオドール。一番末の王子リーンハルトは間抜けな子でね……」  テオドールに悪口を吹き込まれ、リーンハルトは嫌な気分になる。 「いえ。とても繊細で美しいかたです」 「まあ。口が達者ね。あんな子にまで媚びを売る必要はなくてよ」 「媚びでは……」 「あの子は我がヴェンデル王家の恥晒し。構っては駄目よ」  テオドールは、ヘラに追随することも否定もせず無言で俯いた。  リーンハルトがこれ以上ここにいたら、ますます彼が返答に詰まってしまうだろうと思い、足早に部屋を出る。  だが廊下を数歩進んだところで、リーンハルトの胸中が嫌な予感で渦巻いていく。  あの美しい兄弟のことが気がかりで仕方がない。  ***    その晩、彼らを歓迎する晩餐会が中止になった。  それだけではない。到着した日以降、テオドール兄弟の姿がまったく見えなくなった。  彼らにあてがわれたはずの部屋へと趣く。:主塔(ベルクリートの最上階が、他国から訪れた国賓のための部屋だ。  言いくるめられたアステア公国の従者たちは、先に国へと戻された。  残留するテオドール兄弟は、この歪んだ王城できっと不安に違いない。  バスケットにいくつかの書籍と、菓子職人に分けてもらった焼き菓子を詰めて扉の前に立つ。  ノックをしてみるが、返事もなければ物音ひとつしない。  通りすがりのメイドに彼らのことを訊いてみると、思ってもみない答えが返ってくる。 「アステア公国の兄弟なら、ずっと国王陛下の部屋におられます」 「ずっと父上の部屋に……? この国に来てから、もう一週間経つけど……」 「はい。食事も着替えも国王陛下の部屋へ運んでおります。たいそうお気に召されたようです」  それだけ言うと、メイドは箒を手にとり掃除をし始めた。  呆然と立ちすくむリーンハルトを訝しそうに見てくるので、掃除の邪魔をすまいと、その場から離れる。  いくら高慢で下劣なアルヴァンでも、他国の公子にひどい真似はしないだろう。  その考えが甘かったと知るのは、そう時間はかからなかった。  このとき、テオドール兄弟についてもう少し深く追うべきだった。  リーンハルトは、あとで死ぬほど後悔することになる。  ***  あれから一ヶ月。結局、リーンハルトはテオドール兄弟の姿を一回も見ることはなかった。  さすがにおかしいと思い、夕食の席でアルヴァンにその件について問うてみる。 「そろそろ不審に思われるか。今夜から部屋に戻そう」  アルヴァンは薄笑いを浮かべながら、そう返してきた。隣でヘラも楽しそうに笑っている。 「そうねえ。じゅうぶん楽しんだことだし、いいのではなくって? 噂になってアステア公国から使者が来ても面倒だし」 「明日から夕食の席に同席させるか。一応国賓だからな」  それを聞いたリーンハルトは、安堵の息を吐く。  やっと彼らに会えるのだ。リーンハルトは心がときめくのを感じた。  翌朝。リーンハルトはテオドールたちの部屋へと趣く。  ノックをしたら内側から「どなたですか」という声が聞こえ、リーンハルトは心が高揚した。 「あ、あの……リーンハルトです」  震える声でそう返すと、すぐにギギ……と重い音がして扉が開けられた。  艶やかな黒髪に漆黒の瞳。男らしさを兼ね備えた端正な美貌に陰りが見え、それすらも彼の魅力を倍増させる。 「ごめんなさい。突然お邪魔して……。あの……」  テオドールはリーンハルトの顔を見ると、柔らかい笑みを見せた。  そのまま膝を折り、騎士が姫に誓いをたてるように右の手を心臓の上に置く。 「リーンハルト王子ですね。ご挨拶が遅くなって申し訳ございません」 「あっ……お願いだからかしこまらないで。立ち上がってください」  テオドールは面を上げると、不思議なものを見るような目つきでリーンハルトを見返した。  黒い目にリーンハルトが映っているのが嬉しくて、手を差しだし彼の手を握る。 「リーンハルト王子……?」 「リーンハルトと呼んでくれないか。君は私より三歳年上なんだから」 「いえ、そのような無礼な真似は……」  リーンハルトは首を振る。彼の手を引き上げるようにして立たせ、少し背の高い彼を正面から見据える。 「無礼じゃないよ。私もあなたのことテオドールと呼んでもいい? ヴェンデル王城にいる間だけでもいいんだ。友達になってほしい」 「友達ですか」  テオドールの目に一瞬不審な色が浮かんだ。だがすぐに感情を隠したのか、もとの黒色に戻る。  リーンハルトは彼の躊躇に気がつくことなく、会話ができたことが嬉しくて矢継ぎ早にいろんなことを話しかけた。 「そう。でも、私みたいなのが友達というのは、あなたにとって迷惑かな? もうわかっていると思うけど……私はヴェンデル王家でもみそっかすな存在だから」  テオドールが首を振る。そしてリーンハルトの手をぎゅっと握り返してきた。  そこから熱い血潮が流れ込んでくるような気がした。やはり彼の覇気はすごい。 「ありがとうございます。リーンハルト王子」 「リーンハルトと呼んで。リーンでもいい」  テオドールは微笑むと、小さく「リーン」と呟いた。それだけでリーンハルトの心がふわりと舞い上がる。 「嬉しい……」  リーンハルトが心の奥底からそう漏らすと、テオドールが黒曜石の目を見開く。  微笑むリーンハルトにつられるように、彼も嬉しそうに笑った。 「では私のこともテオと」 「はい。テオ。そうだ、今度一緒に王城の横にある湖に行きましょう。ランチボックスを用意してもらいます。できれば弟君のアルフォンス王子も一緒にいかがですか」 「いいですね。アルフォンスの調子が戻ればご一緒したいです」 「体調を崩されたのですか?」  年端もいかぬ王子が、たったふたりで異国に滞在しているのだ。慣習が違ったり緊張したりして精神的に疲労してしまったのだろう。  アルフォンスのことを気遣おうとしたら、部屋の奥から泣き声が聞こえてきた。 「うっ……うぇ……帰りたいよう……父上、母上……」  テオドールの眉間に皺が寄り、彼らしくない慌てた様子でリーンハルトの顔色を伺う。 「申し訳ございません。アルフォンスはまだ幼く、口にしていいことと悪いことがまだ判断できないのです。どうかこれ以上の罰は……」 「罰?」 「私に免じてアルフォンスをお許しください。罰ならいくらでも受けますから」 「何を言っているの?」 「え……」  リーンハルトにはテオドールの言葉が、さっぱり理解できなかった。  泣いている少年を見て、心配こそすれ罰をあたえるなんて考えは、リーンハルトに一切ない。 「母国を思って泣いているのでしょう? 当然のことだよ。彼の心を癒やしてあげられないかな」  テオドールが呆然とした面持ちでリーンハルトを見る。 「リーンハルト王子……いえ、リーン……あなたは……本当にヴェンデル王家のかたですか」  突然の質問に、リーンハルトは狼狽えてしまう。  彼に悪気はないかもしれないが、王家としての風格とか尊厳がないと言われたような気がしたのだ。 「う、うん。一応……。みそっかすだって最初に言ったよね? 確かに身体も小さいし出来が悪いかもしれないけど」 「そういう意味ではありません。あなたは……」  アルフォンスの泣き声が大きくなる。兄の姿が見えなくて不安になっているのだろうか。  リーンハルトは図鑑と焼き菓子の入ったバスケットをテオドールに渡した。 「これ、君たちのために持ってきたんだ。少しは気が紛れるといいけど」 「ありがとうございます」  テオドールはバスケットを受け取ると、切実な眼差しで見返してくる。 「堅苦しくしないで。お願い」 「はい。ありがとう、リーン」  アルフォンスの体調が思わしくないのなら、これ以上テオドールの時間を奪うのはまずいだろう。 「ゆっくり療養して。必要なものがあったら言ってね。用意するから」  扉を閉めようとしたら、奥から下着姿のアルフォンスが現れた。  リーンハルトの目が驚愕で見開く。 「うぇぇ……ん。テオ兄さん……痛いよぅ……うぇうぇ…っ……」 「アルフォンス……!」  アルフォンスの身体は傷だらけで、無数の血の筋が身体中を覆っていた。  テオドールが慌てて駆け寄る。着ているジャケットを脱ぐと、すぐさまアルフォンスの身体を隠すように巻き付けてしまう。  アルフォンスをしっかり抱きしめると、慌てた様子でリーンハルトにこう言った。 「アルフォンスが少々ケガをしてね。包帯を巻いている途中だったんだ。今度ゆっくりお話しよう。リーン」  疑わしい説明をしながらアルフォンスを自分の背に隠し、リーンハルトの視界から見えないようにしてしまう。  まるでそれが悪漢からアルフォンスを守るようで、リーンハルトの心がズキリと軋んだ。  そのテオドールでさえ、シャツ越しに血が滲んでいる。  会えた嬉しさで気がつかなかったが、彼の顔色は真っ青といえた。  それに多少ふらついているようにも見える。体調が悪いのに、わざわざリーンハルトと立ち話をしてくれたのだとしたら、とてつもなく申し訳なく思えた。 「邪魔してごめんなさい。これで失礼します……」  震える手で扉をパタンと閉じると、よろよろと数歩後ろに下がり壁に背をつけた。 「少々のケガ……? 全身血だらけじゃないか……」  身体中傷だらけのアルフォンス。あの傷は何回も見たことがある。  アルヴァンやヘラが粗相をした使用人に鞭を振るったあとにできる傷だ。  そんな傷がアルフォンスの身体に、あんなにもあるなんて。  そしてシャツ一枚になったテオドールにも、滲んだ血が……  リーンハルトは悲痛な声を漏らす。 「この一ヶ月間、彼らは何をされていたというんだ……!」

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